5.魔法使いの友人は天使に見せかけた愉快犯
金髪王子様は、王子ではなく、魔法使いの友人だったらしい。
「そろそろラントが飢死するところだと思ってね」
しかも、友人を心配して食料を持ってきてくれたらしい。良い人だ。ものすごく良い人だ。
「それにしても驚いたよ。数ヶ月も引きこもって何をしているのかと思えば、こんなに可愛らしい悪魔を召喚しているなんてね」
可愛いですって! お世辞でも王子様のようなきらきらの笑顔で言われると、どきどきしてしまう。ああ、なんて良い人なんだ。
「しかし、長いことラントの友人をしているけれど、まさか悪魔を召喚して己の欲求を満たそうとしているとはね。君も突然で驚いただろう? 友人として代わりに謝るよ」
今までの散々な魔法使いの応対にくらべてこの優しさ! 感激のあまり涙が出そうだ。良い人だ。大変良い人だ。
「自己紹介がまだだったね。俺はクラウス。ラントとは幼い頃からの友人でね。放っておくと寝食を忘れる彼が野たれ死んでいないか、時々こうして様子を見に来ているんだ」
「あ、わたしは——」
「リリだ」
黙々と、王子改めクラウスさんが持ってきたパンや果物をむさぼっていた魔法使いが、わたしの代わりに名乗る。なにゆえ。いや、それよりリリって誰ですか。わたしには宮森良子という十七年間苦楽を共にした名前が……。
「フルネームを軽率に名乗るな。どんな契約に使われるかわからんぞ」
「……あなたがそれを言いますか」
否応無しに名乗らされて悪魔の契約をしたのはお前ではないか、と瞳で語る。しかも勝手に呼び名をつけられた。リリってどこからやって来たのだ。ミヤモリリョウコの真ん中か! ひねくれた性格がよく表れている命名だと思う。
魔法使いは、パン屑のついた口角をふふんと上げる。なぜか得意げだ。
「リリちゃん、か。うん、凛とした響きと可愛らしさを備えた良い呼び名じゃないかな。君にぴったりだと思うよ」
「クラウスさん……」
悪魔がいるなら天使もいるのだろう。クラウスさんはまさに、天使で王子だ。ささくれだった心がみるみる癒されていく。
「僕のつけた名だ。ぴったりなのは当然だろう?」
魔法使いの偉そうな物言いに、ハートになりかけた目が淀んでいく。
「はぁ……」
「なんだその溜息は」
「何でもないです」
その鶏ガラのような体のどこに入っていくのだ、というほど魔法使いはよく食べた。よほど空腹だったのだろう。一体何日断食していたのか。
わたしはというと、ぶどうのような果物を少し摘んだだけだ。少しすっぱくて甘くて美味しかった。空腹は感じなくても、味覚は変わっていないようだ。
「空腹を感じないのは、僕の魔力を食べているからだ。天才魔法使いの僕の魔力は膨大だからな! 感謝するといい!」
悪魔の主食は魔力らしい。食べている自覚はないけれど、契約した時から勝手に魔法使いの魔力をわたしが吸収しているのだ、ということだった。
「……」
「なんだその嫌そうな顔は」
「いえ別に」
この右も左もわからない世界で飢死しないのはありがたいけれど、この上から目線の魔法使いのおかげで命をつないでいる、というのは何となく屈辱的だ。
「……リリちゃん、気をつけたほうがいいよ。君は今、ラントの魔力の塊みたいなものだから、魔獣にとってはすっごく魅力的なごちそうなんだ。一人で森の中をふらふらしてたらぱくっと食べられちゃうよ」
「え!」
やっぱり熊より怖そうなものがいたのか。危ないところだった。
わたしが青ざめていると、呆れたように魔法使いがわざとらしい溜息をつく。もしかしたら、わたしがうっかり魔獣とやらに食べられてしまうところだったのに、その態度はいかがなものか。何も説明しなくて悪かったね、くらいの殊勝な言葉はいただけないのか。
「クラウス。僕の悪魔にデタラメを吹き込むな。この森に魔獣なんていないし、魔獣が好むのは自然界の霊力だ。お前も簡単に信じるな、リリ。こいつはへたな悪魔より嘘つきなんだ」
「え?」
思いがけないことを言われて、とっさに理解ができない。
この天使な王子様が?
思わず青ざめるような嘘を?
そんな馬鹿な、と見つめると、クラウスさんはやはり天使のような微笑みをこちらに向けてくれた。
「嘘つきだなんて心外だな。俺は、退屈な日常にスパイスを加えて楽しんでいるだけだよ」
ああ、なんということでしょう。天使のような笑みは変わらないのに、クラウスさんの背後に悪魔の羽の幻が見える。
「まあそれはさておき。リリちゃん、とりあえず俺の家においでよ。ここは生活する場所じゃあないし、ほら、女の子の服とかもないから、ね?」
わたしははっとしてマントの前をかきあわせた。そうなのだ。わたしは昨日のはじけたシャツに魔法使いに借りたマントを羽織ったままの格好だった。
「えっと。服は貸していただけると助かります、けど……」
ちらり、と魔法使いのほうへ目をやる。
「行ってこい。たしかにそのままの格好というわけにもいかないだろう。何ならクラウスのところを寝所にしても良いさ。必要な時は呼ぶ」
たしかに、契約によって彼はいつだってわたしを呼び戻せてしまうのだ。
「決まりだね。行こう、リリちゃん。悪魔のお客様は初めてだ」
クラウスさんが立ち上がってにこりと笑う。本性をかいま見た今では、新しい遊び道具を見つけたような笑みにも思える。服を貸してもらえるのはありがたいけれど、わたしは本当にこの人についていって大丈夫だろうか。
「お世話になります」
けれども今さら断れる術もなく、わたしは立ち上がってからぺこりと頭を下げた。礼儀正しい悪魔だね、といよいよ面白そうな顔をされる。
「おい。これを持っていけ」
魔法使いはその辺りに落ちていた紙に何かを書きつけてわたしに押しつけた。
「これは?」
描かれているのは、わたしを召喚したという魔法陣に似ている。
「僕の名は教えたな?」
「……ラント」
呼び損ねてから何となく名前を呼びづらくなっていたけれど、忘れたわけではない。クラウスさんだってラントと呼んでいる。
「フルネームのほうだ。ああ、クラウスの前では言うなよ。いざという時には呼べ」
いざという時ってどんな時ですか、とも聞けず、わたしはこくりと頷いた。
よし、とラントは言って、飼い犬を褒めるように頭を撫でてくれる。フルネームのほうは、契約した時のあれだろう。実はおぼろげです、と今さら言いだせる雰囲気ではない。
「おお。ラントが優しい。姉さんに報告したら爆笑するな」
爆笑するのか。どんなお姉さんなんですか。
「報告するな!」
ラントが吠える。
クラウスさんが先にはしごを上って地下室を出た。では、とわたしがはしごに手をかけたところで「リリ」とラントに名を呼ばれて腕をつかまれる。ついさっき一方的に付けられた呼び名なのに、もう自分でもしっくりきているのだから不思議なものだ。これも契約の効果なのだろうか。
「何ですか?」
ラントはちらりと上を見上げてから、わたしの耳元に唇を寄せてささやいた。
「クラウスが、僕の依頼した相手だ。しっかりやれよ」
依頼って何でしたっけ? と思い出すこと数秒。
『とある男を呪い殺してほしい』
そういえばそんなことを言われた。わたしとラントの契約を解除するには、その依頼を叶えなくてはならなくて。
そして、ラントの言っていたとある男というのが、クラウスさん……?
しっかりやれって、それはもしや『殺れ』と書いて『やれ』と読む的な?
「そんなの無理に決まってる!」
「悪魔だろう? やる前から諦めてどうする。そういうことは全力でやってみてから言え」
「そんなスポ根みたいに言われても……」
途方に暮れていると、「リリちゃん」と上からわたしに殺される予定のクラウスさんが顔を見せた。
「どうかした? あ、ごめん。いってきますのキスをするところだったんだね」
「違います!」
しかし、誤解されかねない至近距離だったことに気がついて、わたしは慌ててはしごを駆け上がった。
「リリ」
上り終わった後で、ラントがまた呼ぶ。
「まだ何か?」
殺人依頼なら、念を押されても無理しか言えない。
「いってきますのキスはしないのか?」
「しません!」
からかわれているのか、変態なのか。
おそらくその両方であるのだとわたしは確信した。