12.悪魔の兄ができました
外国の街を一人で歩いているみたいに、何だか足の裏がむずむずする。外国どころか異世界なわけだけど。
洋服は問題なく買えた。あちこち目移りしそうになる心は、「これはクラウスさんに借金したお金」と呪文を唱えることでぐっと押さえこむ。洋服も、なるべく安いものを店員さんに聞いて購入した。これでユーナお姉様の着せかえ人形も卒業だ。嫌なわけではなかったのだけれど、自分からかけ離れた服装は、元々の自分までどこかへ行ってしまいそうで心細かった。
知らない世界。
知らない人たち。
変わらない自分だけが、家族や友人のいる世界との架け橋だ。
「次は、金物屋さん……」
ラントに教わった金物屋さんの前に到着する。
目的は、クラウスさんに頼まれたナイフだ。
曇った窓越しに、鍋やお玉、包丁や果物ナイフが売っているのが見えた。
「……どうしよう」
鋭利な刃先にひるむ自分がいる。
クラウスさんの作戦はこうだ。
わたしがクラウスさんに襲いかかり、クラウスさんをやっつけるフリをする。
『お命頂戴!』
『うわああ、やられたああ』
スローモーションで華麗にターンをしながら地面に伏すクラウスさん。
『ふ。あっけなかったわね』
ナイフに舌を這わせ、妖艶に微笑む悪魔のわたし。
わたしが本当に依頼通り、クラウスさんの命を奪うとは思っていなかったラントはびっくり仰天。
『そんな! クラウス! いかないでくれ! 僕の親友は君だけだ!』
馬鹿な依頼をしてしまったことを悔やみ、地面を叩くラント。
『ラント。あなたが望むなら、クラウスの命を戻してあげてもいいわ』
『そんなことができるのか!? 頼む! 失って初めて、クラウスが僕にとってかけがえのない親友だったことがわかったんだ。もう、プリンごときで馬鹿なことはしないと誓う! だから頼む、クラウスを……』
『わかりました。えいやあ!』
勇ましいかけ声をあげて、クラウスさんにキスをひとつ落とすわたし。
『ありがとう。リリちゃんとラントの愛の力で生き返ったよ』
そしてクラウスさんは無事に息を吹き返し、これからは三人仲良く暮らすのでした。めでたしめでたし。
というのがクラウスさんのシナリオだ。突っ込みどころが満載である。
もともとラントの依頼が原因なのだけれど、その仕返しにここまでする必要があるのだろうか。そしてわたしがクラウスさんにキスをする必要性はもっとあるのだろうか。
正直、気が進まない。
「うーん」
「悩み事か? 主人とうまくいっていないのか?」
「いえ。主人というか、その友人というか……え?」
自然に答えてしまってから顔を上げて、言葉を飲んだ。
「や。充実した悪魔生活を過ごしているかい?」
片手を上げた黒いスーツの男の背にはコウモリのような羽。笑みの形の唇からのぞく鋭い犬歯。見覚えのあるその姿は、
「あ、悪魔!」
弟の命の恩人。
そしてわたしを悪魔にしてこの世界に身代わりとして召喚させた張本人。
「君も今は悪魔だろう。俺の魂を分けてやったのだ。いわば、俺と君とは兄と妹のようなものだろう?」
「いや、違うと思いますけど」
しかし、悪魔の耳にわたしのか弱い否定は届かなかったようだ。
「さて妹よ。どうして悩ましい声を洩らしていたのか、この兄に相談してごらん」
両腕と羽を大きく広げて言う。
「その前に」
「うん?」
突然のことで驚いてしまったけれど、もう一度会えたら言おうと決めていたことがある。
「弟の命を助けてくれてありがとうございました」
どんな形であれ、彼は弟の命の恩人だ。深々と頭を下げる。
「……礼を言われることではない。妹よ、悪魔が魂を食らうということは?」
「聞きました、けど」
ゆっくりと顔を上げると、半分閉じたような悪魔の目が冷たい光を帯びてわたしを見下ろしていた。
「つまり、そういうことだ。俺はお前の弟の魂を食らうつもりだった。若くて健康な魂は美味だからな」
思いがけないことを言われて、一瞬、頭が真っ白になる。
ひらめいたのは一つの疑問。
ダンプカーが家に突っ込むという、あまりに確率の低そうな事故。
つまり、どういうこと?
目の前の悪魔は弟の魂を食らうつもりだったと言う。
偶然ではない。それが目的だったのだ。
「じゃあ、あのダンプカーは」
「絶妙のタイミングで運転手の魂を抜き取ったのは俺だ。狙い通り、君の弟くんの魂も大半をいただいた。その上、君の魂という甘美なデザートまでいただけたのだから、しばらくは空腹から解放される。礼を言わなければならないのは俺のほうだろうな」
わたしは悪魔を見つめた。
一瞬、頭の血管が焼き切れそうな怒りに肩が震える。
彼は、悪魔だ。目をつけられたのが運の尽き。
けれども、
「それでも、弟の命を助けてくれたことに、変わりはありません。ありがとうございました」
悪魔はつまらなそうに鼻を鳴らす。
「その綺麗な心根、兄として悪魔らしく変えてやらねばいかんな」
「遠慮します。というか兄じゃないです。……聞きたいことはたくさんあるんですけど、人を待たせているので今は時間がないんです。すみません、また会えますか?」
公園に一人で残してきたラントのことが気にかかった。そろそろパンも食べ終わって、またびくびくと震えているのではないだろうか。
「……ふん。この世界にも、君を待っている人ができた、ということか」
「え?」
「いや。またゆっくり話に行こう。ではこれは、悪魔の師匠として、可愛い妹のために助言をひとつ」
言って、悪魔は人差し指を立てた。
「君はもっと悪魔らしく、誰かの思惑にはまるのではなく、はめるにはどうすれば良いのかを考えるべきだ」
ではまた、と立てた人差し指でそのままわたしの胸を突いて去っていく。
「悪魔らしくって、何?」
わたしは突かれた胸をおさえて、うう、と狼のように唸った。
「ヒントは胸? ……色仕掛け?」
ものすごく、向いていない気がする。




