7.プテラノギョンは可愛いものがお好き
魚釣りは初めてだ。
「まず、これが竿だ」
「はい先生」
わたしは、ぴんと背筋を伸ばし、兄から釣り竿を受け取る。ガラスのような素材でできた釣り竿は思ったよりも軽い。
「子供用を借りてきました」
うやうやしくキイスさんが胸に片手を添える。
そうですか。それはお気遣いをありがとうございます。
「次に、餌だが。この、防水仕様のうさぎのぬいぐるみを使う。プテラノギョンは可愛いものが好きだからな」
プテラノギョンという、恐竜のなりそこないみたいな名前が、あの羽の生えた魚の名前だそうだ。
「可愛いもの好き……」
突っ込みたいことは多々あれど、餌が虫でなくて良かった、とほっとしたのもつかの間、兄が可愛いうさぎのぬいぐるみの頭に容赦なく釣り針を突き刺すのを見て、胸が痛んだ。ごめん、うさぎさん。
「で、これを湖に投げる」
うさぎさんは綺麗な放物線を描き、ぽちゃんと湖に落下した。
「よし。あとは待つだけだ。ほら、楽勝だろう?」
「わたしの場合、釣れた後のほうが問題ですが……」
わたしと兄、キイスさんを乗せた舟は湖の真ん中でゆらゆらと浮かんでいる。
今日も空は曇りで、エメラルドグリーンの湖は鈍く光って底は見えない。
「しかし、妹には驚いたな」
「何がですか?」
真剣に水面を見つめていると、隣で兄がつぶやいた。
顔を上げて目が合うと、兄はにやりと口角を上げる。
「羽が欲しい、などと。悪魔の道に目覚めたのか?」
「違います! ただ、ラントの家が森の中で、街に出るのに羽があったら便利だな、と思っただけで」
思わず大きな声が出て、わたしは赤くなった。開けた空にわたしの声が響く。湖に、今はわたしたちの舟だけだったのが、せめてもの救いだ。
「そうか。いや、意外だったのは、どうやったら元いた世界に戻れるのか、と、もっとお前に詰め寄られるかと思っていたのでな」
「それは……」
どき、と胸が鳴る。
釣り竿を取り落としそうになって、慌てて両手で握り直した。
「何か、元の世界に戻りたくない理由でも?」
「そんなことないです。家族だって、わたしを戻すために頑張ってくれているし、友だちもいる……。でも、簡単には戻れないのは、わかっているから、まず、今ここでわたしにできることをしようって、思って……」
間違ったことは言っていないはずだ。
でも、どうしてだろう。
本音ではないような、隠し事をしている気持ちになるのは。
「責めているわけではないよ。俺としては、妹が立派な悪魔になってくれたほうが嬉しいからな」
兄がぽんぽん、とわたしの頭を撫でる。
「立派な悪魔なんかになりません」
「それは残念」
せいいっぱい睨んでも、兄の笑みはびくともしない。
「リリ様、引いていますよ」
「え? あ」
キイスさんの声に慌てて釣り竿に注意を戻すと、たしかに水面が波立ち、竿を何かが引っ張っている。
「わ、わ。どうしたら?」
「引っ張り上げて。せーの!」
後ろから支えてくれた兄と一緒に、釣り竿を湖から引き上げる。
「やった! 釣れ……」
「ギャギャギャギャ!」
ばしゃん、とわたしは水面に叩きつけるように釣り竿を振り下ろした。
キャッチアンドリリース。
「リリ様?」
ぶちっと何かがちぎれたような感触がして、水面はまた静けさを取り戻す。
そうっと釣り竿を戻すと、針にひっかけていたうさぎさんはいなくなっていた。
「妹よ、どうしたのだ?」
「だって、あの、プテラノジョン!」
「プテラノギョンな」
「聞いてないです! あんな魚だったなんて! 魚というか怪物ですよね! なんか鳴いてたし!」
反射的にリリースしてしまったのも無理はないと思う。
だって、サメのようなギザギザの歯をむき出しにした、体が透けて骨が見えている魚(?)が、ギャギャギャと鳴きながら釣り上がったら、すぐさま湖に返してやるのが正解では?
「しかし、あれを捕まえなければ羽は手に入らんぞ。ほかにもいくつか、消化されずに残る種類の羽つきの魂はあるが、こいつが一番手軽なのだ」
「ちなみにお兄ちゃんの羽は?」
「ドラゴンを狩った」
わーいファンタジィ。
「しかし、まさか失敗するとは思わなかったから、餌を一つしか持ってこなかったな。ちょっと取ってきてやるから、お前たちはそこで待っていろ」
兄はそう言うと、元ドラゴンのものであったらしい羽を広げて、飛んでいった。やっぱりいいなあ、羽。
そして舟の上には気まずい沈黙が落ちる。
キイスさんには、変態、というイメージしかないので、何を話して良いのかわからない。
「……」
「……」
キイスさんのご家族は? とか、どうしてクラウスさんの執事に? とか、いくつかの質問がぐるぐると渦巻いたけれど、場つなぎでする興味本位の質問は口にしたくなかった。
「……」
「……」
キイスさんは腕組みをして目を閉じている。会話をしよう、という意志はなさそうだ。
それなら無理に話をすることはない、と安堵して、湖に目を向けた。
怖ろしいプテラノギョンが去った水面は凪いでいる。
この島は、その面積のほとんどが湖らしい。エメラルドグリーンの水平線の向こうには、またいくつかの島が、鉱石をぶら下げて浮かんでいるのが見えた。魔界だということを忘れそうになるほど、綺麗な景色だ。時々空を横切るのは、鳥ではなく悪魔だが。
先ほど悪魔に言われたことを少し考える。
両親の顔と、弟の顔、友だちの顔が浮かんだ。きっと、みんな心配している。
わたしは指を伸ばして水面に触れてみた。水は思ったほど冷たくなく、指と同じくらいの温度だった。
つい、つい、と触れて、波紋を描いて遊ぶ。
もし、今ここで、元の世界へ帰れる扉が突然開いたとしたら、わたしはそのまま扉をくぐるだろうか。
「行けない、と思うわたしは薄情だろうか……」
「リリ様?」
「あ、ううん。何でもない」
つい、口に出ていたらしい。
ごまかすように、水面を指でぱしゃぱしゃと波立たせると、指先に何かが触れたような気がした。
「ん?」
水面に目を向ける。
「ギャギャギャ」
「ぎゃー!」
プテラノギョンが、わたしの指に噛みついていた!
「リリ様!」
わたしとキイスさんが、慌てて同時に立ち上がったせいで、舟が大きく揺れる。
「ぎゃ……」
「危な……」
わたしの悲鳴と、キイスさんの声は、大きな水音でかき消される。
水面に必死に手を伸ばしたけれど、その指にはまだプテラノギョンが噛みついていた。諸悪の根源であるそいつと目が合って、じたばたともがく内に水面がみるみる遠くなっていく。
「ラント……!」
助けには来られないその人の名前を、わたしは心の中で叫んでいた。