9.VS悪魔の兄
家族に見送られ、わたしはハニィの翼で、えいやっと飛び立った。
魔界で蝶の羽が生えた時とは違い、ハニィの翼はきちんと言うことを聞いてくれる。さすがハニィだ。
ぐんぐんと高度を上げながら、ハニィの魂の移動は上手くいっただろうかと考える。
わたしから、ハニィの魂が出ていったのはわかった。空腹になったのがその証拠。翼の分だけが、わたしに定着して残されてしまったのだと予想がつく。
雲を突き抜けて、さらにスピードを上げると、周囲が空から、虹色に変化した。虹の中のトンネルをくぐっていくみたいだ。
「これが、界を渡る道……」
迷子になる心配はなさそうだった。
ラントの魔力に、体が勝手に引き寄せられる。
「ラント、無事でいて……」
はやく。
もっとはやく。
心臓ばかりが急いで脈打つ。
景色が変わらないから、進んでいるのか止まっているのか分からなくなりそうだ。
「あ」
唐突に、世界が切り替わる。
放り出されたのは青空だ。
色濃く青い、空。
「わ、わ」
空中でわたしはバランスを崩し、後ろにひっくり返って逆さまになる。
体を起こそうとすると、今度は勢い余って前につんのめった。厩舎が見える。屋根に穴が空いて今にも崩れ落ちそうだけれど、ハニィの厩舎に違いない。ぐんぐんと近づく地上に、ぎゅっと目をつむる。穴の空いた厩舎の中へ、わたしは情けない叫び声を上げながらダイブした。
「い、たた……」
座ったまま身を起こすと、クラウスさんにユーナさん、悪魔の兄が、驚いた顔でこちらを見下ろしていた。
一悶着あった後なのだろう。厩舎の屋根は吹っ飛んで、あちこちボロボロだ。いつも清潔そうなクラウスさんの服も、汚れたり破れたりしている。
「なんだ、戻ってきてしまったのか」
そう言う悪魔は無傷で、土をかぶった様子もない。
「お兄ちゃん……ハニィは?」
「こちらです、リリ様」
キイスさんの声に振り向くと、そこには、自分の足で立つぬいぐるみのペガサスがいた。
「俺は、約束を守る男だ」
「……ハニィ?」
おそるおそる呼ぶと、ぬいぐるみのペガサスはゆっくりとこちらに歩み寄って頬を寄せてくれた。
思わず、ぎゅっとその首に抱きつく。命を宿した、あたたかい体だった。
「あ! そうだ! ラントは!?」
「あ、ようやく思い出してもらえたわね」
ユーナさんが苦笑する。その姿から、無事なのだと期待をするけれど。
「死んだかもしれんな」
「……ああ」
兄の低い声に、クラウスさんも頷いて追いうちをかけた。
「え! お兄ちゃんが魂を!?」
挑むように片膝を立てると、足元で何かごりっという音がした。けれどもそんなことを気にしている余裕はない。
渾身の力で、兄を睨みつける。
「ああ、そのように扇情的な目を向けられると、その体も魂も貪りつくしたくなってしまうな」
兄がうっとりと微笑む。
「気色の悪いことを言わないで! ラントはどこ!?」
ぐ、と足に力を込めると、妙にやわらかい地面がうめき声を上げる。
「気色悪いとはひどいな。それに、あの小僧をやっつけた犯人はお前だぞ、妹よ」
「それは、わたしのせいでもあると思うけど……」
わたしが自分で、ハニィに魂を戻してあげられていたら、こんなことにはならなかったのだ。悔しくて唇を噛む。
「あの、リリちゃん……」
気の毒そうな顔でクラウスさんが何か言いかけたのを、兄が片手を上げて止める。
「だがしかし、あいつを助けたのもお前だ」
「え?」
間抜けな顔で見上げるわたしに、兄は口の端を持ち上げて言った。
「先ほど、小僧の魔法をすべて無力化した俺は、奴の魂を奪う寸前だった。そこへ、上からお前が降ってきたので、取り損ねてしまった、というわけさ」
「わたしが、上から……」
大きな穴の空いた頭上を見上げ、それから視線を下に落とす。
見慣れた、ボロ布のようなマント。
「ラント!?」
上から降って来たわたしは、ちょうどラントの上に着地していたらしい。ラントはすっかりぺしゃんこになってしまった。
「ラント、しっかりして! 大丈夫!?」
わたしは慌ててラントを揺さぶった。
彼を助けに来たのに、わたしがやっつけてしまってどうする!
「うう……リリ?」
うっすらと、ラントがまぶたを開く。
「うん。ごめんね、ラント」
「僕は、一体……? 上から隕石が降って来たような……」
「そ、それは災難だったね!」
何か言いたげな視線を頭上に複数感じたけれど、バサッと翼を広げて追い払う。
「そうか。戻ってきてくれたんだな……。リリは元の世界に帰って、もうこちらには戻らないだろう、と悪魔が言うから……」
弱々しく上がる手をわたしは取って、頬に寄せる。
「心配させてごめんなさい」
そして、ぺしゃんこにしてごめんなさい。
「許してやる。特別だからな」
特別に優しい声で、ラントが目を細める。
わたしも、ラントのための特別な笑みで、鼻先を寄せていく。
「はーい、そこまでー」
「ひゃ!」
前髪を持ち上げられて額に、ちゅ、と兄に口づけられる。
「この!」
ラントが素早く床に魔法陣を敷くけれど、途中で手を兄に蹴飛ばされて、発動までに至らなかった。
「さあて、感動の別れも済んだところで、そろそろ約束の魂をいただこうか。絶望の味付けを失ったのは惜しいが、そこは譲歩してやろう」
手を伸ばす兄から、わたしはラントを引きずってあわてて距離をとった。
「すまない、リリ。奴をやっつけるつもりだったんだが」
僕が悪魔をやっつける、とは、あの時、唇越しにラントが伝えた言葉だ。
「いいよ。それは無理だと思ってたから」
「そこは信じろよ!」
「哀れですね、ラント様」
「まあ、実際無理だったわけだけど」
しくしく、とラントが顔を覆って泣く。
「約束を破るつもりだった、ということか。悪い男だねえ。妹よ、そんな奴のどこが良いのだ?」
兄が一歩ずつ近づいてくる。
「約束は、守ります」
「リリ?」
わたしは、大丈夫、とラントに頷きを返す。
「でも、それは今じゃありません。わたしが死んだ後になら、ラントの魂をあなたに差し上げます」
ラントが息を呑む気配が伝わる。
「ほう? では、今妹が死ねば、そいつの魂はすぐいただける、というわけか」
「な! リリ!」
兄の手が素早くわたしの首もとに伸びた。間に挟まろうとしたラントを押しのけて、わたしは兄の前に首をさらす。
鋭い爪が、首筋に刺さった。
「……」
「……」
押しのけたラントの肩に触れた手が震えてしまう。それを兄から隠すように、ぎゅっとラントの肩をつかんだ。
「……ふ」
悪魔の兄が笑む。
「ふ、はは。本当に、立派な悪魔になりおって! 俺が可愛い妹を殺せぬと、分かっていたのか?」
兄の手が、わたしの首から離れていく。
ほっと、わたしとラントの肩から力が抜けた。
視界の向こうで、クラウスさんたちも安心した顔をしている。
「分かりませんでした。わたしが、そう信じたかっただけ、だと思います」
「呆れた希望的観測だね」
でも、本当は知っていたのかもしれない。
この兄は、きっとわたしの命を奪わない、ということを。
初めてわたしの願いを聞き届けてくれた時から、きっとわたしはこの悪魔を信じてしまっていたのだ。
その後も、魔界に一緒に行ってくれたり、元の世界に帰る方法を教えてくれたり。
本当は優しい人なんですよね、と言ったら、この悪魔はきっとひどく嫌な顔をすると思うけれど。
「あーあ。萎えてしまったよ。とりあえず、今日のところは引いてやろう。そうだね。今度から、妹の命を狙うという楽しみができた、ということで良しとしてやろう」
兄が、悪魔らしい翼を広げて舞い上がる。
「リリは、僕が守る!」
わたしにしがみつきながら、ラントが言う。相変わらず、格好良いのか格好悪いのか分からない。
「弱いくせによく言うよ。まあ、妹の命を奪って、絶望に染まった君の魂をいただく日を楽しみにしているよ」
じゃあね、とウインクを飛ばして、兄は去っていった。
「とりあえず、一件落着、ですかね?」
溜息のようなキイスさんの声に応えるように、新しい体になったハニィが元気よく嘶いた。




