4.不幸にするのは難しい
すっかり元の世界に渡れるつもりになっていたけれど、それにはまず、誰かを不幸のどん底に叩き落とし、このドクロのペンダントを真っ黒にしなければならないのだ。
誰か、と言っても、見ず知らずの誰かを不幸にするなんて、未熟者の悪魔のわたしには荷が重い。
必然、相手はこの世界の数少ない知人、そして承諾をしてくれたラント、ということになる。
「ラントのバカー。大嫌いー。顔も見たくないし、同じ空気も吸いたくないわー」
将来、大根役者となるには大いに有望な演技で、わたしはラントを傷つける言葉を叩きつける。
ペンダントを見る。青黒い、という程度だ。
ラントを見る。
「嘘だとわかっているからな。不幸にはほど遠いな!」
ふふん、となぜか威張られた。
「その割には不幸側に色が変化しているがな」
口を出したのは、自称兄である悪魔だ。そしてこの悪魔昇級試験の試験官も引き受けてくれている彼である。
「全く落ちこまないほど、僕の心は広くない!」
これまたなぜか威張られて、わたしはぎゅっとラントの腕に抱きこまれた。
「ちょっと、ラント!」
嫌ではないけれど、兄がいるので恥ずかしい。がんばって逃れようとしたけれど、細腕のくせにラントの離すまいとする力のほうが強かった。
「傷ついたんだ。このくらい、僕が甘えてしかるべきだ」
傷ついた、と言われると、わたしも棒読みとはいえ、そんな言葉を吐いた手前、抗う気持ちもしぼんでしまう。
「悪魔のくせに、手玉にとられておるなあ」
呆れたように悪魔が言う。
「不幸にするって、難しいですね」
わたしは諦めておとなしくラントに抱きしめられたまま、空を見上げる。
この空は元いた世界につながっていないけれど、同じように青く、雲は白い。
「俺が手を貸せば簡単だが、今回は試験官だからな。それもできぬ」
「いえ。これは、きっとわたしががんばらなければいけないことなんです」
そう思う。他人に任せてはいけない。わたしが、ラントを不幸にするのだ。
「だが、どうしてもと言うならば手を貸してやるぞ?」
「断る!」
わたしが断る前に、ラントが強い調子で拒絶した。
「なに、時間はかからんよ。一晩あれば充分だからな」
「絶対に断る!!」
ぎゅううう、とラントがわたしを締め付けんばかりに抱きしめる。
「ラント、苦しい……!」
「ふはは、まあ頑張れ、妹よ」
悪魔らしくなく兄は爽やかな笑い声を残して消え去った。
そんな感じで、わたしはラントに悪口を言ったり、わがままを言ったり、話しかけられても知らんぷりをしたり、とラントを不幸にするために、ここ数日、色々試してみたが、どれもペンダントを真っ黒にするまでには至らなかった。
代わりに、ラントは「傷ついた」という理由ができて堂々とわがままを言ったり、甘えたりができるようになったようで、機嫌の良い日が続いている。
不幸にしようとしているはずなのに、どうしてこうなった……!
「ラントは、どうしたら不幸になるの?」
ラントの嫌いな緑色の野菜を無理矢理食べさせながら、わたしはついに本人に尋ねた。
「苦い……」
口を半開きにして、涙目になるラントに「がんばれー」と適当に応援をしながらドクロのペンダントを見る。黒の混じった深緑、という具合。
「そのペンダント、どういう仕組みになってるんだろうな。分解して改造して真っ黒にできないかな」
苦さを逃がすように、べー、と舌を出してから、ラントが言った。
「そんなズル駄目だよ。壊しちゃったら大変だし」
「リリはそういうとこ真面目だよな」
手を伸ばしてきたラントから、わたしは庇うようにペンダントを胸に隠す。
一瞬、下唇を突き出したラントは、気を取り直したようににっこりと笑った。
「ねえ、僕、リリのために、がんばって苦いのを食べたよね? 口直しのご褒美があっても良いんじゃないかなあ」
「? 甘いもので良い? プリンはないけど、ユーナさんがくれた苺のムースがあるよ」
立ち上がろうとするわたしを、ラントはテーブルに乗り上げて引き止めようとした。
「そうじゃなくて! 痛い!」
引き止めようとして、テーブルについた手を滑らせ、縁に額を打ちつける。
「何してるの、ラント……」
「痛い……リリがキスしてくれたら直るような気がするけど……」
「……」
「……」
「苺のムースはわたし一人で食べることにするね」
「ぐうっ! 今のはけっこうきた」
けれどもペンダントは真っ黒にならない。
冷蔵庫からムースを出しながら、わたしは不幸について考えた。
わたしだったら、どんなことが不幸になるだろう。
悪口を言われること?
好物を取り上げられること?
怪我をすること?
どれも嫌だけれど、たぶん、ドクロが真っ黒に染まるほどではないだろう。
でも例えば。
弟が悪口を言われていたら、嫌だ。
ラントがプリンを食べられなくなったら、可哀想だと思う。
ユーナさんが怪我をしたら、すごく心配する。
自分が被害を受けるときよりも、ドクロは黒くなるように思えた。良い子ぶるわけではなく、素直な気持ちだ。わたしだけではなく、他の人だってほとんど、同じ気持ちではないだろうか。
冷蔵庫はキッチンにある。
来たばかりの頃は、本の墓場のようだったキッチンも、一応料理ができるような道具を整えられた。
「……」
鍋。
フライパン。
まな板。
……包丁。
「……」
苺のムースを取らずに冷蔵庫の扉を閉め、代わりにシンクの下の戸に手をかけた。
「リリ」
声に、はっと顔を上げる。
「あ……」
ラントが怖い顔をしている。
胸元のペンダントのドクロが、かちかちかち、と歯を鳴らす音がひどく間抜けに響いた。
でもその色を確認できない。
ラントから目を逸らすことができなかった。
「ラント様! リリ様!」
その時、叫ぶような声と共にドアが吹きとんだ。
「な、なんだ!?」
怯えながらも素早くラントは台所まで下がり、背中でわたしを押しつぶす。
泣き腫らした真っ赤な目をして、そこに立っていたのは、犬耳と尻尾を出したキイスさんだった。
「キイス? どうした? クラウスは?」
背中越しに、ラントの声の震えがわたしにも伝わる。
「ハニィ様が、ハニィ様が、毒矢に撃たれて……!」
「何だって!?」
ハニィは、クラウスさんの相棒のペガサスだ。
わたしとラントは一瞬、顔を見合わせる。
「クラウスとハニィは屋敷に?」
「はい」
「わかった。とにかく、行こう」