葛籠
「葉桜」の後のお話です。
話が前後していますが、ひとまず、このままにしておきます。
読みづらいですね…すみません。
見慣れた葛籠は朱のものに相違なかった。
「……沙珠か?」
睨みあげたはずの視線は、強い眼差しにはじき返された。白玖の金の眼は、葉桜の蒼を写して不思議に揺らめく。
「わざわざ聞きたいのかい?」
「……確認や」
葛籠が誰の手によって持ち出されたのか。そして、中に収められた何かの事。
「気づいているだろう?」
「質問に答えよし」
「言いたくないなぁと思って」
好好爺然とした仕草で背を向けると、白玖は梓の頭をくしゃくしゃと撫でる。
まるで子供のようにされている梓は、幸福そうに目を細めていたが、不安そうな瞳の色は変わらなかった。
「わたし、沙珠さまに叱られませんか」
見る間にアーモンド型の瞳の縁は、大粒の涙で溶け出した。
流石に白玖も困ったのか、千都世に助けを求めるように肩をすくめた。
知らんがな。
梓の狼狽えようと、白玖の意味ありげな眼差しで、大体のところは察した。
こっそり隠していたのは沙珠なのだろうし、その預け先が梓だった。それに、無体を働いた程の白玖。
「沙珠が、どうしてこれを持ってたん?」
「し…知りません」
またも、梓の頬を透明な粒が伝う。
「また泣かせた」
「兄貴は黙っとき……てか、そもそも泣かせたんは自分やろ」
膝の上の葛籠はただただ軽く、しかし千都世にはとてつもなく重かった。
朱が沙珠に預けたのだとしたら、どうして沙珠はそれを隠し、白玖は今になって千都世に知らせるのか。
兄貴が何したいんか分からへん。
「沙珠がここにこれを預けたんは、いつの事や?」
「朱さまが姿を消す前に、私に預けられました。朱さまの近くで、これを保管するようにと」
「沙珠がそう言うたんか?」
「はい。ですので、ずっと朱さまのお側におりました」
梓のその言葉に、少し嫉妬する。自分でも知らなかった朱の居場所を、沙珠は知っていたのだろうか。
蓋のあたりで心許なくぴらぴらしている札の切れ端を、千都世は弄ぶ。
「開けたんか?」
梓はぶんぶんと、千切れるのではないかというくらい首を振った。
「私のものに、鼠どもが手を出すとは思えませんし……お預かりした際にこの油紙で包んでからは、一度も開けておりません」
いつもは梁の上に隠してあるのです、と得意げに続けた。
天女の羽衣よろしく……か。
「封は解かれていたよ。初めから」
白玖が、何気なくといった風に口を出した。
「何で兄貴が知ってるん?」
.「……言いたくない」
いい歳して、言う事がそれかいな。
「もうええわ」と言い置いて、千都世は葛籠の蓋に手をかける。
白玖は変わらず、不思議な眼差しのまま、木々の間を通り過ぎる初夏の風に目を細めていた。
千都世には、中を見ても良い権利など一寸たりとてないけれど……。
蓋を持ち上げると、札がかさりと音を立てる。
梓と二人、息を顰めてその中を覗き込んだが、 最初に耐えられなくなったのは梓だった。 派手なくしゃみをしてから、半泣きの程で白玖の後ろに隠れた。虫除けの香の匂いを覆い隠すように、樟脳の香りがかなり強い。
中には染みの出来た和紙がひかれ、その端には樟脳の抜け殻と思われる小さな和紙の包み紙か散らばっていた。
「沙珠、こういうとこ徹底して……」
鼻に付く匂いに顔をしかめる。
紙屑を避け、表の和紙を退けるとそこに、それはあった。
樟脳の匂いに包まれて、大分年季の入った畳紙が現れる。
葛籠の中に入るよう半分に折られたそれは、すっかり腰をなくしてくったりとしている。中には薄い布の感触があった。
千都世は、地面に着かぬように葛篭と膝の上にそっとそれを広げた。
中から現れたのは、烏のような漆黒の薄絹。
「朱の、烏衣や……」
思わず口にしたが、もしかしたら茜のものかもしれないとも思う。
闇のように黒く染め抜かれた絹にはぬらりとした光沢があり、不思議な色合いだった。
陽の光の中でその黒は、紺青にも藍にも碧緑にも見えた。
透けるほどに薄く軽かったが、袷の羽織に仕立てられており、裏地にも薄い滑りの良い絹が当てられていた。
「見事なものだね」
興味なさそうにしていた白玖だったが、その美しさにひどく感心したようにため息をついた。
千都世も同感だった。
一見単純な平織りの織物だが、経緯の糸に微妙に違う色が使われており、角度を変えると見える色も変わる。それによって、まるで烏の羽根のような深い黒の不思議な色合いが表現されているのだ。
そして何と言っても、背や肩先、袂などにに入った、綴れ織のように見える幾羽もの烏の意匠が素晴らしかった。
その部分は、よく見ると天鵞絨の様に起毛していて、烏の黒が際立っていた。
どうやら刺繍ではなさそうだった。
烏の意匠の部分に織り込まれているのは、柔らかく小さな黒い鳥の羽のようだった。
「鶴の恩返し……」
思い当たる節がある。恩返しに鶴が織ってたやつや。
「ああ、鶴氅だっけ?鶴の羽を織り込んだ織物。これは、烏氅とでも言えばいいのかな」
その黒い羽は、烏のものに違いない。
梓は、鼻をすんすん鳴らしなら羽織の匂いを嗅いでいたが、そのうち一羽の烏を食い入るように見つめ始めた。
手の中で、何かの身じろぐ気配がして、千都世の肌が泡立った。
隣で梓も総毛立てている。
「冗談にしといてくれへんかな……」
思わず口にした言葉で、白玖も気づいたらしかった。綺麗な形に口角を上げて、さも楽しげに笑う。
丁度、千都世が手を這わせた先にいた烏が、その手から逃れるかのように羽を震わせた。
「逃げられるんじゃないよ」
白玖の言葉に合わせたかのように、羽織に織り込まれた烏たちが、一斉に羽ばたく。
しかしながら、羽織は勝手に飛んで逃げたりはしなかった。ふうわりと風を孕み、千都世の手の中で嵩を増しただけだった。
思わずといった風に伸ばされた白玖の手を、すかさず千都世ははたき落した。
「兄貴は取って食いそうや」
久々の陽の光に、嬉しそうに烏たちが騒ぐ。もちろん、羽織の中で。
織り目の中を泳ぐようにすいすいと飛ぶものもあれば、離れ離れだった相方を探すように嘴で互いを確かめているものもいる。
そんな微笑ましく長閑な光景を目の端に留め、空になったはずの葛籠の中を覗いた。
なければ良いのにと、思っていた。
けれど見つけてしまった。
「なんで、ここにあんねん……」
絞り出した自分の声に、我ながら泣きたくなる。
犯した罪を、記憶を、証明する。
茜に触れる、それだけの事すら許されない証拠が、ここにある。
木の間から抜け落ちたように注ぐ陽の光を、恨めしく仰ぐ。
白日に晒されるとは、まさにこの事か。
「無かった事には、してくれへんねんなぁ」
白玖が、そっと梓の耳を塞いだ。
それを、千都世は手に取った。
厚手の和紙に描かれているのは、形象化された文字。烏文字の熊野牛王苻。
表に貼られていたものと明らかに違うのは、裏に書かれた文字の墨跡が透けている事。
千都世は、裏に書かれた誓約の文言を、一語一句違えることなく空で言う事が出来た。
今でもそれは変わらない。
何一つ、忘れずにいる。
誓う神の名も、破った場合の事が書かれた罰文も。
記憶の通りのその文面が、兄の字には比べようもないが美しく柔らかい草書で書かれている事、その文字が茜の手である事、それから……。
その誓約をたてたのが、茜の愛した男だと言う事。
ぼたぼたと、意思とは関係なく溢れる涙を、力一杯拭う。頬を伝う事なく膝に落ちてくる水滴は、たちまち黒いジーンズをまだらな沁みでいっぱいにした。
その男は、千都世が殺した。
大事そうに羽織を抱えた梓は、千都世の様子に言葉をなくしていた。
梓の耳を塞いでいたはずの白玖は、いつのまにか彼女の両の眼を塞ぎ、梓は何も言わずにじっとしていた。
「姐さまには言うなや」
口約束など、何の拘束力もないけれど。
白玖に凄んで見せたが、当の兄は気にもしていないふりで、梓の髪の縺れを梳くのに夢中なようだ。
「お前はまず、殺した事を思い出すんだね」
見すかすような兄の言葉に、千都世は声を詰まらせた。
その通り、だった。
「なんで、そう思ったん?」
「聴いてばかりだね」
そう言う白玖は、どうせはぐらかすばかりなのだ。
「もう、ええわ」
「誰のために泣いたんだい?」
「……酷い事をした。それが嫌やっただけや」
「茜が死んでも、お前は泣かなかった」
「泣いたら生き返るんか?」
「朱が姿を消した時も、お前は泣かなかった」
「死んだ訳と違うし……て、沙珠に聞いたんか?会いにも来んかったくせに、良ぉ知っとる」
泣けへんかっただけや。そう悪態を吐く千都世を、白玖はしばらく黙って眺めていた。
そうして、言った。
「殺し足りないと、思ったんだろう?」
眼だけを覆われて、白玖の腕の中にいた梓が、びくりと震えた。
「お前は、悔しくて泣くんだ」
千都世には、それに答える言葉がなかった。




