10.不幸で幸福なわたしたち
最終話です。
ラントの乾いた手が、わたしの背中に触れている。
服ごしではなく、素肌にだ。
わたしはさっきから、呼吸を止めて、耐えきれなくなっては震えながら細く息を吐き出して、また息を吸って、止めて、と繰り返している。
「どんな感じがする?」
ラントの体重で、ベッドがきしむ。
「どんな感じと言われても」
わたしは前を隠す毛布を命綱のように抱きしめる。
「じゃあ、出してみて」
「うん。いくよ?」
えい、と背中に意識を集中させて、翼を解き放つ。
「うわ」
ごろり、とラントがベッドの下に転がった。
「だ、大丈夫?」
「ああ、うん。やっぱり、瞬間がすごい光でよく見えないな。今度はしまうところを見せて」
ラントは身軽に体を起こし、わたしの座るベッドに再び飛び乗った。こういう時の瞬発力だけはすごい。壊れかけのスプリングが悲鳴を上げる。
「よし、いいよ」
「う、うん」
ラントは後ろからわたしの腰をがっしりとつかんで、近距離で翼の付け根に視線を注いだ。
えい、と翼をしまった瞬間に、
「やっほー、ラントにリリちゃん! 今日も生きているかい?」
ばん、と窓が開いて、ハニィにまたがったクラウスさんが顔を出した。
「……あ、ごめん。取り込み中だった?」
わたしは肺活量の限界まで叫んだ。
*****
「翼のしまい方を教わったんだ。良かったね」
紅茶のカップを両手にはさんで、クラウスさんはにこりと微笑んだ。
「ええ、まあ。その前に、お兄ちゃんが連れて来た魔界の食虫植物に食べられそうになりましたけど」
クラウスさんのお土産のクッキーを出しながらわたしが言った。一階のリビングに移動している。もちろん、服はちゃんと着ました。
「僕が丸焦げにしてやったけどな!」
「ご褒美にって翼のしまい方を教えていきました。あの人の考えていることは、よく分かりません」
威張るラントは無視をして、溜息をつく。
親切なのか、物騒なのか分からない。こんな風に悩ませることを、楽しんでいるだけのような気もする。
「ハニィのほうは、どうですか?」
元の体の時と同じように、ハニィは屋根の上でクラウスさんを待っている。
「ありがとう。ゆっくりだけど、あの体で飛ぶのにも慣れたみたいだし、心配はいらないよ。抱き枕を取られたキイスは寝不足みたいだけれど」
クラウスさんは苦笑したけれど、その笑みに深刻な影はない。わたしはほっと息を吐いた。
「わたしの翼の分の魂も返してあげられたら良かったんですけど……」
「それはもう気にしないでって言っただろう? どんなに許せない理由であれ、本来死ぬはずだったハニィの命を救ってくれた、報酬として受け取っておいてよ、可愛い悪魔さん。いや、俺にとっては天使さん、かな」
ぽんぽん、とやさしくクラウスさんが頭を撫でてくれる。
「リリに触るな!」
「おっと危ない」
噛みつこうとしたラントの歯から、クラウスさんは慌てて手を引いた。
他愛のない話をした後で、じゃあ、とクラウスさんは再びハニィに乗って、ゆっくりと夕空の中を帰っていった。
「……そうか。背に乗るという手が……」
クラウスさんたちの背中を見送りながら、ラントがぽつりと言った。
少し考えていたと思ったら、きらりとその瞳が光る。
嫌な予感を覚えて、わたしは一足先に家の中へ戻ろうとしたけれど、一歩遅かった。
「リリ! 僕をおんぶしてくれ!」
すばやくわたしの両肩を捕まえてラントが言う。
「いや、さすがに無理じゃないかなあ、と」
「大丈夫だ! 僕の悪魔に不可能はない!」
「その信頼は喜んで良いの?」
複雑な気持ちになりながらも、わたしは屈んでラントに背を向けた。
渋りつつも結局はラントに逆らえないのは、主従契約のせい、というよりも、死んだ後にラントの魂を悪魔にあげると、わたしが勝手に言ってしまったことが原因だ。
気にするな、とラントは笑ってくれたけれど、やっぱりどうしたって負い目を感じてしまう。
「よ、と。さあいいぞ。飛んでくれ!」
わたしに負ぶさったラントが空を指差して言う。
「うん。よい、しょ……きゃあ!」
「うわ!」
ラントの悲鳴と共に、高く水しぶきが上がる。
立ち上がろうとしたわたしは、バランスを崩して前につんのめり、ちょうど良くラントを庭の池に背負い投げしてしまったのだった。
「ラント! 大丈夫ー?」
やれやれ、と呆れた顔で、池の住人、人魚のプテラさんがラントを岸まで運んでくれた。
「げほっ! はあ、無理だったか……」
「ごめんね、ラント。プテラさんに習って筋トレすればいけるかもしれないけど」
「謝ることじゃないよ。リリは怪我はない?」
びしょぬれのまま言うラントに、わたしはうなずく。良かった、とラントは微笑んだ。
「うーん。筋トレも良いけど、風の魔法でアシストするっていう手もあるか」
「そんなに空を飛びたいなら、クラウスさんに頼んでハニィを借りたほうが早いんじゃ……」
「いや、リリと一緒だったら、僕も界を渡れるかなって思ってさ。リリの世界を、僕も見てみたいし」
思いがけない言葉に、わたしはタオルを取りに行こうとして浮かせた腰を半端に止めた。
「え。でも、わたしの界渡りはまだ不安定で、どこの世界につながるか分からないし……」
そうなのだ。
前に戻れたときは、あくまで兄のアシストがあったから、わたしの世界に渡ることができた。あの後、何度か試してみているけれど、行き着く先はいつも別の世界で、わたしの世界には当たっていない。
まあ、そう上手くはいかない、ということだ。
「上達のコツは、また悪魔から聞き出したら良いだろう?」
悪魔の兄は、すっかり便利屋の扱いである。
「そうかも、しれないけど」
人間のラントがそんな常識破りのようなことをして、無事でいられる保証はない。わたしのいた世界を見てみたい、と言ってくれるのは嬉しいけれど。
わたしが反応に困っていると、くすくすとラントが笑い出した。
「どうしたの?」
「うん。実験台に使われたり、無茶を言われたり、リリは僕みたいな悪い魔法使いに捕まって、本当に不幸だなぁと思って」
そう言いながら、ラントは楽しそうに笑う。
「それを言うなら、ラントのほうが不幸だよ。せっかく喚び出しに成功した悪魔は半人前以下だし、その悪魔が死んだら、魂を奪われる約束を勝手にされてしまうし」
「なんだ。まだ気にしていたのか」
濡れた前髪を、ラントは鬱陶しそうにかき上げる。普段も長い前髪に隠れている顔がさらされて、うっかりどきっとした。身だしなみの悪さのせいで、時々忘れそうになるけれど、すごく綺麗な顔立ちをしている彼なのだ。
「そのことなら、問題ない。いざとなったら、あいつに食われる前に、リリに僕の魂を食ってもらうから」
あらわになった綺麗な顔で笑う。
「そんな……」
「ふふ。青い顔。ほら、こうやって僕はすぐにリリを不幸にするんだ。可哀想なリリ」
濡れた冷たい手で、ラントはわたしの頬を愛おしむように撫でた。
「食べてあげないわ。ラントには悪いけど」
「食べてよ」
「嫌です」
む、と互いににらみ合ってから、ふ、と笑った。
「でも、リリを不幸にする権利は僕だけのものだから。他の奴にリリを不幸になんてさせないよ」
「わたしも。不幸になるのなら、わたしのせいで不幸になってね、ラント」
勢いよく抱きついたわたしをラントは支えきれず、今度は二人で池に落ちてしまったのだった。
これにて完結です。
つたない物語にお付き合いいただき、ありがとうございました!




