番外.リリのいない三日間(ラント視点)
僕のリリが、悪魔と犬と一緒に魔界へ行ってしまった。
一日目。
三日経っても戻って来なかったら、強制的に召喚して喚び戻すという約束だったが、もう心が折れそうだ。
「パンにぬるジャムの場所がわからなかったから、召喚しちゃった! とかは怒られるかな……。実はクラウスが危篤で! とか。いや、リリはともかく、キイスにはすぐばれるか」
うまい言い訳がないかとあれこれ考えるけれど、僕だけが知っているリリの本当の名前を、口にのせることはできなかった。
「羽、かぁ」
ぽつりと呟いて想像する。
やはり、あの、兄を名乗る悪魔と同じようなコウモリに似た羽だろうか。
無事、手に入れることができたら、よく見せて、触らせてくれるだろうか。
楽しみだ。
ものすごく楽しみだ。
「今すぐ喚び戻して羽を諦めるか、三日我慢して、羽を待つか……」
ぐぬぬぬぬ、と喉から苦しいうめき声が上がる。
悩ましい。
非常に悩ましい問題だ。
「はぁー」
溜息の長い尾を引きながら、ぺたりと頬を床について、崩れたように伏す。
目のふちを、魔法陣が横切っていた。リリにつながる魔法陣。
けれども、床はただ冷たく固く、愛も優しさもなかった。
「リリ。どうしているかな」
困ったことはないだろうか。
怪我をしていないだろうか。
泣いて、いないだろうか。
心配で、胸がどきどきする。
不思議だ。
すこし前までは、顔も名前も知らなかったのに、今はこんなにも恋しくて愛しい。
可愛いリリ。
僕のリリ。
僕の悪魔。
二日目。
「……心配して様子を見に来てみれば。おうい、ラントー。生きてるかー?」
半開きの口に、パンを突っ込まれて、僕は目を覚ました。ひどい蘇生の仕方もあったものだ。
僕は口にめいっぱい詰め込まれたパンを咀嚼しながら、目だけで頭上のクラウスをにらみつける。
「リリちゃんがいなくなって、まだ一日しか経っていないのに、すでに廃人のようじゃないか。まったく。駄目人間だとは思っていたけれど、リリちゃんが来てから、ますます駄目になったよね」
クラウスが、両手の平を天に開いて肩をすくめる。頭にくる動作だ。
「……リリが来てから、ちゃんと夜眠っているし、朝起きてる。ご飯も三食食べてる」
「ああ、うん。リリちゃんがいないと、前より駄目になったよね」
「……」
「あ、そこは否定しないんだ」
にんまりと笑ったクラウスの口を、ぐいー、と引っ張ってやりたい衝動に駆られたけれど、我慢した。何だか、我慢をしてばかりだ。
「別に。お前には関係ないだろう」
「関係ないさ。でも、誤解のないように言っておくけれど、責めてるわけじゃあないんだよ。むしろ、喜ばしい変化だと思っている」
眉をしかめてクラウスを見上げると、嘘が得意な友人は、めずらしく、からかいを含まない笑みを見せた。
「誰かのために弱くなれるということは、人として最高の美徳だと思うんだ」
「……相変わらずのひねくれ者だな、クラウスは」
「ラントに言われたくないね」
三日目。
いよいよ、リリを喚び戻しても良い日がやってきた。
昨夜は一睡もできなかった。
じつは一昨日もその前も、一睡もしていない。
頭は朦朧として、今にも気を失いそうだ。リリにはきっと怒られるだろうけれど、今はそれすら待ち遠しくてたまらない。むしろ怒られたい。心配をして、僕にはリリがいないと駄目だと彼女にも思ってほしい。
「もう喚んでも良いかな。まだ寝ているかな」
夜明けを迎えたばかりの時刻だ。
なけなしの理性で、もう少し我慢をすることにする。
「けど、三日目までかかるなんて、何かあったんだろうか……」
うさんくさい兄の言葉では、順調に行けば昨日戻って来ても良いはずだったのだ。
「悪魔だからやっぱり、魔界のほうが住み心地が良いとか……」
魔界で兄と暮らします! などと言われてしまったらどうしよう。
「そのときは、泣いて引き止めよう」
優しいリリならば、きっと泣き落としが有効だ。
「僕のほうが悪魔に向いているかもな……」
自分の発想に、苦い笑みがのぼる。
「何か悪いことがあったんじゃなければ、良いけど……」
不安な想像は、枚挙にいとまがない。
ちらりと時計に目をやると、さっきから一分しか経っていなかった。
「時計、壊れているのかもしれないな」
正確に秒針が進むのを見ながら、言い訳のように呟く。
「何かトラブルに巻き込まれているなら、早く喚び戻してやったほうが良いし」
うんうん、と頷くと、頭がぐらついて一瞬気が遠くなった。自分の体もそろそろ限界だ。
すい、と息を吸い込む。
魔法陣を指先で撫で、僕はこの世界で僕だけが呼べる名前を音にした。