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テリトリー

作者: 魚谷幸


 疲れた。その言葉とともに深く息を吐く。資料を詰めた大きなカバンは右肩に重くのしかかり、私の体を支える膝はずーんと重い。

最寄駅から徒歩7分。走っていけば5分を切る。そんなところに私のアパートはあった。2階の左から2つ目の部屋。重いドアを開ける。そこには薄い黒色の闇がある。

そっとその闇に手を入れる。ゼリーのように少し波立つ。水に墨を落としたようなこの闇は、もうずっと私のアパートの中にある。



裕也が死んだのは初夏のころだった。私はひどい花粉症で、やっと解放されてほっとしていた時だった。その日の朝には、海に行く約束もしていたのだ。車で30分、私と裕也のお気に入りの浜辺だ。でも、彼は帰ってこなかった。

営業車で外回りをしていた時にトラックに突っ込まれて即死だったそうだ。一発アウト。そんなあっけない死に方だった。彼の葬式の時、彼の両親は私に目も合わせずにそっと小さな写真を1枚手渡した。彼は遺影になって私のアパートに帰ってきた。



 それから1年半。私には不思議なものが見えるようになった。はじめは私のアパートの中に充満している薄い闇だ。葬式から帰ってきて、部屋のドアを開けたら闇が待っていた。透き通るような薄い黒色で、プルンとしたゼリー状だった。恐る恐る手を入れてみる。少しひんやりとしている。思い切って顔を突っ込んだ。最初ひやっとしたけれど、目も開けられるし、息もできる。それから私は毎日この闇の中で生活している。

 それから少し経った後、駅で不思議なものを見た。急いでいるサラリーマンの周りに大きな膜ができているのだ。それは冷たい青色で、サラリーマンの周りだけにあった。はじめ私は、あれがテレビで霊能力者の人が言っていたオーラというやつなのかと思った。しかし、ほかの人のオーラが見えるようになってから、それは少し違うのだと気づいた。

 電車の中で様々な人の周りに膜が見える。オレンジや黄色や緑、赤や青いろいろな色があるし、大きさも人それぞれだ。みんなその膜と膜を触れないように電車に乗る。どんな場面でも、自分の膜の分だけ他人と距離を取って生きているのだと気づいた。それから私はあの膜は、その人のテリトリーなのだと思うことにした。


 そんなものが見えるようになったからといって、私の日常に変化はない。朝起きてある程度の家事をこなし、会社に行って仕事をして帰って眠る。あえて言うならば、休日にあまり外に出なくなったことくらいしか変化はなかった。他人のテリトリーが見えるようになったが、もともと人間は、人との距離は無意識に取れるものだから別段意味はなかった。


 ある日、仕事で現場の人と直接会って話してこいと言われた。私は家具や建材の商社で働いているのだが、自社製品といって自分たちで企画生産する部署にいた。職人さんの働く現場との意見が上手く合わず、直接会いに行ってくれと上司に言われ、しぶしぶ作業場に向かった。「ほら、女性の方が物腰柔らかくてうまく話をまとめられそうじゃない」とひきつった笑顔の上司に送り出された。

 作業場は本社からそう離れてはいない。車を20分も走らせれば着く。駐車場に車を止めて、作業場の中を覗く。誰もいなかった。ちょうどお昼時に来てしまったのがいけなかったのだろう。作業場をゆっくりと見渡すと、遠くにうっすらと光るものが見えた。気になって近づいてみると、一脚の椅子があった。その椅子の周りには深い緑の膜があった。人間以外にもテリトリーというものができるのだと知って驚いた。そして何よりも、木でできた椅子の滑らかな曲線と、凛とした佇まい、そして深い緑色の膜が美しく光って目が離せないでいた。

「どちら様ですか」静かな声がした。はっとわれに返って頭を下げた。「すいません、本社からやってきました木戸というものです。」ゆっくりと頭を上げると、短髪に細い目をした男性が立っていた。その人の周りにも深い緑色の膜があった。

 話は30分足らずで終わった。結局顔を見合わせて話せばすぐに解決する問題なのだ。本社の人間は動くことが面倒で後回しにするから問題が大きくなってしまうのだと思った。      

男性は山口と名乗った。ここで働く職人の一人で、椅子を担当しているのだという。「あの椅子もあなたが作ったんですか?」私はどうしてもあの椅子について聞いてみたかった。「そうです。あれは売り物じゃなくて私の趣味で作っています。」山口は少し恥ずかしそうに言った。「とても…きれいな椅子ですね。」私はため息のようにつぶやいた。


 それから、何度か作業場に顔を出すことがあった。その度にあの椅子はぼんやりと深い緑色の光を放っていた。何度もあの椅子を見つめていたからだろう。山口とは少しずつ仲良くなっていった。ある時二人で飲んでいるときに、思い切って聞いてみた。

「あの椅子、売る気はないですか?」山口さんは少し考えて、首を振った。「今はその気はありません。まだ完成してないんですよ。」


 アパートのドアを開けると、そこには闇が待っている。このひんやりとした闇の中にあの椅子をおけば、もしかしたら。なんて考えが日に日に大きくなっていった。


 山口さんと二人で出かけるようになってから、半年近くたっていた。話が合うというわけではない。どちらかというと二人とも無口だった。でも山口さんの深い緑色の膜が蜃気楼のようにゆらゆらと揺れているのを見ていると、なんとなく落ち着くのだ。あの椅子がほしい。それが今の私の願いだった。

 

 ある夜、私は夢を見た。あの椅子が私の部屋に置いてある。私は嬉しくなって椅子に近寄る。だけれども、緑の膜は見えない。不思議に思って椅子に触ると、ひんやりとして冷たい。そこで気づいた。誰かが座っているのだ。顔を上げる。そこには無表情の裕也が座っていた。

 飛び起きた。嫌な汗をかいている。時計を見るとまだ朝の5時前だった。部屋のなかは相変わらず、薄い闇が漂っていた。


 その日の夕方、携帯に1件のメールが入っていた。山口さんから飲みの誘いだった。私は時間と場所を返信し、もう一度パソコンに向かった。

 午後7時、私が飲み屋さんに到着すると山口さんは先に飲み始めていた。そして嬉しそうに私に言った。「あの椅子、完成したんですよ。」私は当たり障りのない言葉で、完成を喜んだ。でも昨夜の夢がどこか引っかかっていた。あまり椅子の話を引き延ばさないようにと何気なく話をそらし、いつもよりたくさん飲んでたくさんしゃべった。11時を回ったころ、私の意識はほとんど落ちかけていた。ゆらゆら揺れる山口さんの膜が少しずつ小さくなって、ゆっくりと私の頭を撫でているような気がした。


 まぶしさに目が覚めた。カーテンから朝日が差し込んでいた。この光はいつぶりに見たのだろうか。私の部屋の中がしんとしている。もう闇はそこにはいなかった。

 ベッドから降りて部屋を見渡す。壁にもたれかかって山口さんが眠っている。昨夜、でろでろに酔った私を介抱してくれたのだろう。水のペットボトルが転がっている。一度深呼吸をした。朝の匂いがした。もう薄い闇も、山口さんの緑の膜も見えない。私がほしかったのは、椅子ではなかったのだ。


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