3.いざ、魔界へ
「三日だ。三日経っても帰って来なかったら、強制的に喚び戻す」
わたしの両腕をつかみ、額がぶつかりそうな距離で、ラントが言った。
「いや、やっぱり二日……。一日にしておいたほうが……」
「三日で、という話にしたよね」
魔界行きが決まってから数日、同じ会話をすでに何度か交わしている。
三日の根拠はというと、「三日もあれば充分」という悪魔の言と、「三日くらいなら生きられる」という生活力皆無のラントの言からだ。ラントの生活に関しては、クラウスさんによろしくお願いしますと頼んでおいた。
「やれやれ。過保護な主人をもったものだな、我が妹は。俺の主人でなくて本当に良かった」
悪魔がほっと胸を撫で下ろす。
朝食の席に彼がやってくるのが、すでに日課になってしまった。初日のゼリーで餌付けに成功してしまったらしい。今朝も彼は、わたしが出したキウイフルーツのゼリーをぺろりと平らげた。
「それはこちらの台詞だ。喚びだされたのがお前ではなく、リリで良かったよ」
「ふふふ。それでは俺に感謝したまえ。お前の魔法陣に妹を追いやったのは、この俺なのだからな」
「ラントも、お兄ちゃんも、そのへんにしておいてくださいね。そろそろキイスさんも来るころですし」
決して名前を教えてくれない悪魔に、結局わたしのほうが折れて『お兄ちゃん』と呼ぶことにした。もうそういう名前だと思うことにする。
実は、家族ができたようで、ちょっぴり嬉しかったのは、絶対に知られたくない極秘事項だ。
「ラントー。来たぞー」
みしり、と天井が揺れるのは、クラウスさんがペガサスのハニィと共にやって来た証拠だ。庭に下りれば良いのに、と思うのだが、なぜかいつも屋根の上にハニィを下ろすクラウスさんである。
二階から重たい足音を立てて下りてきたクラウスさんは、わたしたちのいた居間に入ると、どさりと大きな荷袋を床に下ろした。荷袋の口から、キイスさんの頭が出ている。
「や、リリちゃん。調子はどうだい?」
爽やかに、クラウスさんが白い歯を見せて片手を上げた。
「元気ですけど。ええと、その、キイスさんはどうしてそんな状態で……」
キイスさんとじりじりと距離を取りながら、問わずにいられなかったことを口にした。
爽やかに笑うクラウスさんも怖かったけれど、不審な荷物の状態で恍惚の表情を浮かべているキイスさんはもっと怖い。
ちなみにラントは、台所のほうまで逃げて、カウンター越しにこちらの様子を警戒している。逃げ足の素早い小動物のようだ。
「ああ。無理を頼んだ褒美だよ」
「え」
わたしは台所のカウンター前まで、高速で後ずさった。
「ハニィに乗せてあげたんだ」
「あ、ああ。なるほど」
「至福の時間でございました」
荷袋に入ったまま、うねうねとキイスさんが身悶える。未知の芋虫のようだ。どうしよう、怖い。
「ラント。やっぱりキイスさんも一緒じゃないと駄目?」
「あの悪魔と二人きりよりはマシだと思ったんだが……」
へっぴり腰のまま、ラントが眉を寄せる。カウンターの下で見えない口元は、きっとへの字に曲がっていることだろう。
「ははは。心配には及ばないよ。仕事はきちんとするし、力もあるから、荷物持ちにもなるだろう。な、キイス?」
「はい。何なりとお申し付けください。このような身に余る褒美をいただける機会をくださったリリ様には、何と感謝して良いか。力の及ぶ限り、お仕えさせていただきます」
言葉も笑顔も誠意の溢れるものなのに、荷袋芋虫のままなので、すべてが台無しだ。とりあえず、そこから出てきてください。
「では、メンバも揃ったようだし、行こうか」
首を鳴らして悪魔が言った。動じた様子のない兄に、初めて尊敬の念を覚える。
「はい」
いよいよ魔界に行くのだ。少し緊張してきた。
「リリ」
ラントの呼ぶ声に振り向く。
「三日経ったら喚び戻すからな」
「それはもう何回も聞いたよ」
「ああ。魔法陣は持っているよな。どうしても危なくなったら、僕を喚べ」
「魔界に喚んだら、ラントは死んじゃうのでしょう?」
「僕を誰だと思っている。天才魔法使いだぞ。そのくらい、どうとでもなる」
胸を張ってラントが言ったけれど、わずかに口の端が引きつったのは隠せていなかった。そういう、隠しきれない弱さに、愛おしい気持ちがむくむくと湧いてくる。キイスさんの幸福感が少しわかって、少し冷静になった。
「うん。ありがとう、ラント」
「腹が減ったら、キイスを食べろ」
「キイスさん、まさかの非常食!?」
万が一お腹が減っても、キイスさんは遠慮したい。
******
「ひぃやぁぁーー!」
突然ですが、落下中です。頭から真っ逆さまに落下中で、ユーナさん一押しの白いフリルのワンピースではなく、普段使いのズボンを履いてきて良かった、と頭の片隅の冷静な部分が思っていた。現実逃避かもしれない。
そして悲鳴が続かなくなるほど落ちたところで、一足先に着地した羽有りのお兄様に片足をつかまれて、地面との熱いキスは免れた。羽、やっぱりすごく欲しいかも。
「ちゃんと受け止めるから大丈夫だと言ったではないか。そんなに叫ぶことはないだろう」
「耳がきんきん致します」
羽がないのに、きれいに着地したキイスさんが、飛び出た犬耳を頭の中に押し込みながら言う。
「そんなことを言われても。怖いものは怖いです」
顔を覆って、生理的に出てきた涙をなんとか引っ込める。
魔界へ行くのに、ラントの魔法陣のように移動するのかと思いきや、まさか、庭の穴から落ちるとは予想もしなかった。
いつのまにか、庭に魔界行きの穴を、悪魔が勝手に掘っていたらしい。これにはさすがのラントも愕然としていたけれど、すぐに瞳を輝かせていたので、今頃この穴をあれこれ調べていることだろう。誤って落ちてこなければ良いけれど。
「まるで普通の娘のようだな」
悪魔の兄は、わたしをひょいと抱え直すと、地面に下ろしてくれる。
「普通の女の子ですよ」
「今は悪魔だろう? それに染まっていないところが面白い」
ちらりと笑むと、鋭い白い歯が見えた。食べられてしまいそうな気がして、慌ててキイスさんの隣に並ぶと、ファイティングポーズを取った。来るなら来い! こちらには犬耳の変態がいるのだぞ!
「ほう。ここが魔界ですか」
しかし、わたしの緊迫感にまったく頓着した様子もなく、キイスさんはくんくんと鼻を動かしながら辺りを見回した。
「ワンコは魔界は初めてか?」
わたしを見て一度にやりとしてから、兄がキイスさんに声をかける。
「ええ。父が幼少時に魔界に住んでいたという話を聞いたことはありましたが、実際に来るのは初めてです」
ワンコ呼ばわりを気にした様子もなく、キイスさんが淡々と答える。
まったく動じていないキイスさんを見ていたら、わたしも気持ちが落ち着いてきた。そして、ようやく周囲を見回す余裕が出てくる。
「わあ……」
ラントの住む世界が西洋ファンタジーなら、魔界は近未来SFの世界だった。
曇天の空は、薄い部分から蒼白い光が透けている。
硬質な黒いガラスのような地面には、幾何学的な模様を描きながら、紫色の光が走っている。
街路樹も地面と同じようなガラスの素材で、でもこちらのほうが透明度が高く、呼吸をしているような泡が幹を上がるのが透けて見えた。
街路樹の並ぶ向こうに、天を突き刺すような尖塔が一つ見える。それ以外に、地上に建物は見当たらない。
地上には、だ。
尖塔を中心にして、空中にいくつもの建物が浮いていた。木の根のように、鉱石が連なって垂れているのが時々虹のように光って、とても綺麗だ。
「気に入ったのなら、人間の小僧など捨て置いて、ここで暮らしても良いのだぞ? 兄妹、仲睦まじく暮らすのも悪くなかろう? 俺が立派な悪魔に育ててやる」
「お断りします」
兄もどきが背後から耳元でささやくのを、両手で押しのける。まったく、この悪魔は兄妹設定を気に入りすぎではあるまいか。
「あれ?」
「どうかされましたか?」
腹部をおさえたわたしに、キイスさんが首を傾げて尋ねる。
くぅん、と犬の泣くような声で応えたのは、わたしのお腹だ。
「お腹が、減ってる?」
「……失礼」
何を思ったのか、突然キイスさんがわたしの服のお腹をめくり上げた。
咄嗟に肘をキイスさんの頭に落としたわたしは悪くないと思う。
「何をするんですか!?」
「……腹部はしっかり存在しているようですが」
頭を両手でおさえながらキイスさんが言う。飛び出た尻尾が、不満を示すように揺れた。
「そういう意味じゃありません! お腹が空いたということです!」
しかもしっかり存在しているとはどういう意味ですか!
「ああ、空腹でしたか」
そう、わたしはこちらの世界に来てから無縁になっていた空腹感を、実に久しぶりに味わっていたのだった。
ラントと契約しているおかげで空腹とは無縁なはずなのに、これは一体どういうことなのだろう。