3.わたしを不幸にするヒーロー
「悪魔に、なりたかったんです」
「悪魔に?」
続きをうながすように、ユーナさんが鸚鵡返しに首をかしげる。大きな瞳が、人形のようにぱちぱちと瞬いた。
「悪魔、というか。何か悪いものになりたかったんです。犯罪とか、いじわるとか、そういう悪いことをしたいわけじゃなくて、自分が悪いものになりたいというか、毒になりたいというか。うまく、言えないんですけど」
「ああ。悪い男って魅力的に見えるものねぇ」
ユーナさんは、赤い爪で優美にティーカップの縁をなぞる。
「それはちょっと違うような……」
「あらそう?」
わたしは生クリームをすくって口に運んだ。甘い。脳がしびれるような甘さだ。そっとスプーンを置く。
「帰る方法なんて、きっとない、って心の底では思っていたんです。その不幸に、わたしは甘えていたんです」
「つまり、帰りたくないということ? もう二度と足を踏み入れたくないほど元の世界が嫌いだったのかしら?」
「違います。家族も、友人も、大事で大好きです」
即答して首を振る。
「それでも会いたくないの? ううん、会うのが怖いのかしら」
「……」
わたしは肯定できない。悪魔になりたかったと言いながら、悪魔になってしまっているのに、この期に及んで、長年培ってきた良い子を捨てられない。
「リリちゃんを見ていれば分かるわ。ご家族に、友人に、愛されて育ってきたのね。あなたが戻れば、ご家族も友人も、きっと、もう二度とよく分からない他の世界になんかに戻さない、と思うでしょうね」
「……」
小さく頷いた。震える唇を噛みしめる。
「リリちゃん。私のことを好き?」
「はい」
「クラウスやハニィを好き?」
「はい」
「この世界のことも大切?」
「はい……」
こらえていた涙が、ぽろぽろと零れてしまった。
元の世界に帰れる、ということは、選択肢ができるということ。
帰るのか、この世界に、とどまるのか。
わたしは迷っている。
迷っていることは、わたしのために諦めず手を尽くしてくれている家族に対する裏切りになってしまうだろうか。
恩知らずな、親不孝な、非人情な、ことだろうか。
でも、この世界で出会った人たちのことも、もう同じくらい大好きで大切になってしまっている。簡単に割り切ることなんてできない。
「話は聞かせてもらったぞ!」
ここにいるはずのない声に、驚いて振り返る。
まとめてあったカーテンから、ヒーローのように大仰に腕を開いてでてきたのは、わたしの魔法使い様、ラントだ。
カーテンにくるまっていたせいか、髪の毛はいつもよりもぼさぼさで、服は寝起きから着替えていないのを知っている。そんなところで盗み聞きをしていたのかという点も合わせて、ヒーローからはほど遠い感じだ。
「ラント。家にいたんじゃ……」
わたしが人魚のプテラさんと一緒に出たときには、ラントはまだ家で、わたしが魂を吸い取った花を材料に実験をしているところだったはずだ。
「君の様子がおかしいと思ったみたいだね。あのラントが他人の様子を気遣えるようになるなんて……。呼び出されたときは、ラントの偽物かと疑って、本人か確かめるために、つい過去の恥ずかしい話をいくつも持ち出してしまったよ」
反対側のカーテンから現れたのはクラウスさんだ。彼が、ハニィでラントを運んで、ここへ先回りをしていたようだ。
「クラウスさん……その、ラントの恥ずかしい話とやらを後で……」
「ふふふ。構わないよ。あとで俺の部屋で密会といこうか」
「クラウス。そんなことをしたら、魔法の拡張機でおまえの恥ずかしい話を国中に吹聴してやるからな」
「ラント。紳士は冗談を会話として楽しむものなのだよ」
クラウスさんは両手を上げて、降参のポーズだ。
ラントはクラウスさんを睨んでから、その視線をそのままわたしへと向ける。
「リリも! こいつに何をされたのか、忘れたわけではないだろう。もっと警戒心を持て! 僕以外は魔物だと認識しろ!」
「そんな無茶な……」
「嫌ねえ。自分だけは安全みたいな言い方。リリちゃん、信じちゃ駄目よ。男はみんな獣なんだから」
ラントの瞳も真剣だったが、ユーナさんの瞳も真剣そのものだった。わたしの視線は二人の間を行き来して曖昧にうなずく。
「リリは、僕の悪魔だ」
ラントが言って、つかつかと歩み寄ると、わたしの頬に手を触れた。涙の跡をそっと指でたどっていく。
「ずっと一緒にいろ、と契約をしただろうが。忘れたとは言わせない」
「ラント……」
そんなことを言われたら、奇抜な登場で引っ込んでいた涙がまた溢れてきてしまう。ラントの指に、わたしの涙が伝っていく。
「悪魔の契約者にふさわしいのは、悪い魔法使いと相場が決まっている。だから僕は、悪い魔法使いになるよ、リリ」
悪い魔法使いには似合わない、やさしい声でラントが言う。
「どういう、こと?」
「おまえを元いた世界から奪ってしまう、悪い魔法使いだ。僕はリリを、誰よりも不幸にしてやる」
ラントの瞳が、まっすぐにわたしだけを見ている。
わたしの瞳は、涙を流し続ける。心の中のもやもやを、全部洗い流していくようだった。
「だから、その……」
ラントの瞳が、一瞬逸れる。言いよどむように言葉尻を濁してから、今度は控えめにわたしに視線を戻した。
「リリは、この世界が好きなんだよな?」
「うん」
「……僕のことも、その」
視界の隅で、ユーナさんとクラウスさんが必死に笑いを堪えているのが見えた。
ここでその答えを言う度胸はわたしにはない。
「ええと、ほどほどには」
「ほどほど!?」
胸に下げたドクロのペンダントが真っ黒の手前まで色を変える。
ユーナさんとクラウスさんは大爆笑だった。
触れられた手が温かい。
ここにも、わたしを思ってくれる人たちがいる。
この人たちと一緒にいるのが好きだなぁ、とじんわりと思う。
この人たちと一緒にいられるわたしが好き。
うん。
だから、大丈夫。
不幸を装って逃げるのではなく、ちゃんと気持ちを伝えに行こう。
わたしの大好きな人たちに。
不幸をもたらす覚悟をもって。
「ラント。わたしも、あなたを不幸にして良いですか?」
「……望むところだ」
涙声で、わたしの魔法使い様はうなずいてくれた。




