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烏の符  作者: 沼波
千都世
21/26

番犬

お久しぶりです。

久々の更新です。

よろしくお願いいたします

白く、撚りのない絹糸のような髪が、さらに白い背中を滑り落ちる。

「朱先輩?」

見知らぬ背中を、暫し惚けたように眺めた。

見た事も無い、儚げな背中。

背の半ばまで落ちた鈍色の着物に包まれた細腰に、思わず唾を飲む。

その音で、霧彦は我に帰った。

「朱さま」

違うのはわかっているのに、呼ばずにはいられなかった。

今にも消えてしまう煙のようで、捕まえようと手を伸ばすのも憚られる。

社務所の戸に手をかけた時から、朱の不在を疑った時から、胸のあたりを冷たい手で撫でられているような嫌な気分だった。

頑なに朱の名を呼ぶ霧彦は、思いもかけず目にしたその美しいものが、きっと良いものではないと確信している。

「朱さま……桑の実を沢山頂いたのです」

ここに居るべきなのは朱なので、霧彦はそう呼ばざるを得ない。

闇の中で白い幽霊もまた、頑なに振り返らなかった。

汗ばんだ手を握った。

振り返るな……と、ただの幽霊ならいいと強く願ったが、ぼんやりして見えるのは鳥目のせいだと認めざるを得ない。

黙ったままの背中に、途方にくれて呟いた。

「朱さま、何処へ行かれたのです?」

そこで初めて、白い人影が身動(みじろ)いだ。

「朱は……何処へ行ったの?」

繰り返されたその言葉に、霧彦は(ひる)んだ。

(まつ)わりつくような、女の声。

暗がりの中、熾火(おきび)のようにうに輝いたのは、紅い、二つの虹彩。

ほんのり色づいた桑の実のような唇の色は、残念ながら霧彦には見えなかったが、瞳の強い光に打たれて、そこで動けなくなった。見慣れない色彩の色に、目が離せなくなる。

「藍?」

思いがけず呼ばれた名は、霧彦をさらに困惑させる。

「オレは、とうちゃ……父上ではありません」

「ちちうえ?藍が父上?」

笑うみたいな声に、不快な色が混じるのに、霧彦は気づいた。

あなたは誰と聞きたかった。

「父をご存知なのですか?」

持ち前の生真面目さで、彼女に問いかける。

怪しく煌めいていた紅い瞳は、既に暗く光をなくしている。

目に付いたのは、彼女が着ている着物が、霧彦のよく知る朱のものだということ。

「おいで」

「おいでって……」

困惑した。

差し伸ばされた手は、小鳥か子猫でも呼びつけるかのようで、人の子を呼ぶにしてもぞんざいな扱いに感じる。

「烏の子が、こんな夜更けにふらふらと……『時次郎』並みの堅物の藍に似なくて良かったこと」

「トキジロウって……何?」

朱ならば、それが落語の「明烏」に登場する名だと教えてくれただろうが。

「小烏、名前は何と言うの?」

烏と呼ばれ、改めて自分の姿を確認する。

烏、ではない。

「霧彦です」

「素直で良い事」

「それだけが取り柄です」

霧彦が言うと決して冗談ではないのだが、相手は少し笑った。

「小烏、どうしてここに来たの」

聞いておきながら名前を呼ぶつもりはないらしく、霧彦は小烏のままだった。しかもその、気ままな物言いにどこか覚えがあった。

「あの……桑の実を届けに」

「陽はもう落ちたのに?」

「……はい?」

「陽が沈んでからは社に入ってはいけないと、朱は言わなかったの?」

「あ……」

そんな事を言われたような気もするが、来るなとは言われなかった。

そして何より、最近の朱はちょっとおかしい。

以前なら日が傾けば早く帰れと言わんばかりだったのに、最近では霧彦が帰り支度を始めると、何故だか心もとないようなそんなそぶりを見せる。

どうにも、あの狐の兄妹が付近をうろつき始めてからだと思うのだが……。

「小烏、早くお帰り」

払うように振られた白い手は蚕のように白く、失礼なその素振りにも、独特の美しさがあった。

「貴女は……誰ですか」

女の視線は、畳から離れない。

伏せられた瞼がわずかに震えて、涙が滑り落ちるのを、鳥目の霧彦は残念なことに見逃した。鳥目である。

「わからない」

「わからないって……どこからいらしたのです?」

じりじりと距離を詰めた霧彦は、恐る恐る彼女のうつむいた顔を覗き込んだ。

そこには、想像した通りのものがあった。

永遠子の兄とはまた違うが、朱とよく似た、綺麗な顔。そう、朱の頬骨を少うし削って、鼻筋を柔らかくし、顎のラインも気持ち華奢にすれば、ちょうどこんな顔になるだろう。

「ここに……ここにいたの」

美しい虹彩の色は、陰になって暗く沈んだまま。もう一度、それが紅く光るのを見たいと思った。

「朱さまは、いなくなったりなさいません」

女がかぶりを振ると、白い髪が頬を隠す。

「昨日もお会いしました。明日もお会いします」

なんとしても、彼女の興味をひきたくて、口にしたのは確証のない世迷い事だった。

何を言えばいいのか、さっぱりわからない。

「会えないのは、私だけ」

「朱さまはこちらに帰ってこられます。こちらで待たれたら如何です?」

「小烏、それは出来ないの」

途方にくれたその声は、夜更けに聴く子規の声のように身につまされる。

「どうして……」

霧彦を睥睨するように、強い眼差しが戻った。

はらはらと溢れる涙の跡が、蝸牛の道行きのように光っていた。

「朱に、会わせて」

紅い瞳は、いつか見た白蛇の瞳だと……その禍々しさそのものだと、その時気づいた。

それで、動けなくなる。

強張る口を、ようやく開きかけたその時、玄関の引き戸がなんとも言えない軽快さで引き開けられた。

「茜さん、いてはる?」

誰だっけ、この人……。

「千都世」

「あああ!あぶらげの君のお兄様!」

「か、烏小僧……」

なぜか朱のものらしき着流し姿の千都世は、戸口から顔を覗かせると実に嫌そうな顔をした。

「朱さまはあいにくのお留守です」

「用があるんは、朱やのうてそこの人」

千都世はふらふらと三和土に座り込む。

「え、お狐さま、奈良漬けの香りがします」

「お狐さま言うなや。奈良漬やのうて、酒臭い言うたらええやろ」

「また、呑んでるの?」

眉間にしわを寄せた女の方は、千都世とは面識があるようで、驚いた風もない。

頬に散った涙の跡は、もう乾いていた。

「てか、なんでこの子おるの……」

暑苦しいと言わんばかりの面相で、霧彦を指差すが、途中でその指を素直に下ろした。

「ああ、朱の差し金や……」

二日酔いにはまだ早いだろうに、千都世は三和土で頭を抱えた。


ペースを上げて、頑張ります……

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