9.犬耳執事の変態行為に巻き込まれる
寝不足だというラントを部屋に置いて、わたしはおそるおそる階下へ下りてみた。
招かれているのに泥棒のようにこそこそしてしまうのは、このお屋敷が立派すぎて庶民な女子高生だったわたしには落ち着かないせいだ。壁に手をついて汚してしまったらとか、階段の手すりを触って指紋をつけてしまったら、床で転んで傷でもつけてしまったら、とわたしのか弱い心臓はどきどきしっぱなしである。
「このいかにもお嬢様な服もどうにかしたいけど」
そうっと指先で白いレースのついたスカートをつまむ。昨日着替えさせてもらったものとは違うけれど、似たようなデザインのワンピースだ。ユーナさんの趣味だろうか。ご本人の着用する扇情的なドレスよりはありがたいけれど。
わたしのボタンの弾けたブラウスとなじんだしわの寄ったスカートは行方不明だ。ぼろ切れと認識されて捨てられてしまったのかもしれない。
クラウスさんとユーリさんは仕事に出かけて留守だ。ラントとクラウスさん仲直り計画のために、クラウスさんにも話を訊かなければならないけれど、二人についてわたしはあまりにも知らない。
本人のいないところで聞き回るのはあまり良くないことだとは思ったけれど、動かないでいることなんてできなかった。頭で考えているだけだと、きっと不安にしかならない。
しかし、話を聞くにも、面識のない人にいきなり突撃はできない。
そんなわけで、わたしは犬耳執事のキースさんを探していた。仲良くなって、あの耳や尻尾をちょっと触らせてもらえないかな、という下心もあったりなかったり。
屋敷で働いているお手伝いさんの姿を見つけると、とっさに身を隠してしまったり、という不審者丸出しの姿で屋敷をうろうろさまよっていたわたしは、窓の外に求めていた犬耳を見つけてほっとした。
窓から飛び出しかけた衝動をこらえて、きちんと玄関から庭へ出る。
芝生に水を撒いていた庭師らしいおじいさんと目が合って、小さく頭を下げてから、逃げるようにそそくさとキースさんがいたほうへ走っていった。
キースさんがいたのは、屋敷の裏手のほうだ。息を切らせて回りこむと、
「はぁ……」
悩ましげな溜息に、思わず足を止めた。
そこには、恍惚とした表情で、尾をふさふさと振るキースさんがいた。
「ああ……今日も貴方の美しさは天上の神々しさに輝いています。頬を寄せたくなるような白い体、心を吸われるような黒い宝石のごとき瞳……ああ! そのしなやかな筋肉の躍動を全身で感じたい!」
感極まったようにぴんと耳を立てるキースさんを見て、わたしは後ずさった。見てはいけないようなものを見てしまったような気がする。
このままさりげなくこの場を立ち去ろうと思ったけれど、犬の耳と嗅覚をもつキースさんに気づかれていないはずがなかった。
「そういえばお客様」
「ひ、はい!」
悲鳴を慌てて返事に変える。
こちらを振り返ったキースさんは執事らしく上品に微笑んだ。しかしその笑みにひそむ、獣の刃を隠せていない。
「昨日は、ハニィ様にこちらまで運んでいただいたのでしたね」
キースさんがうっとりと変態じみた愛を捧げていたのは、ペガサスのハニィに対してだったのだ。
「は、はい」
震えながらもうなずくしかない。
小汚い小娘がハニィ様に乗るなんて! などと責められるのだろうか。獲物を見つけたようなキースさんの瞳が怖い。
ハニィ助けて! とちらちらとキースさんの背後のハニィに視線を送ってみたけれど、ハニィは我関せずと桶から水を飲んでいた。木造の広い厩舎はハニィだけのものらしい。他にペガサスや馬の姿はなかった。
「本当なら、昨日、湯浴みをされる前にお願いをしたかったのですが……」
「え……?」
湯浴み、という言葉が脳内で変換されるまでにしばし時間がかかった。お風呂だ。お風呂に入る前に頼みたかったって何。
ダッシュでここから逃げ出すべきかどうか悩んでいると、突然がばりとキースさんがその場に膝をついた。膝だけでなく、両手もだ。
「あの、キースさん?」
「お願いしますリリ様! 私に股がっていただけませんか!」
顔を上げたキースさんは真摯な瞳をまっすぐにこちらに向けた。お馬さんごっこ、という単語が頭をよぎる。
「……え?」
「私に股がっていただきたい! ハニィ様の追体験をぜひ私に! そして、わずかでも残っているかもしれないハニィ様の体温と香りを私に擦り付けていただきたいのです!」
お風呂に入る前にお願いしたかったというのはそういうことか、としたくない納得をしつつ、わたしは大きく一歩後ずさった。
犬耳執事だ! と浮かれていた昨日に戻りたい。彼は新種の変態わんこだ。おそろしい。
「お願いいたします! リリ様!」
キースさんは燕尾服が草に汚れるのも構わずに、四つん這いのまま、ずんずんとこちらに近づいてくる。ホラー映画を彷彿とさせられる迫力だ。
「ひ! そんなことを言われても、困ります!」
「そこを何とか! クラウス様にはハニィ様に触れるのを禁じられていて、もう爆発してしまいそうなのです!」
この変態っぷりを知ってしまえば、それは禁じられもするだろう。
などと冷静に思っていたのがいけなかった。
「あ!」
がしり、と足首を捉えられてしまう。
下から見上げるキースさんの唇から犬歯がのぞく。
「どうか、リリ様……」
言葉は懇願をうたっていたけれど、足の内側に近づく顔に、わたしは生命の危機を感じた。
このままではハニィに触れた場所をその鋭い牙で噛み切られてしまいそうだ。
「……わかりました。少しだけですよ!」
「ありがとうございます!!」
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「はぁ……。この重みをハニィ様も感じたのですね」
「重みとか言わないでください」
体重の話題が許されるのは女の子同士の間だけだ。
どうしてこうなった、と途方に暮れながら、わたしはキースさんの背に股がっている。ぶんぶんと音がなるほど尻尾が左右に振られているキースさんはしごくご機嫌だ。そうだ、大型犬に股がっているのだ、と思うことにしたら少し落ち着いた。
「あ! 私としたことがうっかりしていました。リリ様の体温を感じるには服が邪魔ですね。脱いでも、」
「それだけは全力でお断りします!」
そうですか……と残念そうにつぶやいて、キースさんの耳が垂れる。
「キースさんは、ずっとクラウスさんの執事をしているんですか?」
無言でいるとキースさんがうっとりした溜息をつきはじめるので話題をふってみた。
「はい。クラウス様が幼少の頃からお仕えしております」
「……ラントのことは知っていますか?」
何気ないふうに聞こうと思っていたのに、ついキースさんの燕尾服を握ってしまった。しわが寄らないように、慌てて離してそうっと撫でておく。ぴくぴくとキースさんの片耳が動いた。
「クラウス様のご友人ですね。魔法使いとしての腕は一流のようですが、そうですね、ひと言でいうならば変人でしょうか」
ラントもキースさんには言われたくないのではないか。
「クラウスさんとは、その、あまり仲が良くないのですか?」
背中から伝わる振動で、キースさんが笑ったのがわかる。
「仲が悪い人間に、食べ物を届けたり病気をしていないかと様子を見に行ったりするほど、クラウス様は心の広い人間ではありませんよ」
そこまで言ってから、キースさんははっとして身をこわばらせた。
「おや」
不思議に思っていると、わたしたち二人以外の声がかけられる。
「変わった遊びをしているんだね」
おそるおそる顔を上げると、面白そうに片手を口に当てて微笑むクラウスさんがいた。




