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莉良は笑みを深くして、人差し指を口に当てる。
「ほんと、美夜には感謝してるの。あれだけいい男が自分から近づいてくるなんてないもの」
「遊ばれて使い捨てられるのがオチじゃない?」
冴島は亮司とはまた違ったタイプのいい男であるのには間違いない。そう深く付き合いがあるわけでもないのでよくは知らないが、なかなかにくせ者の男だろうと、美夜は見ている。
「んー。そうなのよねぇ。どうやって攻略したらいいと思う?」
「少なくとも、冴島さんはあなたのそのあざとい態度は好まないんじゃない?」
「うふふ。でもねぇ、こっちの方が今は都合良いと思うんだぁ。馬鹿の方が使い勝手良さそうに見えるでしょぉ?」
両手で頬を挟み、かわいらしく小首をかしげて笑うその姿は、確かにかわいらしく、そして確かに何も考えていなさそうな頭の緩さを感じる。愛玩するタイプのかわいらしさだ。そばにいればそれで良いと思えるタイプの。
けれど、中身は少々違うようだ。
悪意を振りまくことにためらいのない自己中心的な女かと思っていたが、話をしていると莉良のあざとさは意外ににおもしろい。
「……予想外な女ね」
「やだ、美夜ほどじゃないわよぉ。あんた、子供の頃はそんな風になるとは思えなかったしぃ。もっとくそまじめでお堅そうなおもしろみのない「藤堂女史」みたいな呼び方が似合いそうな女になってそうなのに。こんな派手な女になるなんて、名前聞いてもしばらくはあんたがあの藤堂美夜だって気づかなかったしぃ」
虚を突かれる。
莉良が子供時代の美夜のことを覚えていたのは思いもよらなかった。全く関わりなどなかったはずだ。莉良は学年が違えど目立つ子だったので見知っていたが、美夜は目立つ子供ではなかったはずだ。が、続く言葉に納得する。
「ねぇねぇ、やっぱり、お姉さんの影響? かっこよかったもんねぇ、美鶴さん」
「………姉は、まじめで慈悲深い聖女のような生き方してるわよ、今はね」
「……は?! あの美鶴さんが?! あの女王様が?!」
「その時代、思い出したくない過去らしいから。話題にしただけで悶絶しながら頭をクッションに突っこんでごめんなさいを連発するわよ」
「何、それ! 聞きたくなかったわぁ……。もう、理想だったのに。あの人目指してたのに」
美夜の姉の子供時代は人の中心にいるような人間だった。子供らしい傲慢さで、人を惹き付け、率先して物事を成し、そして踏みつける……。
そう言われてみれば、確かに子供の頃の莉良は、今とは違いまさしく女王様タイプだった。人をあごで使い、自分の言うことが何よりと正しいと信じているような、そんな傲慢な子供だったように思う。
「あの頃の姉と今のあなたとじゃ、全然タイプが違うように見えるけど?」
「第二次性徴が早かった分、成長がとまるのも早くて。私ってば、小さくて童顔でかわいいでしょ? この顔で女王様はないからぁ、清楚系小悪魔でいこうかなって!」
莉良が胸の前で拳を二つ作り、きゃはっと笑う。
「……うっとうしいんだけど。こんな個室でまでそれ、やめてくれない?」
見た目だけならかわいいと言えなくもないが、アラサーに足を突っこんでいると思うとむしろ痛々しい。
「美夜ったら、おもしろくなぁい。そんなくそまじめなところは、あの頃のまんまかもね」
あまり過去のことを持ち出されるのは気分が良くない。彼女の前で感情を表に出すのも不愉快で、無表情を決め込み、小さく息をつくことで気持ちを切り替える。
過去のことはどうでもいい。考えなければいけないのは莉良の意図だ。
莉良が手の内を見せてきたのは予想外だった。
おそらく冴島は美夜の動向を探りたいのだろう。美夜の身辺を探るためだけに莉良に近づき利用している辺り、女性に敬意を払うタイプでもないのか。亮司と会社が最優先な男だ。ならばおそらく亮司の気持ちを知った上で、清花の結婚を推奨しているだろう。
とりあえず、亮司と清花の結婚を邪魔する気がないと思わせておくのが妥当なところだろう。
「私はあなたのように都合の良い駒になる気はないのよ」
「そぉお? 懐に入ってからの方が、いろいろやりやすいかもよ?」
こんな時、打てば響く反応をする莉良との会話は悔しいことにおもしろいと思う。
「否定はしないわ」
いたずらっぽく笑う莉良に、思わず笑いが漏れる。
「あ、そうだ。彼はあんまり自分のことを話すタイプじゃないけどぉ。でも時々なら私ののろけ話聞かせてあげてもいいわよ? 楽しみにしていて? フリーな美夜には嫉妬されちゃいそうだけどぉ?」
美夜は思わず吹き出した。
「……興味ないけど、たまになら聞いてあげても良いわよ」
「楽しみにしてて?」
美夜は軽く笑うと肩をすくめた。
莉良はどうやら美夜に対して情報を流す気でいるらしい。なぜそれをするのかはわからないが、彼女の提案は美夜にとって悪い物ではない。また下手に遠ざけるより、近くで監視できるぐらいが安心だ。ひとまず清花のことを邪魔されなければそれで良く、更に亮司が美夜のことを忘れないきっかけになるのなら、なおいい。
食事を終え、個室を出ようとした時だ。
あ、そうだ! と障子を開けようとするのを莉良が引き留める。
「そういえば最近、小ブタちゃんと仲が良いようね」
清花のことか。
とっさに何気ない様子を装って、ゆっくりと莉良をふりかえる。
「何のことかしら。動物と遊ぶ趣味はないけど」
どこから調べたのか、舌打ちしたいのをこらえる。清花の資料を渡した時点から接触を警戒されていたということだろうか。
「うふふ。そんなに警戒しないで? 大丈夫。小ブタちゃんとの交流のことは誰にも言わないわ。もちろん彼にも。……今は、ね?」
「……あなた、なにをしたいの」
美夜はため息をついた。探る視線を受けても莉良はほんわかとした笑みでさらりと受け流す。
「べつに、なにも?」
なら、それをわざわざこうして知らせる意味がわからない。
「本当よ。それに関してはね、私は美夜に信用して欲しかっただけだから。ちゃんと黙ってるってわかってて欲しかっただけよ。私は美夜の味方って事」
「味方、ねぇ」
信頼関係とはほど遠い味方宣言に、美夜は鼻で笑う。利害なしに、莉良がそんなことをすると思えるほど甘い考えを持つつもりはない。
莉良はそんな美夜の様子すら楽しそうに、クスクスと笑っている。
「ほんと、ほんと! 疑り深いなぁ。私は美夜に杉原社長の彼女でいて欲しいんだから。……だってその方が、孝史さんは私を手元に置いておきたがるでしょ? それにぃ……小ブタちゃんのこと、黙っておいた方が絶対におもしろくなりそう」
楽しげに莉良が笑う。
美夜はため息をついて肩をすくめた。
そういうことにしておこうか。
到底信用は出来ないが、つくづく一緒にいて退屈しそうにない女だと思った。
清花は家政婦の柳原に食事を改善するよう訴えた。けれど、家政婦は激怒して、清花をひたすら責め立てた。三日後変化なく、再度希望を口にするも、怒鳴り声の後は無視された。様子見に一週間。その間、更に何度か一言二言訴えたが食事は一度たりとも改善されなかった。
清花はもう一度改めて家政婦に訴える。もしこのまま変えてくれないのなら、家政婦を変えてもらうと。家政婦は以前より更にひどく怒り出し「そんなことさせる物ですか」と清花を憎しみとさげすみに満ちた目で見た。二日後、変えるつもりのない家政婦の様子に、清花はとうとう家政婦を変えるよう父に願い出た。
電話越しに家政婦の交代をお願いすれば、なかなか会えない父の代わりに秘書の榊がやってきた。
それまで怒り狂っていた家政婦は、秘書が来るなり、わっと泣き出した。
「子供の頃からずっと、大切にお育てしてきましたのに、こんなことを言われて、悲しくて、悔しくて……清花さんは、そんな風に私を見ていただなんて……。私なりにお母様の代わりになろうとがんばってきましたのに……」
涙ながらに訴える姿は痛々しいほどで、唇をかみしめてたたずむ清花に、秘書は苛立たしげに視線を向ける。
「また、わがまま、ですか」
「……っ、違いますっ」
やっぱり信じてもらえない。いつものことだ。分かっていたことだが、それでも涙は勝手ににじむ。
「これだけ力を尽くしてくれている方を……」
「違います!! この人は、ずっと私の言葉を聞いてくれたことはありません!! 私はご飯を野菜中心に変えて、バランスの良い物を作ってくれるようにお願いしただけです! なのに、聞いてくれなくて」
「嘘です!! 清花さんがそんなことを言ったことは、一度もありません! 私を追い出すための嘘までつくなんて……」
涙ながらに悲しげに言う姿は迫真の演技だ。こんなに堂々と嘘がつかれると、どう切り返して良いか分からない。予想もしなかった言葉に呆然としている清花の方が、よっぽど怪しく見えるだろう。
「……清花さん」
ため息交じりに秘書が清花を見た。
「私は、嘘は言っていません」
そう言いながら清花はスマートフォンを取り出す。
秘書が眉をひそめた。それを見て家政婦がここぞとばかりに唇をかみしめた。
「こんな時に、携帯を触るだなんて、私のしつけが……」
「いいえ、この年でしつけだなんて…」
秘書がため息交じりに首を振る。
完全に私が悪者になっている。
勝手にあふれてくる涙をこらえながら、清花は指を動かした。
私は、悪くない。私は悪くない、私は……!!
『どうして私がおまえなんかの言いなりになって作らないといけないの!!』
突然、家政婦のわめく声が部屋に響いた。
家政婦と秘書が、清花の方を見た。
その声は清花の手元のスマートフォンから響いている。
『あんたみたいなデブでまともに喋ることも出来ず生活も出来ない人間が、私のやることに口出しをするなんて許されると思っているの!』
『しょ、食事を、野菜を多めにしてくれるだけで、良いんですっ』
『まだ言うの!! どうして私がおまえなんかの言うことを聞いてやらなきゃいけないのよ!! デブで愚図なおまえは私のいうことを聞いてりゃ良いのよ!! この不細工な豚が! 私に口答えする権利が……』
清花は何も言えないまま、ただ震える手で、昨日のやりとりの音声を再生していた。
その場に、ヒステリックな家政婦の音声がまだなお延々と流れ続けている。
「……それ、は……」
秘書が清花を見る。清花は唇をかみしめ、何も言葉が出てこない代わりに秘書を見つめ返す。
どうか、お願い、私の言葉を信じて。
「そ、そんなのは、偽物です! 私を陥れるために、清花さんが作ったに違いありません!!」
会話の録音、それが美夜からの提案だった。
最初に家政婦に反発するのは怖かった。でも、怒鳴られたり暴言を吐かれれば吐かれるほど証拠が出来たと喜んでおきなさいと言われて、震えながら耐えた一度目の反抗。
でも、たいしたことは言えなかったため、最初の家政婦の暴言は、落ち着いてから聞くと、決定的なひどい言葉は少なかった。もっとひどい言葉が欲しいわね。そう美夜に言われて、次の反抗は一度目ほどは怖くなくなっていた。むしろ、更にひどい言葉を期待する気持ちまで出てきた。こんななじり方じゃ、ひどさは伝わらないかもしれない。そう思うと冷静になることもでき、しっかりと自分の言葉を言えるようになってきた。回を重ねるごとに恐怖は薄れて落ち着いて対応できるようにり、最終的にはこの暴言を引き出したのだ。だからこそ今度は最終段階として父親に訴え、榊を巻き込んでの反抗に至った。
とはいえ、ここまで来てもいざとなると榊の反応が怖くて心が萎縮し、家政婦と二人きりの時ほどうまく言葉が紡げなくなっている。
榊の反応が怖い。家政婦も清花も、榊の反応を待っていた。
「ま、まさかこんな清花さんが作った偽物に、榊さんがだまされるなんて、ありませんよね……っ」
「偽物じゃありません!!」
秘書は、冷めた目で視線を動かした。
「黙りなさい」
冷ややかな声がする。
まさかここまでしても信じてくれなかったのだろうか……。
血の気がひいた。
「……清花さん、今まで申し訳ありません。すぐに家政婦を変えましょう」
いたわるような優しい声が、降ってきた。
え? と目を見張る。
「そんな子にだまされるって言うんですか!!」
ヒステリックなその声が、流れた音声が本物であると証明していた。
「あなたのような人間の言葉を信じてしまったとは……。このような口汚い言葉を吐くような方は必要ありません。……柳原さん、私と社長をだました罪は重いのですよ」
「清花さん、何とか言ってちょうだい。ちゃんとご飯はしますから、ね?」
哀れな声で、優しげにいってくるが、不快感しかわき上がらない。ここでうなずけば、二人きりになったとたん家政婦は清花を責め立てるだろう。
思わず後ずされば秘書が鼻で笑うのが聞こえた。
「清花さんは関係ありません。こちらとしては雇い主にそのような暴言を吐く人間など許容できないのですよ。清花さんに取り入ろうたって無駄です。この方にそんな権利などないのですから。私の権限で、あなたを、招き入れることはあり得ません。清花さんにすがったところで無駄なのは、あなたもよく、ご存じでしょう?」
清花の味方になったかと思われた秘書から出た言葉は、清花を侮る言葉だった。
顔を上げれば、目に映るのは秘書の冷たい横顔。
先ほどとは別の意味で、体が冷えてゆく。
そんな……。ひどい。
「柳原さん、あなたは私の信頼を裏切りました。」
「違うって言ってるでしょ!! だいたい清花さんが……」
「清花さんのことなど、どうでもよろしい! あなたが、私の信頼を裏切ったことが問題なのです。雇う権限は私にあります。雇い主である私をだましたことが問題なのです。虚偽の報告をし、職務を全うしなかった」
淡々と家政婦を追い詰めてゆく秘書の様子に、頭に血をのぼらせかけていた家政婦がたじろいだ。
「こ、これからは、ちゃんとやりますから…!! さ、清花さん、ごめんなさいね、これからは食事も……」
「もう一度言います。清花さんの意向など、関係ありません。私があなたを信用できないのですから。清花さんがあなたを許したとしても、清花さんがあなたが良いと言ったとしても、私があなたを雇うことは二度とありません。私を納得させるだけのことが、あなたに出来るのですか? どうせ隠れてまた嫌がらせをするのでしょう? 柳原さん、私はあなたを信用できない」
「……榊さん!!」
家政婦から悲鳴が上がる。
「後日改めて解雇の件について連絡いたします。今日はもうお引き取りください。鍵も返していただきましょう……いえ、あなたのような人間は、信用できませんので、鍵は交換しましょうか……」
「な……!!」
家政婦が肩を怒らせそして秘書の顔に向けて鍵を投げつけた。
「あぶな……!!」
清花が悲鳴を上げる前に榊は軽く身をかわし、肩に当たった鍵はカタンと音を立てて床に落ちた。
「私をこんな目に遭わせて、許さないわ……!!」
家政婦が捨て台詞と共にバタンとドアをたたきつけるように閉めた。
秘書が、ゆっくりと鍵を拾い上げる。
静まりかえった部屋の中に、清花と榊だけがそこにたたずんでいた。
「……清花さん」
重々しい声がした。
「……気付けず、あなたに辛い思いをさせました………。申し訳ありません………」
痛ましそうに清花を見つめ、そして深く頭を下げる。
返す言葉がなかった。
はいとも、いいえとも言えない。良いんですとも、ありがとうとも違う。かといって許せないというわけでもない。
やっと気付いてくれた、それはうれしい。ほっとする思いもある。でも、今更そんな態度を取ったってと言う気持ちもある。どうしてもっと早く、……私が行動起こす前に気付いてくれなかったのと。どうせまた、誰かが私を貶めたら、私よりそっちを信用するんでしょと。そんな気持ちが渦巻く。そうして気づく。
……ああ、私は、信頼を失っていたんだ。この人は、私の味方なのだという気持ちを、持てないのだ。
家政婦に対して清花のことなど関係ないと言った榊。
結局、それが彼の本心なのだろう。
ほんとはずっと、榊のことが好きだった。母が死んでからずっと、優しく家族のように、兄のように接してくれていた彼が。いつしか厳しく、冷たくなり始めても、それでもなんだかんだと清花を見捨てることなく、父の秘書として以上に気を使ってくれていることを知っていた。だから嫌いになることも出来ず、いつか、いつか……と彼の優しさが戻ることを待ち、時折見せてくれるほほえみに恋心を募らせた。
榊さんが好きで、だから分かってもらえてうれしくて、でも、信用できなくて……。彼が好きだから、今向けられる優しさが、辛い。
「清花さん、あなたの言葉を信じようとせず、耳を傾けることさえしなかったことを、謝罪させてください。申し訳ありません」
震える清花の手を包むように握り、秘書が頭を下げた。
「よく、がんばりましたね」
それは、ずっと欲しかった言葉だった。
勝手に涙があふれた。信じてくれた。この人が、やっと、信じてくれた。その事実は、確かに清花を安心させていた。
そのことがうれしくて、うれしくて……だから涙があふれるのに。
目の前にいる彼は、心の底から私を心配してくれているように見えるのに。
なのに、今はもう、それを手放しで、喜べない。