6.ペガサスに乗ってクラウスさんのお屋敷へ
本で埋まっていた階段はすっかりきれいになっていた。きれいに、というと語弊があるかもしれない。
「実は下りてくるときに足を滑らせてね。おかげで足の踏み場ができたわけだけど」
クラウスさんが肩をすくめる。外国の映画でしか見たことがない仕草だけれど、外国の王子のような外見のクラウスさんがすると違和感がない。
階段の麓にできていた本の山はクラウスさんが足を滑らせた時の雪崩の跡のようだ。大きな怪我がなかったようで何よりである。
「上に、行くんですか?」
玄関と階段を見比べて問う。そういえば、来たときも上からやって来たようだった。
「うん。森を歩きたいなら、それでも良いけど」
わたしは慌てて首を振った。嘘だと思いつつ、魔獣に食べられる、という先ほどのクラウスさんの話が尾を引いている。
クラウスさんは目を細めて小さく笑みをこぼし、先に立って階段を上がった。
「せっかく足の踏み場ができたけど、少しするとまた本が生えてくるんだよね」
「え! 本が階段から生えるんですか!?」
それが異世界の常識なのか。ここが魔法使いの家だからなのか。
わたしが感嘆の息を洩らしていると、ふはっ、とクラウスさんが吹き出した。
「面白いねえ、リリちゃんは」
「……もしや、また嘘ですか」
「さあ、どうかな」
笑みを含んだ目で、クラウスさんがわたしを振り返る。またしてもからかわれてしまったらしい。
二階に上がる。
廊下はなく、二人が並んで立てるだけの踊り場があって、その左右に部屋が一つずつある。
左手の部屋はドアが閉まっていて、右手の部屋はドアが開けっ放しになっていた。その、開けっ放しの右手の部屋に入るクラウスさんの後ろにわたしも続いた。
惨状は一階と大して変わらないので予測でしかないが、ベッドらしきものが見えるので、元寝室だったのではないかと思われた。
「無理やり家政婦を雇わせたこともあるんだけどねえ。三日と保たずにラントが追い出しちゃうんだよ。その理由がどうしようもなくてさ。風呂に入れと言われただの、食事を三食とれと言われただの、勝手にカーテンを開けられただの」
ひょいひょいと障害物をまたぎながら、クラウスさんは窓のほうへ向かう。わたしを召喚した魔法使いは、本当にどうしようもない人のようだ。
ラントは、この嘘つきだけど人が良さそうなクラウスさんの命を奪うために、悪魔を召喚したようだったけれど、本気でそんな目的だったのだろうか。まさかクラウスさんのおせっかいに殺気を覚えるほど嫌だった、というわけではない、と思いたいけれど。
「お待たせ、ハニィ。悪いけど、お客様も一緒に乗せてくれるかな」
「!」
外開きの窓を開けて、クラウスさんが屋根のほうへ声をかけると、真っ白な馬が優雅に姿を見せた。
背中に天使のような羽が生えている。
「ペガサス!」
初めて見た! いや、当たり前だけど!
「ハニィだよ。彼女はペガサスコンテストでも優勝しているからね。美しいだろう?」
「ペガサスコンテストなんてあるんですね。綺麗です」
ハニィはたしかに、優勝も納得の美しさだった。
白い体躯には一点のくすみも汚れもなくしなやかに輝き、カールしたタテガミは太陽の光を絡めてきらめいている。羽は触れたらさぞ柔らかいのだろうと思えるほど、見た目にもふっくらと甘いあたたかさを備えていた。
「よろしくお願いします、ハニィ」
長い睫毛にふちどられた、宝石のように黒い瞳を遠慮がちに見上げて、どぎまぎしながら挨拶をした。
ハニィはゆっくりと瞬きをしてくれる。こちらこそ、と言ってくれたような気がした。
「よし、じゃあ行こうか」
「へ?」
両脇に手を入れられて、ひょい、とハニィの鞍に乗せられる。
「一人用の鞍だから、ちょっと狭くてごめんね」
すぐ鼻先にクラウスさんも騎乗した。背筋を伸ばさなければ、クラウスさんの背中に密着してしまいそうだ、と思っていたら、腕を引かれて密着させられてしまった。
「落っこちないようにちゃんと捕まっていてね。高いところが平気だと良いんだけど。ああそれから、ハニィが驚くから、悲鳴は上げないでね」
背中から伝わる声に動揺する間もなく、ハニィの美しい羽が空を叩いたと思ったら、
「わ、あ……!」
魔法使いの家が、森が、遥か下に遠ざかっていた。
顔を上げれば、世界が広がっている。
「すごい……」
森と、町と、遠くには海。下から見上げれば高いだろう山々もミニチュアのように見える。太陽の光が近く、頭上には空しかない。風が冬よりも澄んで、自分の内側から透明になるようだった。
「爽快だろう? 前にラントを乗せたときは失神してしまったけれど、君は平気みたいで良かったよ」
「いえ。怖い気持ちもあるんですけど」言いながら、がっちりとクラウスさんの体にしがみつく。恥ずかしいけれど、落ちてしまってはたまらない。「感動のほうが勝ります」
こちらに来てから、まだどこか夢の続きみたいに、ふわふわとしていたけれど、ここもまたわたしがいた場所と変わらない、ちゃんと存在する一つの世界で、わたしはちゃんとここに生きて存在しているんだ、と体と心の両方で理解することができた。
怖い気持ちもある。
でも、感動のほうが勝る。
「君は、強引にラントに喚ばれてきてしまったことを恨んでいるかもしれないけど」
「え?」
世界から、すぐ前のクラウスさんに視線を戻す。身を乗り出すわけにもいかないので、背中しか見えない。
「そんなに悪いところじゃないから、少しずつでも好きになってくれると嬉しい。ラントのこともね。ラントの友人として、できるだけ力になるから」
「クラウスさん……。ありがとうございます」
やっぱり、クラウスさんは良い人だ。
「……実は、悪魔がペガサスに乗ると天使に変身してしまうという伝説があってね」
「え!?」
「というのは嘘だけど」
「クラウスさん!」
あはは、と笑いながらクラウスさんがハニィを走らせる。油断のならない人だ、と思いつつ、わたしも声に出して笑ってしまった。
*******
「はい、到着」
ハニィが地上に足を着くと、ひらりとクラウスさんは鞍を下りて、またわたしの両脇に手を入れて子供のように地面におろしてくれた。
到着した地面に、足元がわずかにふらふらする。
「大丈夫?」
「はい。ここが、クラウスさんの家ですか?」
空から見下ろした町は、それほど大きな規模ではなかったけれど、今降り立ったこの家というか、屋敷の領地だけは規格外に広かった。この庭だけでサッカーの試合ができるだろう。ラントの掘建て小屋のような家とえらい違いだ。
「幸い、代々受け継いだ土地と資産は豊富だからね。リリちゃんも気にしないで、服でも何でも必要なものは言ってくれたら良いよ」
「助かります。お返しは、必ずしますので」
「ふふふ。礼儀正しいよね、リリちゃん。本当に悪魔なの?」
「自覚はまだないですけど」
悪魔の定義を教えてほしいくらいだ。
「クラウス様。お帰りなさいませ」
立派な玄関のドアの前まで行くと、待ち構えていたように扉が開いて、燕尾服の青年が頭を下げた。執事だ! 執事に違いない!
「ただいま。姉さんは戻っているかな。この子を任せたいんだけど」
言いながら、クラウスさんはさりげなく背に隠れていたわたしの肩を抱いて前に押し出した。
執事さん(仮)と目が合う。背の高い彼は、長い黒髪をポニーテールに結っている。一瞬、筋の通った鼻が動くと、眉をひそめた。
「悪魔……?」
ぴょこん、と犬のような耳と尻尾が執事さん(仮)に生えた!
「ラントが召喚したのだけれど、良い子だよ。キイス、ほら、耳と尾をしまってしまって。リリちゃん、彼はキイス。見ての通り獣人でね、驚くと耳と尻尾が出ちゃう未熟者なんだ」
「失礼いたしました。この屋敷の執事をさせていただいております、キイスです」
手で押し込むようにしてキイスさんは耳と尾を引っ込めてから、わたしに頭を下げた。
「リリ、と言います。よろしくお願いします」
ラントにつけられた呼び名を名乗って、ぺこりと頭を下げると、なぜかキイスさんは慌てたように顔を上げてください、と言った。
それにしても、ペガサスに続いて獣人とは。他にも色々な種族の人がこの世界では暮らしているのだろうか。俄然、興味が湧いてきた。すぐには元の世界に戻れないだろうし、この世界のことを知っていくのも楽しいかもしれない。
「クラウス、戻ったの?」
「ただいま戻りました、姉さん。良かった、紹介したい人がいるんだ」
正面の階段から下りてきたのは、迫力美人のお姉様だった。
クラウスさんによく似た金髪をまとめて高く結い上げ、素晴らしい体型を惜しみなく魅せるように、タイトな赤い薔薇色のドレスを身にまとっている。凶器になりそうなハイヒールを優雅にこつこつと鳴らしてわたしの目の前に立つと、「あら」とクラウスさんによく似た瞳を輝かせて形の整った唇で美しく三日月を作った。
「クラウスのお嫁さんなのね! なんて可愛らしいんでしょう! この子ったらモテるのにちっとも女性の気配がないのだもの。いつかラントと結婚するのかと心配していたら……こんな愛らしい子を連れて来るなんて! 嬉しいわ!」
豊満な胸に抱きしめられて、「違います!」とわたしは叫ぶことができなかった。当のクラウスさんはわたしの後ろで爆笑している。ちょっと、笑ってないで助けてください……。