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障子で区切られた小さな個室は、ゆったりと食事をするのにはちょうど良いのだろう。向かいにいるのが彼女でなければ。
「この前の資料は、役に立った?」
莉良のきれいに巻かれた髪が、小首をかしげた瞬間ふわりと揺れる。
小さな小皿へ彩り豊かに盛りつけられた洋風懐石は、どれをとっても食べてしまうのが惜しく、しかしそれと同じぐらい食べるのを楽しみにさせてくれる目にも楽しいものだ。
食べる手を止めた美夜は、おもむろに切り出してきた同僚に目を向けた。
彼女は可憐なその雰囲気によく合った、かわいらしい笑顔を浮かべている。
「そうね、参考にはなったわよ」
無邪気そうな笑顔の同僚に、美夜はほほえみを浮かべてみせた。
落ち着いて食べられると人気の和風創作料理店でも、腹の探り合いをしながらの食事となれば、せっかくのおいしい料理をゆったりと堪能できないのが残念なところだ。
もっとも目の前の同僚は自ら指定してきただけあって、人に話を振っておいしそうに食べているが。
「良かったぁ。じゃあ、美夜はあの子、どうする気なの?」
興味津々といった様子で上目遣いにのぞき込んでくる莉良に、美夜は肩を軽くすくめて「別に」と返す。
「えー。頑張って調べたのに、別にってひどくない?」
「お礼は今してるでしょ」
「それとこれとは別! せっかくだから活用してよ。頑張ったかいがないじゃない」
頑張った、……ねぇ?
微笑んだまま観察する美夜に向けて、唇を軽く突き出して抗議してくる様子はわざとらしくはあるが、おおむねかわいい。頭からつま先まで、完璧にかわいらしく作り込んでいる同僚は、二人だけしかいない個室であっても作り込んだかわいらしさを徹底するつもりらしい。
美夜は薄く笑みを浮かべたまま、その目をのぞき込んだ。
「私が亮司の婚約の話をしてから、ずいぶんと早く資料が出来たわよね。あれだけ詳しい内容を、数日で調べ挙げたんだから、さぞ頑張ったんでしょうね」
「もちろんよ。大事なお友達の頼みですもの」
莉良は楽しげにクスクスと笑い出した。
「ほーんと、持つべきは大物彼氏を持つ、友人よねぇ?」
「今はフリーよ」
「どうだか」
莉良の楽しげな視線の中に、探る意図が見え隠れする。美夜は素知らぬふりで食事を口に運びながら、まともに話したことすらない自称友人が、なぜ清花の資料をあれだけ早く渡してこれたのかを考える。亮司のことを狙っているのだろうか。それにしてはこの態度は不可解だ。
「私ねぇ、最近、彼が出来たの。美夜の彼氏ほどじゃないけど、結構レベル高いのよ。イケメンでぇ、仕事も出来てぇ、将来も有望でぇ……でもねぇ特に顔が私の理想なの」
勝手に自慢話を始めた莉良に相槌すらも打たずに聞き流していたが、次いで聞こえてきたその内容に意識を戻される。
「え?」
「だからぁ、彼、三十二歳で社長補佐してるの。と言っても、社長も三十四で若いんだけどね」
彼女が挙げた社名は亮司の会社だ。亮司の補佐というと、冴島か。亮司より幾分体つきがたくましく、迫力のあるきつい目つきが印象的な、野性味のある男だ。
冴島と、付き合っている……?
莉良がきれいすぎる笑顔で、にっこりと美夜を見ていた。
『その子のこと、調べてあげよっか?』
先日莉良と交わした会話がよみがえる。
特に親しいわけでもなかった同僚が突然に話しかけてきたのは、亮司に別れ話をした二日後のことだった。
『藤堂さん、杉原社長と付き合ってるって、本当?』
美夜を値踏みするかのような視線に、はじめは答える価値はないと判断し立ち去ろうとした。
神崎莉良は美夜より一つ下の同僚だ。小中学時代同じ学校であったこともわかっているが、かといって今まで個人的な関わりは全くなかった。そのことを話題にしようとも思わないし、そもそも彼女が美夜のことを覚えているとも思えなかった。
仕事よりも自分の身なりや男の評価の方を気にするようなグループに属している彼女と、美夜は仕事以外で言葉を交わしたことはない。個人的な話をしたいとも思わないし、関わりたいとも思わない。
話しかけてきた莉良の頬に添えた指先はかわいらしく作り上げられたネイルに飾られ、ぱっちりとした二重の大きな目も、弧を描く桜色の唇もかわいらしい容姿を引き立てている。
私にそんな媚び売った顔しても無意味でしょうに。
何の意図かはわからないが、男に関して声をかけてきたと言うことはろくでもないことに違いない。
無視を決め込んだ美夜だったが、莉良は腕を掴んで引き留めようとした。
『社長、お見合いしたって聞いたんだけど?』
『神崎さんに、それを話す必要はないわよね』
『見合い相手のこと。興味ない? その子のこと調べてあげよっか?』
あの時、莉良の意図がわからず、ひとまず乗ってみただけだった。
そして二日後には渡された資料は思いのほか詳しく、そして美夜のわかる範囲だけで判断するなら、正しい物だった。
今日の夕食は、そのお礼も兼ねた物だ。
あの日から莉良と話すことが増えた。と言っても、一方的に話しかけられていることの方が多いのだが。
余計なことを知られ、面倒に巻き込まれたと思っていたのだが、まさか冴島が莉良と付き合うとは。
ようやく莉良の意図の一端が垣間見えてくすりと美夜は笑う。
そういうことか。
「あなたの食生活はどうなってるの?」
美夜の問いかけに、清花は言いにくそうに現状を話す。
家政婦の作る料理がカロリーの高い物ばかりな事、残すとひどく怒られること、なのでそれは変えることが出来ないという話をした。
「何馬鹿なことを言っているの? 家政婦でしょう? あなたが変えるように言えば良いじゃない」
「以前、言ったことがあるんですけど、自分の作った物がそんなに気に入らないのかとひどく怒り出して……それ以降は……」
美夜に話を聞かれ、清花は今まで誰にも言えなかった……言っても信じてもらえなかった家政婦との過去を話し始めた。
小学生の頃、母親が亡くなってから雇った家政婦とは、最初から気があわなかったこと、自分の言ったことややったことを、悪意的に父に報告して、いつも自分が悪者になったこと。そんなつもりはなかったと言っても、話し方のうまい家政婦の方を父は信じて、結局、言い訳ばかりすると父親にしかられた。
家政婦が来だした頃は母を亡くしたストレスでやせ気味だった。食事が高カロリーでも普通体型から少しふっくらしたぐらいで、問題になるどころかむしろ父は安心しているようだった。だから、最初に起こったトラブルは食事ではなく、きつくなり始めた服だった。
「子供の頃の服は、誰が買ってたの?」
それも、家政婦が買っていた。それまで着ていた服とは違う、カジュアルでかわいいブランドの服を勧められ、着てみたが、その頃、既に太り始めていた清花には似合わず、結局買う度に服は一度着ただけで家政婦が持って帰っていた。
「持って帰った?」
「私より年上の娘がいるそうで、サイズが合うからって……」
そして、美夜が自分で服を買い始めた頃には、家政婦の娘より大きいサイズを着るようになっており、高い服は買わなくなった。
この前一緒に買った服も、家政婦によってボロボロにされたことも話した。
「なぜ、それを父親に言わなかったの?」
「だって、信じてくれない、から……。あの人がやったなんて証拠は、何処にもなくて、もし言ったとしても、あの人は私がやったって言うに決まってる……。私が気に入らなくて勝手にやったのを自分になすりつけているんだって、もっともらしく言って、全部私のせいにするに決まってる……っ」
今まで、そんなことが何度もあった。訴えても、しゃべるのが下手な清花より、感情たっぷりに「清花さんにこんなことを言われて、悲しい」と訴えられれば、子供より大人の方が信用されるのだ。仕事で忙しい父親とは何を話して良いのかもよくわからず、清花はうまく気持ちを伝えられない。結果、会話の弾む家政婦の言葉を信じるのだ。清花さんは、寂しくてお父様の気をひきたいのでしょう。なんて言っているのを聞いて、違うと叫びたかった。けれどそれに反発すればするほど分が悪くなるような気がして、それさえも出来なかった。
家事も掃除は半分以上清花がやっていた。やるのは別に問題ないのだが、本来は家政婦の仕事のはずだった。
ぽつり、ぽつりと話し始めると、気がつけば何時間もこれまでのことを話していた。美夜はただそれに、相槌を時折うって、先を促し、清花の言葉を静かに聞いていた。
初めて人にこぼした、長い訴えの後、美夜がはじめて口を挟んできた。
「あなた、完全に侮られて、いいように使われてるわね」
「……そんな……。嫌な思いはしたけど、ちゃんと出来ない私も悪いのだし……」
美夜が深いため息をついた。
「完全に洗脳されてるじゃない」
「……洗脳?」
「そう、洗脳。どっからどう見ても家政婦がおかしいのに、あなたは自分が悪いと思っている。それが洗脳じゃなくって何だって言うの。……まあ、無理もないわね。十歳の時じゃ、大人に敵うわけがないものね。あなたの性格じゃ、特に。……じゃあ、まずはその家政婦の呪縛を解くところからね」
「……呪縛……」
「そうよ。出来れば、あなたがその人にクビを言い渡せたら良いんだけど、出来る……?」
「そんな、相手に落ち度がないのに……少なくとも、父はそれを認めてくれないのに、出来るわけがありませんっ」
そんなことをしたら、彼女にどれだけ責められるだろう。想像して、胃がぎゅっと鷲掴みにされるような恐怖を覚える。
「そうね、すぐにそれをするのは、今のあなたじゃ難しいでしょうね……。じゃあ、まずは、食事を変えるように要求しなさい」
それは、確かにしたら良いのは分かる。でも、こちらの言い分に耳を貸そうとしない姿、強く言いつのれば叫びながら非難してくる姿が容易に想像できる。
した方が良いのは、分かっている。でも、怖い。そんなことするぐらいなら、今のままの方がましだ。それをやるのを想像しただけで、恐怖で吐き気がする。
「……できません……」
震えながらつぶやいた。
「……やりなさい」
怖い。
自分の情けなさに涙がこみ上げてくる。でも、嫌だ。やりたくない。怖くて、考えたくなくて、必死に首を横に振る。他の方法を……。
「清花」
美夜がゆっくりと名前を呼んだ。
嫌だ。聞きたくない。
首を横に振る。
「……変わるんじゃ、なかったの?」
びくりと体が震えた。
言葉が、突き刺さる。
でも、だって。
「よく聞きなさい。選択肢は二つ。あなたが、がんばるのなら、私は全力でサポートしてあげる。あなたがやらないのなら……もうこれで終わりよ。もう二度とあなたには関わらない。私は今、踏み出すきっかけを与えたわ。力も貸すと言った。……清花。現状を壊す覚悟を決めなさい。どん底の安定にあぐらをかいて何を変えられるというの。自分は何も行動を起こさず、人に環境を変えてもらって自分は変わったなんて言うつもり?愚かしいにもほどがあるわ。今踏み出せない人間が、これから先いつ踏み出せるというの。現状を壊す覚悟のない人間なんて、変われるわけないのよ」
追い詰められる。
でも、だって、でも……っ
唇をかみしめて、うつむく。
この恐怖が分からないからそんなことが言えるんだ。怖い思いをするのは私だ。責められて罵倒されて泣きながら震える思いをするのは私だ。後からなら、ああすれば良かった、こうすれば良かったって分かる。でも、家政婦に責められているその時は恐怖でいっぱいになって、何も言えなくなってしまう。
きっとうまくいかない。また、ただ私が怒られて終わってしまうだろう。
だから、それは今じゃなくっても、他のやり方もあるかもしれない、だから、だから……。
想像だけで震える清花に、美夜が静かに告げる。
「これでうまくいかなくても良いの。でもその一歩を踏み出す勇気を持ちなさい。あなたが尽くせる手を尽くした後、どうしてもダメだったというのなら、私も直接手を貸すわ。それまでは、どう動けば良いか教えてあげる。でも、教えた後、行動に移すのはあなたよ。最初は私の言いなりで良いの。まずは行動に移しなさい。
失敗、それを受けての試行錯誤、そして成功すること、この経過を積み重ねることで、あなたは必ず変わってゆけるわ。変わるために、その手順は外せないのよ。これが最初の一歩。
出来るでしょう? あなたは変わりたいのでしょう? 大丈夫。清花は変われる。私はあなたが失敗しても、受け止めてあげる。ちゃんと立ち向かったのなら、叱ったりしない。おかしいのはその家政婦よ。誰が何を言おうと、間違ってるのはその家政婦。食事を改善して欲しいと望むのは、雇っている人間が望むのは当たり前。あなたがそれを求めることは、何の不備もない」
想像するだけで、心臓がどくどくと音を立てる。怖くて震えが止まらない。
「ねぇ、清花。今までの苦しかったことに惑わされないで。わかってる? あなたが悪かった事なんて、これっぽっちもないのよ。
十歳の子供に、どれだけのことが出来るというの。今まで自分を守ってくれた母親を亡くして、支えを必要としているときにあなたを支配する大人に預けられて、どうして逆らえるというの。弱った心でどれだけの子供が、強い大人に逆らえるというの。あなたが逆らえなかったのは、あなたの責任じゃないの。
あなたを守るべき大人が、……あなたの父親があなたを守らなかったせい。全て、その家政婦とあなたの父親が悪いの。あなたの父親にも事情があったかもしれない。親だからと言って、完璧に子供を守るなんて不可能だわ。でもね、親は、子供が大人になるまでその人生の責任を負っているの。父親に、どれだけ仕方のないと思える事情があったとしても、あなたには、父親を恨む権利がある。責める権利がある。庇護を求める権利があるの。父親はそれに応える義務があるの。
あなたは悪くない。がんばれる範囲でがんばってきたわ。あなたは悪くないの。
でもね、これから先は、自分自身の責任よ。あなたはもう気付いたでしょう。おかしい環境で育った自分のこと。そしてあなたは大人と認められる年齢に達している。ここで抗うことをあきらめた時点で、そっから先の人生の責任は、自分自身の物になるのよ。変わりたいのなら、やらなかった理由を、幼い自分に押しつけてはダメ。それをすれば一歩も踏み出せないわよ」
優しくて、厳しい言葉が胸に突き刺さる。でもどれもが、これまでの清花を、そしてこれからの清花を守るための言葉だった。
「清花。決めなさい。あきらめるの? それとも、変わるの?」
最後通牒を突きつけられる。
怖い、怖いけれど、こんな事を今まで言ってくれた人が、いただろうか。母が亡くなってから、こんな風に明確に私の味方になってくれる人が、いただろうか。
背中を撫でる美夜の手が温かい。
怖くて、でもうれしくて、涙があふれる。
「………………変わり、たい……っ でも、こわい……っ」
「ええ。怖いのは当たり前よ。ずっとあなたを押さえつけてきた人に逆らうんだもの。怖くないはずがないわ。でも、それをしないと、絶対に変われないわ。
人間はね、言われたとおりに育つのよ。人の期待に無意識に応えてしまう。人が言うとおりに動いてしまうのは集団で生きる者の性なのよ。それを変えるのは、意志の力しかないわ。
今のあなたは誰からしても与しやすい、侮られた存在になっているわ。変わるということは、そのイメージを覆さなければいけない。侮った相手として扱ってくるのをやめさせるには、常にそれに刃向かい、イメージを変えていくしかないの。自分はこう見られてるって、知ってる相手に対応を変えるのは、とてつもなく難しい事よ。相手の望み通りに動いてしまうほうが楽だと感じる清花の性格なら、尚更。
だからね、これからやることが一番大切なことなの。根本的にあなたをそんな風に作り上げた、その家政婦の支配から、絶対に逃れなきゃダメ。それも、あなた自身の力で。それは何よりも自信につながるから。なんとしてでもやり遂げるのよ。一気には無理。出来ることを少しずつよ。まずは食事改善を訴えるだけでいいわ。……がんばれるわね?」
支配。
そうなの、だろうか。あんな風にいつも言われるのは、愚図な自分が悪いのだと思っていた。ぶくぶく太って、言いたいことをうまく言えない、伝えることも出来ない自分のせいだと思っていた。でも、美夜はそれを違うという。……初めて、違うと言ってくれた人。おかしいのは、相手だと。
これまでの美夜の言葉を思い返す。
そうだ、最初から、この人はそう言ってくれていた。出会ったときからそうだった。友達のフリして私を馬鹿にしていたあの山下さんのことも、おかしいのは、彼女だと。私の対応も確かに悪かったのだろう。だからといって、相手が悪くないわけではないのだ。相手だって、悪いのだと。
涙がぼろぼろとこぼれる。嗚咽を漏らしながら何度もうなずく。
頑張りたい。私を認めてくれる人がいる。私の言葉を信じてくれる人がいる。うまくいかなくても、助けてくれると言ってくれる人がいる。
私には、美夜さんが、いる。
「やり、ます……、がん、ばり、ま、す……っ」
「ええ。がんばりましょう」
美夜が微笑む。
いつも、この人はこうやって、励ますように笑ってくれる。私が、ちゃんと前を向いていれば、必ず。後ろ向きになれば、容赦なく馬鹿にされるけど、がんばってるとき、この人は、一度だって私を馬鹿にしたことがなかった。
信じよう。この人を、ちゃんと、信じてみよう。
*注意事項*
あくまでもこれは創作物です。
素人判断でこのような判断を決してしないでください。日常生活の些細な事ならば自己責任の範疇ですが、虐待に相当するひどい仕打ちに対して、素人判断でこのように動くのは非常に危険です。へたすれば更にひどいトラウマになりかねません。責任の取れない他人が口出しするのは大問題だと思います。この作中のような状況に遭遇する事があれば、決して自身や周囲の人間だけで解決しようとせず、迷わず専門家に相談してください。