8.プリンの悲劇
うっすらと漂っていた覚悟が、だんだんと形をとって自分の中に根を下ろしていく。
元の世界に帰る方法はまだ見当もつかない。そう簡単に見つかると、期待もしていない。長期戦の心構えをしておいたほうが良いだろう。
そうすると、当面問題になってくるのは、この世界でのわたしの生活だ。
必要なのは、住む場所と賃金を得られる仕事だろうか。
「ここに住めば良いじゃない」
ユーナさんに相談をすると、軽い調子で言われてしまった。
「部屋は余っているし、気にしなくて良いのよ。可愛い妹と一緒に暮らせるだなんて夢のようだわ。欲しいものも何でも買ってあげるし、ラントの毒牙からも守ってあげますからね!」
「それは、ものすごくありがたいのですが……」
深紅の爪をしたユーナさんの美しい両手に手をとられて、わたしは問うようにその隣のクラウスさんを見た。妹ではないです、という突っ込みをすることは、すでに諦めている。
「俺も歓迎するよ。ただ、ラントとすでに契約をしているのだろう? そう簡単に君を手放すとは思えないけど」
ラントに本名を呼ばれると、契約によって彼の家の魔法陣へ召喚されてしまう。しかも、その契約を解除したくば、クラウスさんの命を奪うという依頼を果たさなければならないのだ。
「そこは力づくで何とかなさいな、クラウス。とにかく、私はリリちゃんと暮らしますからね!」
ぎゅうっと、わたしはユーナさんの豊満な胸に抱きしめられる。
「うーん……。何とかはしてあげたいけど、怒らせると面倒なんだよな。この間も、冷蔵庫にあったプリンを捨てたら、すっごく怒られてさ」
クラウスさんが人差し指で頬をかく。
「それってまさか、ひと月前に意を決して街に買いに来たっていう?」
「そ。間違えて食べて腹をくだしたらまずい、と思って捨てたんだけど。特別な日に食べようととっておいたんだそうだ。そりゃあもう、こちらを殺しかねない怒りようだったよ」
「プリンひとつでそこまで……」
ラントは予想以上に駄目な感じの魔法使いのようだ。なにゆえそんな人に召喚されてしまったのか。天才と紙一重なアレなのか。
「まあつまりは、そのくらい心が狭いってこと」
「ふん! なおさらそんな奴に可愛いリリちゃんを渡せるものですか!」
ユーナさんに窒息させられそうになりながら、わたしはあるくだらない予感をぬぐい去ることができなかった。
クラウスさんの命を奪えというラントの依頼。よもや、プリンが原因ではあるまいな。
******
仕事に出かけたユーナさんとクラウスさんを見送って、わたしは与えられた部屋で、ラントにもらった紙切れを開いた。
いざという時には名を呼べ、と言われて渡されたそれには、わたしを召喚したものと同じような魔法陣が描かれている。
ベッドに腰かけ、膝の上に紙を広げ、
「ラント」
小さな声で呼んでみた。
反応はない。
「やっぱり、フルネーム? じゃないと駄目なのかな。なんだっけラントリ……」
一度しか聞いていない上、覚えるつもりで聞いていたわけでもないので記憶はあやふやだ。
「ラントリールオニキス」
「ラントリオーンカンザス」
「ラントルオールオニオン」
適当に呼んでみるも、反応はない。
「はぁ」
仰向けにベッドに倒れた。ふかふかのベッド。実家の居間よりも広い部屋。
「ここに置いてもらえるならありがたいけど。本当にそれで良いのかなあ」
他人の好意に甘えるだけ、というのがどうにも苦手だ。その上、ラントに恐ろしいことを依頼されていることが心苦しさを募らせる。
「ラントリオーリオルキス……うーん、これも違うか。ラントリ、までは合っている気がする。最後はスだったような気もする」
膝の上に置いていた紙を仰向けに寝転がったまま拾い上げ、顔の上にかざす。
透かしたり、裏返したりしてみても、そこに答えは書いてあるはずもない。
「ラントリ……ん?」
魔法陣がわずかに光を帯びて、すぐに消えてしまう。
「ラントリ」
見逃さないように、紙を顔に近づけて慎重に発音した。
魔法陣が光る。
「オ」
光がかすかに強くなる。
「ラ」
光が消える。名前が違うのだ。
「ラントリ」
「オール」
光は消えない。
どきどきと胸が鳴った。
「オニキス」
正解、というように光が七色に弾けた。
「え?」
「な!」
わたしが手にした魔法陣の紙切れから、ラントが生えてくる。
顔の間近に紙を近づけていたせいで、いきなりの至近距離だ。
「ぐ!」
ラントはわたしの顔の両脇に手をついて、顔面の衝突を避けようと一応がんばってくれる。
しかし、魔法陣から体はどんどん押し出されてくるようで、筋肉の薄そうなラントの腕が限界を叫ぶのはひじょうに早かった。
「もう、だめだ!」
「ぎゃ!」
魔法陣から全身を出したラントにわたしは押しつぶされる。頬を何かやわらかいものが掠めた気がしたけど、いや、考えるのはよしておこう。
「お、重たい……」
「……やわらかい、ベッド」
ラントは間に挟まっているわたしを意に介さず、シーツに頬をすり寄せる。うっとりとした息を洩らして、今にも夢の世界へ旅立ちそうだ。
「ラント! ちょっとどいて!」
「ん? ああ、おまえか」
背中を叩くと、ようやくラントは起き上がってくれた。わたしも起き上がって、髪と服を整える。呼吸も無理矢理整えた。
「どうかしたのか? まさかもう依頼を終えたとか?」
ベッドの上にあぐらをかいて、ラントが首をかしげる。
「その、依頼のことで聞きたいことがあって」
わたしは立ち上がって、まっすぐにラントを見る。嘘もごまかしも認めません、という構えだ。
「なに?」
「その、ラントがクラウスさんを……っていう理由って何?」
怖い単語は口にできなかった。
「……クラウスに絆されたの? 悪魔のくせに逆に誘惑されてどうするのさ」
「そうじゃなくて!」
「じゃあ何。言っておくけど、クラウスは優しい顔をして平気で嘘をつくし、笑顔でプリンを葬る、本心は悪魔みたいな奴だからね」
「……」
プリン、というキーワードに、冷たいラントの声に怯えかけていたわたしの気持ちがすっと冷静になる。
問いつめることは自傷行為だ。けれども、訊かずに済ませるわけにもいかない。
「ラントがわたしに依頼したのは、クラウスさんがプリンを捨てたから?」
「万死に値する所業だろう」
真剣な顔でラントは重々しく頷いた。
「ああ!」
わたしは両手で顔を覆って、その場に崩れ落ちる。
「ど、どうした?」
さすがのラントもぎょっとして、声を裏返させた。
「どうしたもこうしたも……! そんな理由で?」
プリンの恨みで召喚されたとか、笑えばいいのか泣けばいいのかわからない冗談だ。
「そんな理由とは何だ!」
怒るラントに、もう怖さは感じない。
くだらない喧嘩に巻き込まれたことに、なんてこった、と嘆く気持ちはあったけれど、くだらない理由に、少しほっといる自分もいた。
能天気、とまた桂に馬鹿にされそうだけれど、ラントもクラウスさんも悪い人には見えない。
殺す、だなんて、喧嘩でも冗談でも使ってはいけない言葉だけれど、頭に血が上ってしまうことは誰しもあることだ。
プリンの恨みは消えていないかもしれないけれど、本気でクラウスさんの命を奪いたい、と考えているわけではないだろうし、わたしにそれができると信じてもいないだろう。
それなら、ラントの依頼を解決するには?
二人を仲直りさせれば良いのだ。
「リリ?」
両手で顔を覆ったままのわたしの肩に、おずおずとラントの手がかかる。
ぱっと顔をあげると、びくっとその手が引っ込められた。
「ラント。わたし、依頼がんばるね」
「お、おう……」
たじろぐように、ラントがあいまいにうなずく。
無理だ無理だと思ったことも、ひょんなことから解決策が見つかるものだ。