7.お姉様は女王様
クラウスさんのお姉さんはユーナさんという名前だそうだ。
「お姉様って呼んで良いのよ?」
うっとりと頬をなでられながら誘惑されたけれど、ユーナさんと呼ばせてくださいと全力でお願いした。
クラウスさんが王子様なら、ユーナさんは女王様という風情だ。美人は目の保養だけれど、近距離過ぎると目の毒だ。キラキラしたオーラが眩しすぎてくらくらしてしまう。庶民のわたしなど、彼女が指を鳴らせばぱちんと消えてしまいそうだ。そのくらい存在感が違う。
「……ところで、その見覚えのあるボロ雑巾のようなマントは、あの引きこもり魔法使いのものではないかしら? それに、よく見たらブラウスのボタンもとれてしまって……」
着替えがなかったので、わたしは昨夜の格好のままだ。
「えっと、その……」
圧倒されて気にするのも忘れていたけれど、女王様に比べてあまりにみすぼらしい格好だったと気づき、とたんに恥ずかしくなる。
いたたまれなくなって顔を伏せたわたしの頭上で、ユーナさんがはっと息を呑む。
「まさか! あの世界びびりコンテストがあれば優勝できそうなへたれ魔法使いが野獣に!? 天変地異の前触れ!? いいえ、そんなことより今すぐ不浄を洗い流さなければ! 可哀想に。怖かったでしょう? もう大丈夫よ。あなたのお姉様が守ってあげますからね」
鼻息も荒く、目をらんらんと輝かせ、わたしは女王様に捕獲された。
不安を覚えてクラウスさんのほうへ視線を向けると、
「諦めたほうが楽になれるよ」
聖人のような顔で微笑まれてしまったのだった。
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口をはさむ間もなく、お風呂場に連行されて、すみずみまで洗浄されたのち、散々着せ替え人形にされて、ようやく解放された頃には太陽が月に交代しようとしていた。
その頃にはわたしも、クラウスさんが到達したのであろう悟りの境地を開きかけていた。ユーナさんには決して逆らってはいけない。この世界で生きていくためのルールとして、しっかりと心のメモ帳に書き留める。
「お疲れ様。悪かったね。姉さんは自分より小さくて可愛いものに目がなくて」
夕餉の席で向かいに座ったクラウスさんが、すまなそうに眉を下げて微笑んだ。
「いえ。おかげで人心地がつきました。ありがとうございます」
ユーナさんの勢いには気圧されてしまったけれど、体を洗えて着替えができたのは本当にありがたかった。ユーナさんの趣味で、白いレースをふんだんにあしらったワンピースを着させられていることにはひとまず目をつむっておく。どこぞのお嬢様ですか、という格好なのだ。着慣れないことこの上なく、いたたまれない。こけしがフランス人形の服を着てしまったような具合の悪さだ。
「うふふ。謙虚で礼儀正しいお嫁さんね。嬉しいわ。こんな可愛い子が妹になるなんて」
可愛い可愛いと連呼して、ユーナさんがわたしの隣で妖艶に目を細める。彼女には、自分より小さいものはすべて可愛く見えるらしい。クラウスさんと並んでも大差ないユーナさんなのだ。彼女の瞳に映る世界は、可愛いもので満ちているに違いない。
「いえ、ですから、お嫁さんではないです」
ユーナさんがわたしをクラウスさんのお嫁さんと思ってしまっている件については、わたしがこの世界に来てしまった事情も含めて何度も説明したのだが、
「可能性がゼロではないなら、クラウスのお嫁さんと呼んでも良いじゃない? 呼ぶうちに本当になるかもしれないわ」
とユーナさんも譲らなかった。なりふり構わないくらい、お嫁さんがほしいのだろうか。クラウスさんなら引く手数多だと思うのだけど。
「俺は君がお嫁さんでも構わないよ? ハニィも君を気に入ってくれたみたいだし、早く結婚しろとせっつかれることもなくなるし」
魚のムニエルを切り分けながら、冗談か本気かわからないようなことをクラウスさんが言う。いやいや、冗談に決まっている。もうこの人には騙されまい。
「とりあえずお嫁さんのことは置いておいて。あの、わたしの食事だけ果物の山なのは一体……」
食卓には、わたしとクラウスさんとユーナさんの三人きりだ。執事であるキイスさんは一緒に食事はとらないようで、ドアの近くに控えている。初対面で事情など聞けるはずもなかったけれど、クラウスさんたちのご両親が一緒に住んでいる様子はない。
だから食卓に並んでいるのは、三人分の夕餉だ。
中央にはパンのかご。クラウスさんとユーナさんの前には魚のムニエルと、クラムチャウダーのような白いスープに、華やかな彩りのサラダ。グラスの透明な飲み物からはかすかにお酒の香りがする。ワインだろうか。
そして、わたしの前には果物の盛り合わせが大皿でどどんとそびえていた。デザートのタイミングでお坊っちゃまとお嬢様に給仕をしたらよろしいのでしょうか。
「そうか。リリちゃんはまだ、悪魔についてよく知らなかったんだね。俺も聞きかじった知識でしか知らないんだけど、悪魔は人の魂と甘い食べ物しか受け付けないと聞いたものだから」
「そうなんですか」
栄養が偏りそうだけれど、人の魂しか受け付けない、とかじゃなくて良かった。
「でも、少し前までは人だったのでしょう? 試してみてはどうかしら」
言いながら、ユーナさんがパンをちぎって差し出してきた。え。その指からあーんと食べろと?
無言の笑みで脅迫するユーナさんには逆らえず、その美しい指に触れないように慎重にパンをいただいた。
もぐもぐと咀嚼する。
「どう?」
似たような興味深い瞳で姉弟がわたしを見つめる。
「味がしないです」
スポンジを噛んでいるような感じだ。グラスに入れてもらった水で、無理矢理お腹の中に流し込む。
そのあとは黙々と果物を食べた。美味しかったけれど、こんな食生活で太ってしまわないのか少し心配だ。
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疲れただろうから、今日のところは早く休むといいよ、と言ってくれたクラウスさんのお言葉に甘えて、用意してくれたベッドにさっそくダイブした。
「あー、やわらかいベッドー」
幸せだなあ、ありがたいなあと思いながらも、寂しい気持ちが、氷の塊みたいに胸の内にはりついていた。
「甘いものと人の魂しか食べられない、か」
人とは別のものに、確かになってしまったんだ。見た目にほとんど変化がないからなかなか自覚できずにいたけれど、やはり、わたしは悪魔というものになってしまった、ということだろうか。
「ラーメンやカレーライスも、もう食べられないんだね……」
自分の変化がショックだったのだけれど、口に出してみれば、ただの食い意地がはった人みたいだ。悲愴するには間が抜けている。
「食い意地ではないよ。ラーメンやカレーライスはほら、人生に欠かせないものだから。ね?」
誰にともなく弁解をしながら、やはり疲れていたのだろう。十秒もたたない内に、わたしは夢の中に沈んでいった。
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三度目の宇宙空間だ。
「姉ちゃん!」
「桂!」
可愛い弟の姿をみとめて、まっしぐらに駆け寄ろうとしたけれど、間抜けにも転んでしまう。地面もないのに転ぶとは。いや、地面がないからこそ、難しいのだ。わたしが鈍臭いわけではない。
「何やってんの」
あきれ顔の桂が、一息でこちらに飛んできて腕を引いて立ち上がらせてくれる。もうこの場所で思い通りに動けるようになったらしい。可愛い弟とはいえ、憎らしく思えてしまう瞬間もある。
「そっちの様子はどう?」
「うん。あのね」
気を取り直して、わたしは桂に、ラントの依頼のことと、食事のことを話した。話せる相手がいるというのはありがたい。家族や友人と離れて、しみじみそう思う。
「……甘いものしか食べられないとか、妖精かよ」
「え! 妖精!?」
「……なんでそこで喜んでんの?」
可愛いものに例えられたら嬉しいではないか。妖精か。悪魔になってしまうくらいなら、妖精のほうが可愛くて嬉しかったのに。
「悪魔になった、っていっても、まだまだ自分ではよくわからなくて。でも、やっぱり、どこか変化はしているんだねって実感しちゃった」
「姉ちゃん……」
「でも、わたしであることは変わらないのだし。うん、大丈夫だよ。桂のほうはどう? 怪我の具合は?」
桂に心配をかけないように明るく言ったけれど、言葉にしたことで自分自身がすこし励まされた。
そうだ。体質がちょこっと変わったというだけで、今までのわたしが消えてしまったわけではないし、わたしはわたしだ。宮森良子だ。なんだ、問題なんてないではないか。せいぜいカレーやラーメンが食べられないくらいだ。
「相変わらず姉ちゃんは能天気だな。どこが悪魔だよって感じだよ、ほんと」
呆れたような桂の笑みに、でもわたしはほっとする。変わらない、と言ってくれたことが嬉しかった。
「俺はもうすぐ退院できそうだよ。足の骨がいっちゃったから、リハビリは必要なんだけど。死にかけてたはずなのに、結局は足の骨折くらいで済んで医者は首を傾げてたけど。母ちゃんと父ちゃんは、悪魔を呼び出す方法を探してるって言ってた。契約したあの悪魔を引っ張りだすか、姉ちゃんが本当に悪魔にされたっていうなら姉ちゃんをそのまま喚び出せる可能性だってある。まだ見つからないけど……、でも絶対姉ちゃんをこっちに連れ戻すからな!」
力強い桂の言葉に、涙がにじんだ。
「ありがとう。何だか、どうにかなりそうな気がしてきたよ。わたしも、がんばるね」
何をがんばれば良いのか、まだちっともわからなかったけれど。
落ち込んで、いじけてなんかいられない。それだけは間違いなくわかって、それだけで、少し道が開けたように思えた。