鏡面
またもや更新が遅くなってしまいました。
こんなはずでは…と、幾度か呟きつつ。
どなたか、お読みいただければ幸いです。
曇り空は、今にも落ちてきそうなほどに湿気を含んで、日を隠していた。
烏と呼ばれた少年は、夏の日に電信柱の上で嘴を開けた姿のハシブトガラスのように、誠に情けない顔をしていた。
烏小僧が余りに気の毒だったのもあるが、それよりも何よりも収集がつかなくなるその前に、千都世はこの場を去りたかった。
「設楽くん、昨夜頭でも打ったんと違います?」
うふふと千都世が笑うと、烏小僧が小麦粉でも飲み込んだような顔をする。
千都世が瞬一朗の腕に手を添えて、有無を言わさず社務所へと引きずって行くのを見送ると、霧彦は永遠子に話を振った。
「……お兄さん、朱様に似てますね。」
「私もね、初めて会った時びっくりしたの」
二人はここ数日ですっかり仲良くなっていた。主に、霧彦の人見知りが解除されたためだが。
嫌な汗をかいた千都世は、苛立ったまま無遠慮に旧友の住まう社務所の戸を叩いた。感動の再会のやり直しも何も、あったものではない。
「朱くん、居てはる?」
居ないはずがない。しかし、気配はあるのに返事がない。
「入らさしてもらうえ?」
初めから勝手に開ければよかったのだ。どうせ、開ける気などないに決まっているのだから。
からりとガラスの嵌った戸を開けると、三和土の所にすっとした影が立って居た。鈍色の縞銘仙の単衣に、納戸色の帯を合わせた朱は、白い肌が際立って生気がない。
「いらっしゃい。」
おかえり、みたいな気安さで言うと、すてすてと部屋の中へ引っ込んでしまう。
仕方なく千都世は瞬一朗を玄関先に残し、お邪魔しますと一声かけてから、朱の消えた廊下の先へ進んだ。
換気扇の有る水場まで来ると、朱は両切りの煙草に口をつけ火をつけるところだった。
「とんだ不良烏やね。鼻がおかしくなるわ」
「ああ、ごめん」
朱は気怠げに一吸いだけすると、煙草をシンクに押し付け蛇口をひねった。
水の打ち付ける音が止まると、朱は千都世に目も向けずに言う。
「お茶でいい?」
「自分でしはるの?」
失礼だが、そう聞いてしまうのにも理由がある。出会った頃の朱は、神使の仕事以外は決してしなかった。別に良いところのお育ちであるとかそう言うのではなくて、根っからの不器用なため、主人に止められていたのだ。
「お茶くらいなら私でもできるんだよ」
薬缶に水を汲む朱は、やはり少しぎこちない。
「沙珠から羊羹持たされてたわ。烏小僧と食べや」
「ありがとう。命婦様によろしく伝えて。霧彦は出掛けてしまって……。」
「烏小僧やったら、鳥居のとこで会うたで。せや、連れがおるんやけど、上がらせてもらってええ?」
「連れ?」
「玄関とこに居るはずや」
「君は……」
朱の眉間にシワがよる。
はっきりしない態度はいつもの事だが、嫌そうなのは珍しかった。
「あかんの?その連れの事で話があるんやけど」
玄関を覗くと、三和土に腰掛け所在無げにしている俊一郎が顔を上げた。どうやらこちらの声は聞こえているらしい。
「千都世はいつも、私のことなんて御構い無しだもの」
朱の、子供じみたその言い方に千都世は声を荒げた。
「何やの、それ。意味がわからん。」
「私にだって……」
「何か用事でもあるのん?」
「……ないよ。」
「やろ?」
「だからって、その言い方はどうなの。もう少し気を使った言い方ができるだろう?」
「ほしたら、気いつかって大事に大事にしてたら、あんたは急に目の前から消えたり、音沙汰無くなったりしなくなるのんか?」
売り言葉に買い言葉。
そこで朱はぐっと言葉に詰まった。
会いたくないと、そう言うてくれたらこのまま帰ってあげてもええのに。
顔も見たないって、言ったらええのに。
憎まれ口しか出そうになかったが、堪えた。話を変えるのはそれほど難しくない。幸い話の種はいくらでもある。
「言いすぎたわ。かんにんな。何で謝ってるのかよぉわからんけど。」
「わかってて言うんだからたちが悪いよ」
「……まだ言うか」
呻くように呟き、深く、息を吸った。呼吸を整え、話を変える。こういう会話にはまり込むと、朱はたちの悪いひつこさを発揮する。
「烏小僧な、化けきれてへんで。連れが烏や言いよった。」
もじもじしながら様子を伺う瞬一朗を指して言った。朱の監督不行き届きや。
どうやら自分が話題にされていると気づいたのか、瞬一朗が顔を上げる。
朱は初めて興味が湧いたというように、瞬一朗に目を向けた。
その時初めて、正面から彼の顔を見たのだ。それがわかった。
「お邪魔……してます。」怯えたような口調で瞬一朗が言う。
鏡を、覗いているような感覚かもしれない。
「朱?」
口にしたのは朱だ。
その問いかけは奇妙だった。朱は自分の事であるはずなのに、相手を自分と間違えているみたいな、そんな風に言うから。
「朱くん?気ぃは確かか?あんたが朱やで?」
並べてみるまでは、これ程までに似ているとは思いもしなかったのだ。それは、本人たちも同じなようで、
「千都世さん達の言ってたのって、この方ですよね?」
どうやら朱のことはちゃんと人型に見えているらしい。
「すみません、急に。永遠子もこちらにお邪魔していたみたいで。兄の瞬一朗と言います」
「永遠子さんの、お兄さん?」
「はい。」
「君だけなんですね」
「え?」
「いや、何でもないです。それにしてもよく似てますね、私たち」
本当にそう思っているのか怪しい顔つきで、しかし神妙に朱が言った。
「魂消たやろ。」
魂消たねぇ。そう言って、朱は目を伏せた。千都世は瞬一朗に向きなおる。
「で、さっきのはなんや?烏て。あんたはあの子が、烏に見えたそう言うたな?」
急に矛先が変わり、千都世に困り顔の瞬一朗は、助けを求めるように朱を見るが、視線は合わない。
「永遠子といたのって、烏でしょう?」
「……やて、朱くん。」
しばらく思案顔で朱は何かを考えていたが、諦めたような顔で千都世に言う。先程までの刺々しさはどこかへ消えていた。
「千都世、その子は多分、朱尾だって藍だって、多分烏に見えるんだ。」
そりゃそうや、烏やもんなぁ。でも、朱が言うてるのはそう言うことやないのだと思う。
それくらいわかる。
静かに、朱は瞬一朗に目をやる。
吸い込まれそうな黒い瞳が、食い入るように瞬一朗を見つめ、千都世は落ち着かない気持ちになる。
自分がいなくなってしまったような、そんな居心地の悪さだ。それは瞬一朗も同じだったようだが。
やがて朱は……大粒の涙をその両目からぽろぽろと零した。
「あ……えっ?」
「ちょ……何で泣かはるの」
慌てた二人などお構いなく、朱は千都世を見据えた。
「この子はね、千都世。茜の血が濃いんだ」
意思とは関係なしに流れる涙が、朱の頬を濡らし続けた。
「は?」
意味がわからない。
こいつは本当は月読なんじゃないかと、半ば本気で思った。そう言えばここ二日ばかり、このての顔ばかり見ている。食傷気味だった。その上、どいつもこいつも茜あかねと、急に騒ぎ出したのはどうしたと言うのだろう。
「何を言うてはるの?」
「月読は、この子に気づいたんだろう?」
「な、何の話をしてるんですか」
瞬一朗には悪いが、説明は後にしてほしい。
「設楽くん、しばらく黙って聞いといてんか?で、ここにも月読はん来はったん?」
「あの方は、いらっしゃらないよ。主人が許しはしないし、約定を違えてまで此処へは来ないはずだ。」
「せやな。けど昨夜な、この子の身体使って下の寺に顔出さはったわ。」
その言葉で、朱は目を見開いた。こわばった頬が、見る間に青ざめてゆく。
そっと伸ばした手で、朱の頬の涙を拭った。
朱は逃げなかった。
されるがままにされていると、まるで子供のようになる。
「茜を連れてこい、言うてた」
「……」
「なあ、朱?あんた、何か隠してることあるやろ。」
撫でつくような声音で、千都世は聞く。
無言は肯定だ。
長い付き合いでよく知っている。
声色とは裏腹に、朱の頬に手を添えたまま、千都世は食いつくように睨み上げる。
急に声音の変わった千都世に、朱は少し怯んだ。少女の声ではない、どこか凄みのある声……。
ないと言っても信じるはずがないのに、どう言えばいいのか、朱は今考えているのだろう。
「答えたくない」
予想通りの答えに、千都世は満足そうに頷く。
「そぉか。答えたないんか。そりゃそうや」
言うが早いか、僅かの腕の振りだけで、頬に添えた右手をそのまま朱の頬に振り戻した。
ぱんっと、乾いた音がして、朱はほんの少しよろけた。
しばらく、呆気にとられていた。
「……そんな格好でこういう事されたら、私はやり返せないよね?そういうところが、君はずるい。」
知るか。
怒った風もなく、千都世を見下ろす朱は、眉一筋動かさなかった。
「涼しい顔して、ほんま腹立つ」
「腹立たしいのは私の方だと思うよ?」
朱に染まった頬に指を這わせ、朱は顔をしかめた。その仕草すら、感情に起因していない空事のように見える。
「せやな。で、血が濃いって何や?黙ってたらええと思とる?それで何もかも引っ被って、楽しいんか?」
未だ乾かない朱の頬を、千都世はもう一度拭った。今度は、振り払われた。それが唯一、朱の感情が見えた瞬間だった。
「君が連れてきたのがいったい何なのか、本当にわからないのか?」
言いたくないなら黙っておいたらええのに。
眉間のシワが深くなっている。思わずそのシワにも手を伸ばそうとしたが、視線で止められた。
「何で私とこんなに似てるのか、ちょっとでも考えたの?姿が変わると頭の方も規格が変わるの?」
「煩いわ。ぼけ。」
ほんま、たちが悪い。小姑か。
千都世の悪態には涼しい顔で、
「その子は、茜の血を引いてる。だから、霧彦の変化は通じない。」
「血を引いてるて……。」
阿呆な事言いなや。
言いたくないんやなかったんか。それなら最後まで黙っていてほしい。そんな自分勝手なことをちらりと思った。凹んだ千都世にさらに追い討ちをかけるように、あの無表情が言う。
「気は済んだ?」
朱の、こういうところが理解できない。
胸糞悪い。
後ろで、瞬一朗が飛び上がった。いきなり話の中心に招かれている。
「へ?僕?」
「さっき、君が見た烏は、確かに烏なんだよ。」
「え、朱?何いうて……」
「でも、僕たちにはそうは見えない」
「朱!やめぇ」
千都世の静止は意味をなさず、朱はさらに続けた。
「この社では速玉之男神、伊弉冉尊、事解之男神の三柱を祀っていてね、私はその御三方に御仕えする身なのだけど」
わかる?という風に瞬一朗に確かめるが、彼はぽかんとした顔をしている。
「伊弉冉尊の、お名前くらいは知っている?」
「はい。確か、伊弉諾尊と共に神様を産んだ…」
火の神迦具土神を産んだ時に受けた火傷が元で、彼女は亡くなってしまうのだが……。伊弉諾尊の妹であり妻でもある女神の名は、古事記や日本書紀を読んでいなくても、知っている。
「私もね。君が見た烏と同じ、神使なのだよ」
「紳士?」
品行方正な朱の顔をまじまじと見つめて瞬一朗が繰り返す。
「紳士ちゃうわ。神の使いで、神使」
「あ。神社の狛犬みたいな?」
「そうだね。」
ま、狛烏だね、などと呑気に続ける。
「カラス?」
「八咫烏とも言われるけど、私たちは少なくとも……生まれた時は普通のカラスだった。」
また、阿呆なこと言って……。
少なくとも千都世の記憶では、朱は普通のカラスではなかった。
「あなたって、カラスなんですか?」
「そうだよ」
大きな薬の粒を飲み込むみたいにして、瞬一朗は瞬く。
「君は信じなくていいけれど、そうなんだよ」
そして、朱は口にする。
「さっき言った茜とは、私の双子の姉であり、妹であり、共にこの社の神使だった。そして茜は、君の曾祖母……なのかな?」
「烏の双子って……」
「気になるのそっちかいな……」
朱に睨まれた。歳の事とか、他にもいくらでも突っ込むべきところはあるだろうに。
「鳥でいう双子とは、一つの卵から孵った雛の事だよ」
「え、卵割って黄身二つの、あれですか?」
頷きながら、朱がさすがに嫌な顔をした。
「自然に生まれることは、まず、無いやろな。」
「まず無いことだから持て囃されてね。私たちは生まれてすぐに、親元から離され熊野に預けられた。」
そこで神使となるべく教えを受けたが、変化を覚えるのも早く、物心ついた頃には人型であったという。
「でも、私たちは体が弱くてね、あまり人里には降りられなかったな。」
千都世と出会った頃も、一緒に出歩いて帰るとすぐに、朱が熱を出すか、茜が寝込むかというのが毎度の事だった。
「それが今じゃ、とんだ不良烏や」
小さく言ったつもりだが、朱には聞こえていたらしい。
「そんな格好している変態狐には言われたくないな。」
「余計なお世話や!」
朱さんは、千歳の変わりように苛ついているのですが…。それは後ほど。




