叢雲
浴衣の季節ですね。
良い時期です。
月読の姿が溶けたと同時に、使い捨てた身体が、敷石の上に転がっていた。
「ろくな事しいひん……」
迷惑すぎる客人に舌打ちしたくなるが、体良く追っ払った方の主人は緊張感なく騒いでる。
「あら、やだぁ。素敵なお土産ぇ」
男とみれば味見がしたい、そんなヒトである。
嬌声を上げる主人を捨て置いて、千都世は男の傍に屈み込む。
心配になって脈を見たが、気を失っているだけのようだ。
「……兄さん、頭打ってないか?」
どこで拾ってきたんや、こんなん。
男の長めの髪をかき分けると、先程まで月読が入っていた時と変わらぬ顔が、そこにあった。
あの顔が、そういくつもあってはたまらないが、現に目の前にある。ということは、この顔はこの人物の持ち物という事になる。
瞼を閉じて、呑気に寝息を立てる不詳の男には、先程までの眩いような美しさはないが、地味だがなかなか整った顔をしていた。
そして、やはり似ている。
「朱……」
千都世は思わず口にしてしまった。
「確かにあの烏君によく似てるわねぇ」
艶めく唇から色気を零しながら、主人が言う。千都世は気恥ずかしさを紛らわせるように彼女を仰ぎ見た。
「姐さま、どうしたん?こないな辺鄙なとこ、来ぉへんと思うてたわ」
「かわいい小狐ちゃんのピンチでしょう?たまにはご主人さまっぽいことしたくなったの」
何やのその、ご主人さまぽい事って……。たまたま居合わせたんと違うんか?
「あのこ、寝ちゃったの?」
探しているのは沙珠の事だろう。
「お堂が意外に気に入ったみたいや。姐さんの足元あたりで丸くなってるで」
「あたし、あんなに寸胴じゃないのにぃ」
「……あれはあれで、かわいいんとちがう?」
主人は、大きすぎる気もする胸を抱え上げるようにして腕を組むと、鼻を鳴らした。やはり不服そうである。
「あなたも相変わらず、可愛らしい格好してるのねぇ」
千都世の白い頬に優しく触れ、肩のあたりで切り揃えられた黒髪に、ダキニは指を絡める。
慈愛に満ちた微笑みからは、死者を求める荒んだ姿は想像もつかない。元はインドだかどこかで破壊と流血の女神カーリーの侍女として仕えていたらしいが、流れ着いた長安で入唐していた空海さんに出会い、意気投合して日本にやって来たらしい。
主人曰く、空海さんはいい男だったそうな。
酔うと昔の話をしてくれるが、何しろ酔っているので、ほとんどはヤンキーの武勇伝みたいになっていて、信憑性がないが。
……こういう時の姐さまは、確かに地母神て感じなんやけどなぁ。
「趣味や。ほうっておきよし」
「可愛げのなさが可愛いのよねぇ〜」
「そんなん言われても、嬉しないわ」
姐さまに、先程までのラフな格好は見せられない。風呂に入った時に、いつもの姿に変えておいてよかったと心から思った。
遊ばれるのがオチである。
にしても、この男をこのままここに放って置くわけにもいかない。
「濡れるし、この人何とかせな……」
千都世の言葉は虚しく響いた。
手伝う気などは更々ないらしく、ダキニは沙珠のいるお堂の方へふらふらと行ってしまった。
いい男だなんて言っていた癖に、外身には興味がなかったらしい。
たしかに姐さまの好みは、ミケランジェロのダビデみたいなバランスのいい中肉細マッチョだった。
これはあまりに細すぎる。勝手な感想をつらつらと並べるうちに、雨足が酷くなる。
濡れた肌が冷えて、風呂上がり気分はすっかり何処かに消えてしまった。
「ほんっと忌々しい。」
浴衣の裾を絡げると、男の脇に両手を入れて引きずり、何とか軒まで運び込んだ。
この際、浴衣の泥汚れには目を瞑るしかない。
「兄さん、起きてぇな」
ぺちぺちと頬を叩くと身じろぎしたが、目を覚まさない。
軒に入れておけば、放っておいても死にはしないだろうが……あまりに朱に似過ぎていて、千都世には邪険にできなかった。
実際の年ではないが、二十四五といった外見の朱より少し若く見える。まだ二十歳前かもしれない。
中性的な顔立ちは、茜ともよく似ていて、千都世には少し辛い。
薄い胸も細長い手足も、まだ成長途中のような甘さを残していて、月読が入っていた時は気づかなかった彼本来の幼さに気づく。
女の子やないしな、一晩くらいは居らんでも大丈夫やろうけど……。
お家の人、心配してへんかな。
月読がこの体を使っていたということは、だいぶ気に入っていると言うことだ。
嫌なもんに好かれたな。
お互いに。
まあ、千都世は決して好かれているわけではないが、嫌われていても受ける迷惑は同じくらいだろう。
意識のない体は鉛のように重く、汗だくになって上がり框のところまで運び込んだが、その頃には汗が冷えて寒くなっていた。
散々な一日は、雨に降られたあたりで終わったはずだった。
風呂でも入り直して寝てしまうに限る。
「よう頑張ったわ、自分……」
ふと、月読の言葉が蘇った。
「お前は知らないのだね?」
そう言った。
何を知らないというのだろう。今になって、茜の烏衣の事など、どうして。
茜が月読のことを好いていることすら、気づいていなかったのだ、今更何を知っていると言えばいいのか。
「あなた、そういう趣味もあったの?」
「ギャッ」
急に背後から声をかけられ、千都世は垂直に飛び上がった。
「……っ!心臓止まるしっ!」
心臓が小動物のように早鐘を打っている。
いつ戻ったのか、背後から声をかけてくる主人の、真意が知りたい。
「だぁって。何だか思いつめた顔して、その土左衛門のこと見つめてるから、声かけられなかったのよ。」
水死体ちゃうし……。
「沙珠は?寝てた?」
「ちょっと話したけど。あなた、今日……。」
「なに?」
「沙珠ちゃんが、あなたが珍しい格好してたって」
「あ……それな」
バレるの早いな……。
「なんであなた、いつもその格好なの?出し惜しみなの?」
「出し惜しみて……こっちが趣味や言うたやんか。それにな、お色気ムンムンとか色々やっても、姐さまには敵わへんし、美人後家風は沙珠の十八番やし、残ってるのはこれやろ?」
あどけない少女の笑みを主人に見せてみる。
それには、あからさまに眉を寄せてイラついた顔をされた。正直傷つく。
「あたしのためにあの格好はしてくれないのね?」
物欲しそうな主人の顔に、思わず怯えた声が出る。
「なんか、喰われそぉや」
「何言ってるのよ。ばかねぇ。」
鼻で笑われた。
ま、そっちは趣味じゃないわな。
「なぁ、姐さま。あの月読何しに来たんやと思う?」
何気なく、話を変えてみる。
「私にわかると思って聞いてるの?」
千都世の意図に気づいたのだろう、ちょっぴり意地悪そうな目をした。
「姐さまは、興味がないからあかんか」
ダキニは寒そうに肩をさすった。キャミソールとホットパンツ姿なので、いつもよりは布地が多い気がするが、こぼれ落ちそうな胸元やらがかなり涼しそうだ。
上がり框に転がっていた羽織を肩から掛けてやると、なんとも言えない微笑みを見せる。こちらがものすごく褒められたみたいに思える、そんな笑い方だ。
「人間は好きよ。でも、あれはダメよ。あなたのその、地味な執着も自分本位になり切れないところも煮え切らなくて嫌いだけど、あれの気持ち悪さに比べたら全然マシ。あの神ってそういうところあるでしょ?」
マシ、ね。苦い顔をしていると、思いもよらぬことを聞いて来た。
「あなた、お母様の事って覚えてる?」
「何ですの、そないに昔の事」
「覚えてるでしょう?」
「そら、忘れるわけ……」
千都世の母親は人間である。人としての十の年まで一緒に暮らしていた。
「あたしは忘れちゃったわぁ」
長く生きている者ほど、忘れることが上手になる。
「姐さまにも居てはるの」
「失礼ねぇ。木の股からなんて出て来てないわよ」
然し乍ら、彼女が女の腹から産まれたなんて、想像もできないが。
「忘れていいことは、いずれ忘れるのよ。あなたがお母様のことを覚えているのは、忘れていいことじゃないから覚えてるだけだし、忘れたいのに忘れられない事があるならそれは、忘れちゃいけないことなのよ。」
ま、あたしたちに限ってのことよ、と続ける。
人は、忘れてしまうものだから。
「もう居いひんのに、憶えてるのはしんどいやんか」
「しんどいのも、楽しいからでしょ?」
「楽しいて……」
姐さまには、かなんな……。
「忘れないのも自分の意思だけど、忘れるのも自分自身じゃない?」
なら、出来るのよ。と言われてしまった。
言葉と裏腹に、忘れるなんて無理と鼻で笑われている。
彼女が決して忘れたわけではなく、思い出さない事が上手になっただけなのも……つまりはそういうことか。
母親の話をしているのではないことを、きっと主人は気づいている。
「人の体は、燃やしてしまえば諦めもつくのに……。難儀なことね。」
やっぱり知ってはる。
「ほんま、そう思います」
「あなたにしか、できないことがあるのよ」
歌うように、主人が笑った。
月読と同じ口調だったので、二人して何か結託しているのではと勘ぐったが、そもそもそんなことがあるはずがない。ダキニの元には、白玖が付いている。
そして何より、月読が自身の姉以外に興味を示すことなどないのだから。
もしかして、天の尊様が、何か関わっているのだろうか。
「大事なものがあるのなら、何があっても手放しちゃダメなのよ。何をしてでも、手に入れなきゃダメ。わかる?」
彼女は、欲望を糧にして生きている。
その強い目が、千都世には痛かった。
千都世はその大事なものを、手に入れ損なった上、既に失っている。
「たまに、姐さまの神使でいるの辛くなるわ」
へらりと笑って言うと、ぺちりと小気味好く頭をしばかれた。
「甘ったれてんじゃないわよ?いつまでそんな格好してるつもりなのか知らないけど、次来た時にまだその格好だったら、追い出すから」
「趣味や言うてるやないですか」
可愛いの、何が悪い。
「全く似合ってないのよっ!」
何故か、駄々っ子のようになった主人は、随分と突っかかる。
「似合ってないて……姐さまひどいわ。」
「あたしは、そんな栄養失調の御所人形みたいなの、神使に持った覚えはないのっ!」
「何やの、一体」
「もうっ、そう言う顔すると、ほんっと白玖にそっくりなんだから。」
そんなことを言われても、兄だから仕方ない。
「姐さま、兄さんと喧嘩でもしたん?」
それで、こんなとこまで来たんかと、何だか納得がいった。月読へのあの作業も、兄への当てつけだろう。
「……帰るっ!」
そう言って、主人は雨の中を出て行った。どこへ帰るつもりなんやろ。そう言えば、しばらく白玖には会っていない。
何で女たちは、あの男のせいで不機嫌になったり、機嫌よくなったり忙しいのか。
兄の事はよくわからない。
完全にとばっちりやろ?これ。
「次来る時って……絶対忘れてはるわ。」
寝てしまお。そうしよ。
その晩は、厚く雨雲が夜空にかかり、月は顔を出さなかった。
千都世の兄の白玖さんは、豊川稲荷に出向中です。お寺にあるお稲荷さんは大体、荼枳尼天をおまつりしているみたいです。
いずれ、千都世に会いに顔を出すでしょう…。




