6.ドクロが黒く染まるとき
弟の、桂のことをわたしは思い出していた。
悪魔に目をつけられて、理不尽にも命を奪われるところだった桂。
その理不尽に桂を奪われることが許せなくて、自分の魂と引き換えに、わたしは悪魔になった。
そして今、理不尽にハニィの命が尽きようとしている。
「……」
「リリちゃん、お願いだ!」
「クラウス、やめろ。少し冷静になれ」
わたしとクラウスさんの間に入ろうとしたラントの肩を、キイスさんが掴む。ラントはその腕を払おうとしたが、非力なラントではキイスさんの力に敵わない。
だから、遮るものもなく、クラウスさんの視線は、痛いほどまっすぐにわたしを刺した。
クラウスさんの瞳には、色々な感情が渦巻いているようだった。
不安。
悲しみ。
迷い。
痛み。
そして懇願。
まるでわたしの胸元に下がるドクロのペンダントのように、ぐるぐると混沌が渦巻いている。
息を吸って、吐く。
桂を救えたこと、悪魔になったことに後悔はない。
できるものなら、わたしだって、ハニィを救いたい。
でも、それはこういう形ではない。クラウスさんの代わりにハニィを助けるなんて、できない。
自分は弟を助けてもらったくせにと罵られても構わない。
クラウスさんを傷つけることになっても、わたしはクラウスさんの願いに頷くことはできない。
「できません」
わたしはクラウスさんを見つめて言った。
ぐるぐると混沌が渦巻いていたクラウスさんの瞳が、目の前でひとつの感情に染まっていく。
黒一色の、絶望。
「……そうか」
かすれた声でクラウスさんが頷く。
後ろで、キイスさんが嗚咽を洩らすのが聞こえた。
ありがとう、とユーナさんの唇が動く。
わたしはユーナさんに頷いた。未熟者の悪魔なわたしだから、涙が流れてしまうのは大目に見てほしい。
肩に手が置かれる。ラントの手だ。冷たい手だったのに、じわじわと温かくなっていくようだった。
「おめでとう!」
クラッカーが鳴って、銀色の紙吹雪が降り注ぐ。
「え?」
「なに?」
まるで場違いな明るい声が響く。
「悪魔昇級試験、合格だ、妹よ! うむ、お前ならやれるとこの兄は信じていたぞ!」
突如現れたのは悪魔の兄だ。わたしの両手をとって、くるくると踊りだす。見れば、ドクロのペンダントは真っ黒に染まっていた。
「あの、今はそれどころじゃ……!」
クラウスさんたちは、踊るわたしと悪魔をぽかんと見ている。
ハニィは今も、苦しそうにしているのに、わたしと悪魔だけが異世界にいるみたいだ。
「おい、リリを離せ!」
我に返ったラントが、わたしの腰にしがみつく。
「ふん! いつも邪魔ばかりして、本当に忌々しい小僧だな! 絶望に染まった魂を食ってやろうと思っていたのに、がっかりだ」
「お兄ちゃん、まさか最初からそのつもりで……」
兄は目を細めてわたしを見下ろし、尖った白い歯を見せた。
「魔力の高い魂は高級だからな。そのうえ、絶望のスパイスで味付けをすれば絶品だったのに。なかなか思うようにいかぬものだ」
「この、悪魔め!」
ラントがわたしの腰を引っ張って兄から離れようとする。
「悪魔……では、あなたなら俺の魂でハニィを救えるのか?」
クラウスさんの瞳に、希望の光が宿る。
兄は品定めをするようにクラウスさんをじろじろと見た。
「……そんなことをして俺に何の得がある? そっちの女の魂をもらえるんなら考えてやっても良いが?」
「駄目だ!」
クラウスさんは、ユーナさんをかばうように素早く動いた。
兄は唇をゆがめる。
「身勝手なもんだね、人間ってやつは。悪魔のほうがよほど分際を心得ている」
ユーナさんがクラウスさんの腕をきつく掴んだ。
「……痛いよ、姉さん」
「私にもっと握力があれば、あなたの腕をへし折って粉々にしているところよ」
「目が本気なんだけど」
クラウスさんは身をすくめる。けれども痛いと言いながらも、ユーナさんの手を振り払うことはしなかった。
「ごめん……」
「一生許してやらないわ。馬鹿な弟」
ユーナさんも、クラウスさんを止めたかったのだと思う。
でもきっと、強くは引き止められなかったのだ。彼の願いを叶えてやりたいという気持ちとせめぎ合って。
「……ふむ、しかし、ペガサスの魂か」
兄が、舌で上唇を舐めた。
「ハニィ様に触れることは許しません!」
涙と鼻水でひどい顔になったキイスさんが、尻尾を逆立てて、兄の前に立ちふさがった。
「どきたまえ、ワンコ。俺は小僧の魂を食い損ねて腹が空いているのだ」
ゆらり、と兄の周囲の空間が揺れた、と思った次の瞬間には、キイスさんが壁に吹き飛ばされていた。
「キイス!」
「キイスさん!」
兄が一歩ずつハニィに近づく。一歩ごとに、深い夜闇の匂いが立ちのぼる。
忘れていたけれど、彼は、力の強い悪魔なのだった。
「駄目です!」
未だに腰にまとわりついたラントを引きずったまま、わたしはハニィと兄の間に立ちふさがった。ハニィをかばうように、両手を広げる。
「ハニィの魂を食べないでください」
「だが、このペガサスはもうじき死ぬ。俺が今魂を食ったとて問題なかろう?」
兄が優しげに言う。
「それでも、駄目です」
「では俺の腹ぺこはどうしたら良い」
「そんなの、知りません!」
「……立派な悪魔だな、妹よ」
わたしのめちゃくちゃな言い分に、兄が苦笑する。
「だが、俺はその上を行く悪魔だ」
兄は、わたしを軽く押しのけて、苦しく息をするハニィの体に触れた。
「あ!」
兄がハニィから何かを抜き取るような動作をすると、そのままそれを口に含む。
荒かったハニィの呼吸が唐突に静かになる。
「ハニィ!?」
クラウスさんの悲鳴を聞きながら、わたしは兄に飛びついていた。
「おい、リリ!?」
くっついたままのラントと、二人分の体重で兄を床に押し倒す。
「ぐ!」
さすがに不意打ちに対処できなかったのだろう。後頭部を床にしたたかに打ちつけた兄が痛そうに呻いた。
迷ったり、ためらったりしている余裕はない。
わたしは息を吸い込むと、力強く、兄の口に自分の口を突進させた。




