3.夢で会いましょう
「……ちゃん、姉ちゃん! 姉ちゃん! 起きろ、遅刻するぞ!」
「ひっ、わたしの皆勤賞が!」
まどろんでいた意識が急上昇して、ぱっちりと目を開く。
「桂?」
開いた視界いっぱいにうつっているのは、弟の、桂だった。
短く刈った黒い髪。わたしとよく似ていると言われる目元に、黒い瞳。日に焼けた健康的な頬。
昨日だって会っているはずなのに、もうずっと会っていなかったような、ひどく懐かしい気持ちになる。
「姉ちゃん、やっと会えた」
けれども、桂も同じ気持ちのようで、ほっとしたように微笑んだ。少し大人びた笑みが珍しい。
「ここは……?」
まだ頭がぼんやりしている。
見覚えのある、宇宙のような空間だ。わたしは仰向けにぷかぷかと漂い、桂はそんなわたしを上から見下ろしていた。
とりあえず、体を起こそうと手と足をじたばたさせると、
「痛っ!」
ごちん、と間近にあった桂のおでこと激突してしまった。
互いに、額をおさえてしばしうずくまる。
「もう、何してんのさ! 夢の中でもこんなにどんくさいなんて!」
「ええ? 夢?」
こんなにぶつけた額が痛いのに、夢だというのだろうか。ああでも、宇宙だったら息ができるはずもない。言われてみれば、ここで目を覚ます前に眠りについたような気がする。だんだん、思い出してきた。
そうだ、思い出してきた。
病院の匂い。
悲鳴のような自分の泣き声。
引き裂かれそうな胸の痛み。
後悔と懺悔と、すがるような祈り。
それらが悪い夢だったら、どんなに良かったか。
じわり、と額の痛みとはべつに涙が浮かぶ。
「桂……もう、会えないかと思った。はっ! これ、わたしの都合の良い夢じゃないよね? 天国にいく前に、最愛の姉の夢に立ち寄りました〜っていうオチだったら、お姉ちゃん泣いちゃう!」
「姉ちゃんが、悪魔と契約とか信じられないことして俺を生かしたんだろう? あと、最愛の姉とか思ってないから」
目をそらしてぶっきらぼうに言うのは、わたしの知っている、いつもの桂だ。
「うわーん。桂〜!」
「どっちにしろ泣くのかよ。うっとうしいなあ、もう」
感極まって抱きついたわたしを、けれども桂は突き放さないでいてくれた。いつのまにやら口が悪くなってしまったけれど、やさしい子なのだ。生きていてくれて良かった。助けられて良かった。
ありがとうございます。神様、仏様……それから、悪魔さん。
「……そういえば、悪魔と契約したこと、知っているの?」
ひとしきり泣いて、桂から身を離す。わたしは桂より一ミリだけ背が高い。厳正なる身長測定の結果だが、計ったのは数ヶ月前のことなので、今もまだ姉のささやかな威厳が守られているかは定かではない。
ほとんど同じ高さにある弟の目を見つめる。
「姉ちゃんの魂を、俺に入れてく時、会った」
桂は一瞬だけ目を合わせた後に、そっと逸らす。少しだけ目が赤い。桂もきっと泣いてくれたのだろう。せっかく止まった涙がまたあふれてきてしまいそうだ。
「そっか。あのね、気にするなって言っても、やさしい桂は気にしちゃうと思うけど、これだけはわかっていてほしい。わたしは、こうなったことを、後悔していないから」
言うと思った、という溜息をもらして、桂が半眼でわたしを睨む。
「……皆勤賞、とれなくなっちゃったけど?」
「う。それはちょっと、悔しいけど」
「悔しいのかよ」
他愛ないやりとりが嬉しくて、くすくす笑うと、桂が呆れたようにまた溜息をついた。
「俺は、感謝していないからな? 姉ちゃんにも、姉ちゃんにつけこんだ悪魔にもまだ怒ってるし、当分許すつもりもない」
「……うん」
彼の怒りは正当だ。逆の立場だったら、わたしもきっとものすごく怒っていたと思う。
「お父さんと、お母さんに、このことは?」
「話した。姉ちゃんがいきなり行方不明になって、警察沙汰になるとこだったし」
「信じてくれたの?」
こんなに突拍子もない話なのだ。実際に悪魔とあったわたしや桂はともかく、簡単に頷ける話ではない。
「姉ちゃんが突然、光になって消えるとこ、たまたま二人とも、見ちゃったらしいんだよね」
「そ、そうだったの」
言われてみれば、わたしと両親は、桂の手術室の前で、一緒に彼の無事を祈っていたのだ。桂が突然事故にあって、わたしはわたしで突然光って消えてしまって。両親の心臓にはだいぶ負担をかけてしまったことだろう。
せめて、わたしが元気でいることだけは桂を通して伝わってほしい。
「話して、父ちゃん母ちゃんとも決めたから。やり方はまだ分からないけど、絶対、姉ちゃんをまたこっちの世界へ連れ戻すって」
桂が、姉のセンチメンタルな気持ちなど吹き飛ばすように力強く言った。頼もしく成長して、とほろりとしたけれど、それは困る。
「気持ちはすごく嬉しいけど、桂。それは駄目だよ」
「どうして」
不満そうに、桂が眉根を寄せる。
「だって、悪魔と契約したから。あなたを助ける代わりに、わたしが別の世界に行くって。わたしが元の世界に戻ったら、契約不履行で桂が生きられなくなってしまう」
言葉を選べずに、言ってしまった。
こんなふうに言ってしまったら、桂が自分のせいだと気に病んでしまう。伝えたい気持ちはわかっているのに、うまく言葉にできなくて情けない。
「そんなの知ったことか」
けれども桂は、わたしのもやもやを鼻で笑い飛ばすようにして口角を上げた。
「俺だってまだ死にたくない。けど、姉ちゃんを理不尽な契約の犠牲にしたままでもいたくない。全部がうまくいく方法を、絶対見つけてやるから。まかせろ!」
「桂……。初めて桂が格好良く見えたよ」
「初めてって何だよ!」
頬をふくらませて拗ねる桂はやっぱり可愛い。
本当は、お姉ちゃんのわたしが桂の心を軽くしてあげなくちゃいけなかったのに、逆に励まされて、肩の力をほどいてもらえた。
「ありがとう、桂。わたしも何か良い方法がないか探してみるよ。そうだ、天才魔法使いだっていう人に会ったから、相談したら何か教えてもらえるかも」
安心したら、眠たくなってきた。夢の中で眠くなる、というのもおかしな話だけれど。
「天才魔法使い? 何それ、自称ならすっごい怪しいんだけど」
「あははー。いきなりキスされたときはびっくりしたけどねえ。悪い人ではなさそうだよー」
とろとろと落ちるまぶたに語尾が間延びする。
「は!? 何だよそれ、思いっきり危ない奴じゃんか! 待って、姉ちゃん今そいつの家にいるわけ?」
「うー……ん」
「どっち!? 寝るな! おい、姉ちゃん! 姉ちゃ……! ……!」
桂が何やら叫んでいたけれど、もう眠くて眠くて、わたしは意識を手放した。