秘密
「美味しい?」
「……すごく甘い」
もごもごと小さな種の歯ざわりを楽しんでいた永遠子は、兄の問いかけに無邪気に答えた。
「ぶふっ……。」
耐えきれなくなったように、何故か瞬一朗が吹き出す。
「え、何で?」
「永遠子ちゃん、口の周り……」
長い指の腹で、永遠子の口元をすくうように撫でた。
余りにも無造作に触れられたので、身を引くのが一歩遅れた。
いや、避ける必要もないのだけれど、耳の中が湯でも沸いたように熱い。
「ほら?」
兄の指先はほんのりと青黒く染まっていた。
「……!」
「どどめって口の中真っ黒になるの。昔、学校帰りに摘んで食べては服を汚して、母さんに叱られたなぁ」
「落ちないんだよなぁ」なんて言いながら、一人呑気にしている瞬一朗が恨めしい。
「先に言ってよ!」
永遠子は洗面所に駆け込んで鏡を覗き込んだ。
「んん?」
口元に黒いシミなどなかった。恐る恐る口を開けたが、ほんのり舌の上が濃紫に染まっている程度だ。
「お兄ちゃん!」
どすどすと音を立てて戻ってきた妹を、瞬一朗は嬉しそうに見上げた。
ちょっとだけ染みの着いた指先をひらひらと振る。きっと、先程実をつまんだときについたものなのだろう。
「いっぱい食べなければ大丈夫」
「すぐそうやって揶揄うんだから!」
ぷりぷりとしている永遠子は、怒っているというより恥ずかしかったのだ。
そんな事は瞬一朗にもわかっているようで、なんとも嬉しそうに笑う。
「可愛いからつい、ね」
手放しの溺愛ぶりに、怒る気も失せる。
その時、瞬一朗の手元の資料から覗く書付やら本のページが目に入った。
図書館で借りたらしい大きめな本や文献資料の間に、古びた紙が挟まれている。
丈夫そうな和紙に墨黒で描かれた文字のような絵のようなもの……。
「あれ?かわいい」
永遠子が声をあげたのは、その中の一枚に、可愛らしい鳥の絵が描かれていたからだ。
たくさんの黒い鳥が組体操のように並んで、何かの形を作っている。
「それ、何?」
「ああ……烏のお札」
「この鳥、カラスなの?」
「そう。だからこれは烏文字」
「うわぁ、読めないよ」
「『おからすさん』って言う熊野神社のお札だよ。熊野牛王苻って言って、今は熊野大社とかで頂けるものだよ。けど……昔は各地の熊野神社で貰えたみたい」
「お札って、神棚に飾ってある?」
「うーん。そうなんだけど、そうじゃない」
首をかしげた永遠子に、兄は嫌な顔一つせずに説明を続けてくれる。
「普通のお札としても勿論なんだけど、『熊野誓紙』といわれる、今で言う契約書として使われたようだよ。誰かと約束事を交わす時に、この札の裏に誓約文を書く。連判状とか……ああ」
そこで少し悪戯っぽく笑った。
「?」
「遊女がね、特別なお客さんと……仮初めではあるけれど結婚の約束をする為に使われたりしたみたいだよ」
「へええ〜」
どうやら永遠子は「遊女」については知っているようだった。知らなければ何でも聞く子である。
「で、嘘をつくと針千本飲ます……のは別の話だけど、この誓紙を使ってされた誓約は、熊野権現に誓うことになる」
で、どうなるか。
そこで、瞬一朗がちょっと声をひそめる。
「この権現さまの御使いが烏なんだけどね、誓約を破ると何故か烏が一羽死んで、約束を破った本人も血を吐いて死んで地獄に落ちるって言われてる」
「カラス……死んじゃうの?」
手元の誓紙の烏の図を、永遠子は思わず指先でなぞる。ふと、何故か霧彦の顔が浮かんだ。
「烏が死んでしまうのが何故なのか分からないけど、でもそれが可哀想だから約束を守るわけじゃないよ」
「ええ〜。烏、完全にとばっちりだよ」
永遠子は頬を膨らませた。
兄の方は、そんな永遠子の様子に目を細める。
「何でそんな烏贔屓なの」
「だって、カラスかっこいいじゃない」
「かっこいい……ねぇ。黒くておおきくて、怖かったりしないの?」
「全然。え、じゃあ、カラスが怖いから約束を守るの?」
「怖かったのは神罰の方だと思うよ。地獄思想の所為もあるだろうけど……あとは、自分のせいで烏が死んで、その罰によって神罰が下るって言う、ちょっと複雑な構造が怖いのかな」
瞬一朗は楽しそうだった。
「お兄ちゃん、大学でこんなこと勉強してたんだ」
「え?」
「ケーザイ学でもこんな勉強するんだね」
永遠子の呟きに、瞬一朗は少し戸惑うように言葉を詰まらせた。
「ああ、『一般教養』の授業もあるから、全部経済関係ってわけじゃないよ」
それが果たして「一般教養」に入るのかどうかは怪しいのだが、瞬一朗は黙っていた。
「ふぅん」
その時、永遠子の指先に触れていた札の一枚が、酷く古いもののようだと気づいた。
まだ白い面の他の札の間に見え隠れしている。それを、そっと抜き出そうとした。
「あ、瞬さん帰って来る前に、お風呂はいっちゃいなさいね」
急に兄っぽいことを言った瞬一朗が、その指先をとんと軽く留めた。
しかし、もうそれは、永遠子の視線の先に半ば引き出されていた。
それもまた、びっしりとカラスに埋め尽くされた牛王符だった。
指先に、ほんの少し静電気のようなものが走った。
永遠子の目に映ったのは、その表面に浮いた沁みのようなもの……裏に書かれた文字が滲んだようなその沁みは、赤茶けて、まるで乾いた血のような色をしていた。
そう思ってから、ざわりと背筋に鳥肌がたった。
慌てて兄の手から逃れるように手を引っ込めた。
「お風呂、行ってくる」
「うん」
ぱたぱたと、廊下の奥へ足音が消えると、瞬一朗はそっとその札を、他の札の間に隠すように滑り込ませた。
聞き慣れた、タイヤが砂利を踏む音。
しばらくして、知った気配が戸に手をかけるのを感じた。
「瞬、お帰り」
「ただいま〜。トワちゃんもう寝た?」
開口一番に妹の名が出たので、瞬一朗は頬を膨らませて見せた。
「お風呂入らせたとこ。で、可愛い息子は無視?」
「君はもう家を出たものと思ってますから」
瞬は悪戯っぽく舌を出す。
「そういえば、学校から改めて家庭訪問の案内が来てたよ」
先日の家庭訪問を、永遠子はすっぽかした。
そもそも、その連絡すら瞬は知らされていなかったのだ。
瞬一朗は永遠子から巻き上げた……と言うか、丸め込んで聞き出したのだが、その担任教師からの言伝の手紙を、雑紙のプリントと共に渡す。
「何か言ってた?」
不安そうに見上げる瞬に、ほんの少し苛立ちを覚える。
継母だろうと何であれ、怒っていい事だと、瞬一朗は思う。黙っていてはいけない事だから。
それを、瞬は永遠子に言えないでいる。
今のところ、瞬の再婚にはこれといった問題はないのだ。
目に見えては。
しかし永遠子にとっては、あり過ぎだ。親の再婚と、それに伴う引っ越しと転校。
急な生活環境の変化と、何より卒業目前での引越しは、永遠子を一人にしてしまった。
元々明るく人懐っこい性格なのか、永遠子はすぐに学校にも家庭にも馴染んでいるようだが……ストレスもあるはずだった。
出来たばかりの母と兄に、屈託無く笑う永遠子は、彼女なりに気を使っているのだと思う。それでも、その健気さはこの上なく愛おしい。
瞬と瞬一朗に見せる顔だけが永遠子の全てでは無いとはわかっているが、表向きは上手くやっていると思うのだ。
というか、瞬一朗たちが、永遠子の存在に救われている。
「何も言わないねぇ」
すっぽかしの理由は決して口にされなかった。
「嫌われてはいないと思うんだけどなぁ」
瞬が気にする一点は、それだけのようだった。何しろ永遠子を可愛がりたいらしい。そんな瞬を、瞬一朗は呆れながらも慰める。
「聡い子だからね、気を回しすぎてるってところもあると思うよ?」
それが上手くいくかは別問題なんだけど、と続ける。
「お風呂、私も入っちゃおうかな」
「……それは、やめときなって」
せめて合意のもと、行われるべきだ。
台所を覗いた瞬は、すぐに籠いっぱいの桑の実に気づいた。
「これ、金子のおばあちゃん?」
「よく分かるね」
「霧彦君が、今年のお手伝いだったみたいで、持って来てくれた」
永遠子の新しい友達の話は、既に瞬の耳にも入っている。
「へぇぇ。金子のおばあちゃんに目をつけられるとは、なかなか良い子なのかしら。霧彦君て会ってみたいわぁ。何処のあたりの子なんだろ」
田舎の事なので、大概の人間は親族か知り合いか、知り合いの親族か親族の知り合いである。学区内の子供の家なら、少し話せばあたりをつけるのは難しくない。しかし瞬一朗が子供の頃はともかく、小中学校と縁遠くなった今では、特定は難しい。
「大きな実ばっかり!ジャムにしようかな」
しきりと感心する瞬の目の端で、瞬一朗はちょっぴり不穏に呟いた。
「どどめ……」
「そういえば、苦手だったわね」
朗らかに、瞬が笑った。
ここ数話の順番が、これで良かったのかと…悩ましいところです。
瞬一朗は、けっしてロリコンではありません。念のため。




