4.初めての手料理
目が覚めると、床の上だった。ベッド代わりに借りたソファの上から落ちていたようだ。
「んー!」
体は痛かったけれど、気分は良い。
弟の出てきた夢は鮮明に覚えていた。都合の良い夢かもしれない。
でも、信じよう。信じてしまおう、と思う。こうしてここにいる現実も。
「がんばれ、わたし」
頬を軽く叩いて自分を励ます。元の世界に戻れるかどうかは未知数だ。桂はまかせろ、と嬉しいことを言ってくれたけど、姉として弟に頼りっきりではいられない。
よし、と拳を握って立ち上がった。埃も一緒に立ち上がって、くしょんくしょんと連続でくしゃみが出る。イマイチ決まらない、と鼻をすすりつつ、部屋を見回した。
おそらく、この家を建てた人はここを居間というつもりにしていたのだろう。
かろうじてテーブルと椅子はあるけれど、物置にされていて、もはや化石のような遺物と化している。わたしが寝ていたソファも同じように埋没していたのを発掘したのだ。
疲れたのでとりあえず今夜は休もう、お前は居間のソファを使え、と昨夜、あの魔法使いに言われたのだけれど、居間!? ソファ!? と部屋のドアを開けて混乱しましたよ。
ちなみに、魔法使いは昨日の地下室で寝ると言っていた。普段からそうしているらしい。確かに、上の部屋の惨状を目にした今では、あの地下室が一番片付いていると思える。
つま先立ちで何とか窓辺までたどりついて、カーテンを引いた。
分厚い森の木々に遮られて、太陽は遠かったけれど、部屋に光を取り込めるくらいには明るい。
「……明るくなって部屋の惨状がますます露に……」
陽に照らされて埃がきらきらと輝いていたけれど、そんなエフェクトを発揮されても汚いものは汚い。
とりあえず空気の入れ替えだけでも、と渾身の力で窓を押し開いた。一体どれだけ長い間開けていなかったのかと想像することすら恐ろしい。
足を忍ばせて、地下室がある部屋のほうをのぞいてみたけれど、しん、と静まりかえって人の気配はない。おそるおそる地下室を覗いてみると、魔法使いの伸ばした足が見えた。彼はまだ就寝中らしい。
「……そうだ。あの、魔法陣」
魔法使いの足の先に、魔法陣がある。子供の落書きにしか見えないが、あそこが扉になってこちらの世界に召還されたのだ。
ならば、帰るのもあの魔法陣、というのが常道ではなかろうか。
すこし迷ったけれど、桂の顔を思い出して勇気を出すと、そろそろと木のはしご段を下りていった。
「……」
荷袋を枕に、魔法使いは眠っている。
そうっと寝顔を覗き込む。落ち着いてよく見ると、整った顔立ちをしている。うっとうしい前髪と襟足を切りそろえたら、なかなかの美青年に見えるのではなかろうか。
「ん……」
唇が動いて、咄嗟に十センチほど飛び退った。
「んー……」
魔法使いは寝返りを打って、すやすやと再び寝息を立てる。
ほっと息を吐き出しながら、昨日のあれやこれやの感触を思い出しそうになり、慌てて頭を振って追い出す。
「そう! 魔法陣! それを調べにきたのよ!」
わざとらしく手を打ち合わせて気持ちを切り替える。
くるりと魔法使いに背を向けて、魔法陣に向き直った。
やっぱり、子供の落書きのようにしか見えない。
いびつな円が二重に描かれている。内側の円の中央にはバランスのとれていない星に、こうもりのような羽が一対。内側の円の外側には象形文字のような独特の模様がぐるりと描かれていた。例えるならば、棒人間が盆踊りをしているような図柄だ。
白いチョークで描かれているように見えたけれど、手でこすっても消えない。ブラシでこすったら消えるのかもしれないけれど、試してみる勇気はなかった。
とりあえず、魔法陣の上に立ってみる。
「……」
何も起きない。
しゃがんでみたり、飛び跳ねてみたり、魔法陣を叩いてみたりしたけれど、とくに変化は起きなかった。
「やっぱり、こう、呪文とかが必要なのかな」
ちらり、と魔法使いを振り返る。さっき見た体勢から動きはない。
「ア、アブラカタブラ〜」
羞恥に耳が赤くなるのを自覚しながらささやいてみた。
効果はない。
とりあえず、思いつくかぎりの呪文をとなえてみた。エロイムエッサイムからビビディバビディブー、漫画で覚えた九字まで切ってみた。果てはコンパクトで変身する呪文や某天空の滅びの呪文まで。
まったく効果はなかった。
「……何をしているんだ?」
挙げ句の果てに、途中から起床されていたらしい魔法使いに見られていたことが判明して、恥ずかしくて顔どころか体中から火が出そうになる。
「何でもないです。おはようございます」
「ああ……」
魔法使いは不審そうな顔をしたけれど、深く突っ込んではこなかった。
「……あの、どうかしましたか?」
突っ込んではこなかった、というより、突っ込む気力もないほどぐったりしているように見える。
「腹が……」
「え?」
「腹が減って、起き上がれん」
荷袋に身を預けて、魔法使いはうつろな目をして言った。
そういえば、わたしも昨夜から何も食べていないけれど、不思議とお腹は空いていない。これも悪魔になったおかげだろうか。
「ええと、何か食べ物を持ってきましょうか?」
「……」
魔法使いは眉をしかめてこちらを見ていたが、やがてこくりと頷いた。
「では、勝手に探させてもらいます」
立ち上がって上の部屋に戻る。
台所は、わたしが寝ていた居間とおぼしき部屋の続きにあるのがそれと、見当をつけていた。
覚悟をして息を止めて侵入したけれど、他の部屋と同じように埃っぽいだけで、恐れていたような腐敗臭はない。その発生源となりそうな食べ物自体が見当たらない。
「お腹がすいて動けないって、一体どれだけ食べてなかったんだろう」
心配する義理はないのだけれど、彼の日常生活が思いやられた。
とにかく今は食べ物だ。戸棚を開けるのにも、その前にある荷物や本をどかさなければならないので一苦労だった。
冷蔵庫のようなものを発見して、開けてみたけれど、中にはびっしり本がつまっていた。冷蔵庫に見せかけた本棚なのだろうか。異世界は謎だらけだ。
しかし、いくら探してもリンゴの一つも見つからない。
「どうしよう」
うっすら額ににじんだ汗をぬぐって、地下室に置いてきた魔法使いのぐったりした様を思い出す。こうしている間にも飢死しているのではなかろうか。
外に出て、森で食べられそうなものを探すという手段もある。
「でも、熊が出るかもしれないし」
何しろ異世界なのだ。熊よりも恐ろしいものが跋扈している可能性も多いにある。
森を抜けてどこかの町に助けを求めにいく、という手段もある。
「その前に、森の中で遭難しそう」
近くに町があるのかどうかもわからない。試すにはあまりに無謀というものだ。
「……は! もしかして!」
これだけ探しても食べ物が見当たらないのはおかしい。飢死しそうということは、魔法使いだって何か食べなくては生きていけないのだ。
わたしの目が冷蔵庫らしきものに注目する。
ここは異世界。電気も通っていないだろうこの世界に、元いた世界にあるような冷蔵庫があるとは限らない。
けれどもここは調理場には間違いなく、調理場に食料を蓄えるスペースがあるのは自然なことだ。
「そうだよね。ここは異世界なんだ。常識にとらわれてはいけないはず!」
わたしは意を決して冷蔵庫の扉を開いた。
「は?」
わたしの異世界初の手料理に、死にかけた魔法使いは失礼極まりない反応を見せた。
発掘して布巾で拭いた大皿に、こんもりと盛りつけたのは冷蔵庫に入っていた本のページだ。気を遣って病人仕様に、細かくちぎってある。栄養バランスがとれるように、数種類の本をブレンドしてみた。味見をする気にはなれなかったので、味に自信はないが、せっかく作った手料理にその反応はないのではないか。
「あ、もしかして生だと駄目だった? でも火をつけたら灰になっちゃうし……はっ、お湯に溶かしてスープにすべきだったとか?」
そのほうが胃にやさしかったかもしれない。気遣いが足りなかったか……!
「そういう問題じゃない! 山羊じゃあるまいし、紙が食えるか!」
魔法使いが大皿を手ではねのけると、わたしの渾身の手料理が盛大な紙吹雪になって地下室中に散らばった。
「……いや、わたしも、これを食べるのかなー? と思ったのだけど。ほら、先入観をもってはいけないですし」
「先入観とかそういう問題じゃない、だ、ろ……」
「わ、ちょっと!」
興奮して立ち上がりかけた魔法使いが、よろめいて倒れる。
慌てて彼を助けようと、正面から支えようとしたわたしは、
「ぎゃ!」
支えきれずにそのまま尻餅をつく。
「いたぁ。って、ちょ、あの!」
支えきれなかった魔法使いの体は、わたしに体重を預けてのしかかっている。
そしてその頭は、なんというか、わたしの心音がものすごく聞こえるだろう場所にジャストフィットしていた。
どかそうにも、わたしの両腕は自分と魔法使いの体重を支えるために床に突っ張って、ぷるぷると震えている。ここで腕の力を抜けば、床の上で魔法使いの体の下敷きになるしかない。
重たいし恥ずかしいし、心臓は壊れそうだし脳みそは破裂しそうだし、もうどうすればよいのかわからない。
にっちもさっちもいかず、ぷるぷると震えていると、どすん、と頭上から振動が届いた。
「こ、今度は何?」
屋根に隕石でも落下したのだろうか。はたまた、巨大な熊がこの家を壊そうと攻撃してきたのだろうか。キャパオーバーで勝手に涙がにじんでくる。
「おーい、ラントー? 生きてるー?」
どたんばたん、と二階で騒がしい物音と人の声らしきものがする。明らかに階段の本がなだれる音がして、うわー、といいながら笑う声もした。足音が近づいてくる。とりあえず、熊ではなさそうだ。ラント、というのは死ぬ間際に破廉恥なクリティカルヒットをやってのけたこの魔法使いの名前だったように思う。
「ラントー? またこっち?」
ひょい、とはしご段の上から顔をのぞかせたのは、絵に描いた王子のような、金髪碧眼の美青年だった。
金髪王子と目が合う。
「あ、ごめんね。取り込み中だった?」
にこー、と爽やかな笑みで地下室の入り口を閉めようとする彼に、
「待ってください!!」
全力で助けを求めた。