番犬
お久しぶりです。
久々の更新です。
よろしくお願いいたします
白く、撚りのない絹糸のような髪が、さらに白い背中を滑り落ちる。
「朱先輩?」
見知らぬ背中を、暫し惚けたように眺めた。
見た事も無い、儚げな背中。
背の半ばまで落ちた鈍色の着物に包まれた細腰に、思わず唾を飲む。
その音で、霧彦は我に帰った。
「朱さま」
違うのはわかっているのに、呼ばずにはいられなかった。
今にも消えてしまう煙のようで、捕まえようと手を伸ばすのも憚られる。
社務所の戸に手をかけた時から、朱の不在を疑った時から、胸のあたりを冷たい手で撫でられているような嫌な気分だった。
頑なに朱の名を呼ぶ霧彦は、思いもかけず目にしたその美しいものが、きっと良いものではないと確信している。
「朱さま……桑の実を沢山頂いたのです」
ここに居るべきなのは朱なので、霧彦はそう呼ばざるを得ない。
闇の中で白い幽霊もまた、頑なに振り返らなかった。
汗ばんだ手を握った。
振り返るな……と、ただの幽霊ならいいと強く願ったが、ぼんやりして見えるのは鳥目のせいだと認めざるを得ない。
黙ったままの背中に、途方にくれて呟いた。
「朱さま、何処へ行かれたのです?」
そこで初めて、白い人影が身動いだ。
「朱は……何処へ行ったの?」
繰り返されたその言葉に、霧彦は怯んだ。
纏わりつくような、女の声。
暗がりの中、熾火のようにうに輝いたのは、紅い、二つの虹彩。
ほんのり色づいた桑の実のような唇の色は、残念ながら霧彦には見えなかったが、瞳の強い光に打たれて、そこで動けなくなった。見慣れない色彩の色に、目が離せなくなる。
「藍?」
思いがけず呼ばれた名は、霧彦をさらに困惑させる。
「オレは、とうちゃ……父上ではありません」
「ちちうえ?藍が父上?」
笑うみたいな声に、不快な色が混じるのに、霧彦は気づいた。
あなたは誰と聞きたかった。
「父をご存知なのですか?」
持ち前の生真面目さで、彼女に問いかける。
怪しく煌めいていた紅い瞳は、既に暗く光をなくしている。
目に付いたのは、彼女が着ている着物が、霧彦のよく知る朱のものだということ。
「おいで」
「おいでって……」
困惑した。
差し伸ばされた手は、小鳥か子猫でも呼びつけるかのようで、人の子を呼ぶにしてもぞんざいな扱いに感じる。
「烏の子が、こんな夜更けにふらふらと……『時次郎』並みの堅物の藍に似なくて良かったこと」
「トキジロウって……何?」
朱ならば、それが落語の「明烏」に登場する名だと教えてくれただろうが。
「小烏、名前は何と言うの?」
烏と呼ばれ、改めて自分の姿を確認する。
烏、ではない。
「霧彦です」
「素直で良い事」
「それだけが取り柄です」
霧彦が言うと決して冗談ではないのだが、相手は少し笑った。
「小烏、どうしてここに来たの」
聞いておきながら名前を呼ぶつもりはないらしく、霧彦は小烏のままだった。しかもその、気ままな物言いにどこか覚えがあった。
「あの……桑の実を届けに」
「陽はもう落ちたのに?」
「……はい?」
「陽が沈んでからは社に入ってはいけないと、朱は言わなかったの?」
「あ……」
そんな事を言われたような気もするが、来るなとは言われなかった。
そして何より、最近の朱はちょっとおかしい。
以前なら日が傾けば早く帰れと言わんばかりだったのに、最近では霧彦が帰り支度を始めると、何故だか心もとないようなそんなそぶりを見せる。
どうにも、あの狐の兄妹が付近をうろつき始めてからだと思うのだが……。
「小烏、早くお帰り」
払うように振られた白い手は蚕のように白く、失礼なその素振りにも、独特の美しさがあった。
「貴女は……誰ですか」
女の視線は、畳から離れない。
伏せられた瞼がわずかに震えて、涙が滑り落ちるのを、鳥目の霧彦は残念なことに見逃した。鳥目である。
「わからない」
「わからないって……どこからいらしたのです?」
じりじりと距離を詰めた霧彦は、恐る恐る彼女のうつむいた顔を覗き込んだ。
そこには、想像した通りのものがあった。
永遠子の兄とはまた違うが、朱とよく似た、綺麗な顔。そう、朱の頬骨を少うし削って、鼻筋を柔らかくし、顎のラインも気持ち華奢にすれば、ちょうどこんな顔になるだろう。
「ここに……ここにいたの」
美しい虹彩の色は、陰になって暗く沈んだまま。もう一度、それが紅く光るのを見たいと思った。
「朱さまは、いなくなったりなさいません」
女がかぶりを振ると、白い髪が頬を隠す。
「昨日もお会いしました。明日もお会いします」
なんとしても、彼女の興味をひきたくて、口にしたのは確証のない世迷い事だった。
何を言えばいいのか、さっぱりわからない。
「会えないのは、私だけ」
「朱さまはこちらに帰ってこられます。こちらで待たれたら如何です?」
「小烏、それは出来ないの」
途方にくれたその声は、夜更けに聴く子規の声のように身につまされる。
「どうして……」
霧彦を睥睨するように、強い眼差しが戻った。
はらはらと溢れる涙の跡が、蝸牛の道行きのように光っていた。
「朱に、会わせて」
紅い瞳は、いつか見た白蛇の瞳だと……その禍々しさそのものだと、その時気づいた。
それで、動けなくなる。
強張る口を、ようやく開きかけたその時、玄関の引き戸がなんとも言えない軽快さで引き開けられた。
「茜さん、いてはる?」
誰だっけ、この人……。
「千都世」
「あああ!あぶらげの君のお兄様!」
「か、烏小僧……」
なぜか朱のものらしき着流し姿の千都世は、戸口から顔を覗かせると実に嫌そうな顔をした。
「朱さまはあいにくのお留守です」
「用があるんは、朱やのうてそこの人」
千都世はふらふらと三和土に座り込む。
「え、お狐さま、奈良漬けの香りがします」
「お狐さま言うなや。奈良漬やのうて、酒臭い言うたらええやろ」
「また、呑んでるの?」
眉間にしわを寄せた女の方は、千都世とは面識があるようで、驚いた風もない。
頬に散った涙の跡は、もう乾いていた。
「てか、なんでこの子おるの……」
暑苦しいと言わんばかりの面相で、霧彦を指差すが、途中でその指を素直に下ろした。
「ああ、朱の差し金や……」
二日酔いにはまだ早いだろうに、千都世は三和土で頭を抱えた。
ペースを上げて、頑張ります……




