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「百万。確かに。とりあえずこのくらいあれば十分よ」
美夜は小切手を受け取ると、差し出された誓約書は無視して清花に声をかける。
「あなたの保護者からお小遣いはもらったから、エステに行くわよ。定期的に通うつもりでいなさい。それから美容院に行って、服も揃えましょう。後はスポーツジムの契約にもね。出来ればウォーキングレッスンやマナー教室で姿勢の矯正もしたいけど、それは落ち着いてから、またね。これはこの男があなたに付けた価値の一部よ。気にせず自分磨きに使いなさい」
にやりと笑った美夜に、困惑していた清花がぱっと笑顔になる。
「は、はい……!!」
美夜は榊を見下ろす。
「次回、残りの必要分いただいたら、その誓約書に名前を書いてあげるわ」
「……清花さんを、どうするつもりですか。どうせだましているのでしょう。思い通りにして金づるにでもする気なのではないですか」
語気を荒げて詰め寄ってくるその様子に、残念な男だ、と思う。
「あなたは、清花の言葉や態度を信用する気は、ないのね」
清花を心配するが故なのだろうと好意的に解釈するにしても、清花の表情を見てこんなことを言っているのなら、この男は清花の内面など見るつもりはないのだろう。
自分が気に入るか気に入らないか、それだけで判断しているとしか思えない。そして、おそらくそのことを自覚してない。
「実際、世間知らずな清花さんをだましているのでしょう。でなければあなたのような人間が、清花さんを気にかけるわけがない」
「……ねえ、秘書さん。あなた、自分が何を言ってるのか、分かってる?」
この秘書は、自分の言葉がどれだけ清花を馬鹿にした物か、分かってないのだろう。
「清花さんを近くで見てきたのは私です。家政婦の本性を見抜けず辛い思いをさせましたが、これからは私が直接力になっていきますので、藤堂様はもう関わっていただかなくて結構です」
「……清花。秘書さんはこう言ってるけど、あなたはどうなの?」
びくんと清花が震える。
「あ、あの、私、は……」
「答える必要はありません。行きますよ」
秘書が清花の手を取る。
「あ……」
清花は、まだこういったとっさの時に反応しきれない。美夜が清花から聞いた家庭環境から想像すると、おそらく清花は唯一自分のために動いてくれる秘書に対して強い依存心がある。その保護者代わりの男に認められたくて、言われるがままになることに慣らされている。そして、言葉を聞いてもらえないと、諦めている。秘書の男は家政婦と違い、清花を傷つけようという意図がない分、たちが悪い。
おそらく今、清花が秘書に反発するのは無理だろう。
美夜は聞こえよがしに息を吐いた。
「あなたみたいな人間がそうやって、よってたかってこの子の自尊心をたたき潰してきたのよ」
「……なんだと?」
榊が振り返る。
「あなた、今自分がなにをしたかわかってないのね。たった今、あなたはこの子の言葉を取り上げたのよ。この子の意志を聞こうともせず、全て決めつけてあなたの意志に従わせることを優先したのよ」
「適当なことを……」
反論しようと口を開き書けた秘書だったが、美夜はそれを遮って厳しい声で断言する。
「あなたはたった今、その言動全てで「お前の言葉は聞く価値がない」って踏みにじったのよ」
秘書が言葉を詰まらせた。そして確認するように、ゆっくりと清花を振り返る。
秘書がぎくりとして固まった。清花は彼に手を捕まれたまま、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
「さ、清花、さん……」
「……え? あ、あれ……?」
呆然とする秘書の様子に、自分が涙を流していることに気づいた清花が、戸惑いながら手の甲で涙をぬぐう。ぬぐってもぬぐってもあふれる涙に、美夜がハンカチを差し出した。
「清花。自分で決めるのよ。何を選んでもいいわ。あなたはちゃんと自分の意志を言えるようになるんでしょう? 今、自分の意志をはっきりとさせてごらんなさい。その秘書さんと一緒に行くというのなら、それもひとつの選択肢よ。私にしごかれたいというのなら、こっちに来なさい。一人で頑張りたいというのなら、それを試すのも大事よ。でもその場合は、人に頼ることも忘れないで。その秘書さんがあなたを心配しているのも事実だと思うわ。ちゃんと言い返せるのなら、きっと力になってくれるはずよ」
泣き止もうとして、しゃくりをあげる清花は、うまく言葉が出てこないようだ。
「あ、あのっ」
「うん」
ゆっくりと待つ姿勢を示せば、一生懸命に落ち着こうと頑張る清花の様子がよくわかる。
ひっく、ひっくとしゃくりをあげて、なかなか言い出せない。
「清花さん、いつまでも泣いていては……」
泣き止まない清花に難しい顔をした秘書が口を挟んできた。
焦れたのか、それとも動揺しているのか。
清花の涙を見た時の秘書のうろたえぶりを思い返す。
その能面のような感情の読み取れない表情の下、何を考えているのかしらね。
この男は使えるのかしら、それとも、邪魔になる……?
泣いていることを責めるような秘書の言葉にびくっと清花が震えるのが見える。美夜は考えを中断させると秘書の言葉を遮るように言葉をかぶせた。
「秘書さん。そうやって急かすから余計に焦って時間がかかるのよ。……まったく、つまずくことなく順調に生きてきた男は、これだから」
美夜のしつこく見せつけてくるわざとらしいため息に、秘書がにらみつけてくる。それを無視して、ゆっくりと清花に話しかけた。
「清花。その秘書さんの言葉は気にしなくて良いわ。人を踏みつけながら生きてきた人間はね、人の心を踏みにじってる事に、気付いてすらいないのよ。そういう人はね、人を傷つけたあげく、それが相手のためと思い込んで良いことをしたつもりでいたりするから、本当に救いようがないものなの。……そこの秘書さんのようにね」
「……なんだと?」
美夜は挑発するように嘲笑う。
「あなた、清花を真っ当に育てたいのなら、マテを覚えなさい。犬の方がまだ利口だわ」
榊が眉を顰めた。
「あなたのような失礼な女が清花さんの周りにいると、悪影響しかなさそうですね」
「あら。ほんとうに悪影響なのは、誰かしら。十年かけてこの子を卑屈の塊にしたのは」
「……何が言いたい……!」
「さ、さかき、さんっ」
剣呑な空気になりつつ睨み合っているところへ、喉が引きつったような声が上がる。
「……はい」
袖にすがりついて必死に見上げてくる清花の様子に、榊の毒気は抜かれたような様子だ。
「心配、してくれて、あり、がと、う、ございます。も、もし、美夜さんがひどい要求をしてきたら、ちゃんと、相談します。だ、だから……」
涙声で言葉を詰まらせながら必死で言いつのる様子に、榊の力が抜けた。
「……あなたは、私よりも、この女の方を選ぶのですね……」
力ない声だった。
この榊という男、やはり本気で清花のことを心配しているのかもしれない。そして清花もこの男のことを慕っている。だが、人の言葉ひとつに右往左往する清花と、自分が苦しんだことがない故に人の苦しさの意味が分からないこの男では、現時点においては相性が最悪だろう。自立したい子供と子供かわいさにそれを妨げる過干渉の親のようだ。
この男が使えるか、使えないかは微妙なところ。これから二人の関係性がどう変わっていくかそれによって変わる。どちらにしろ様子見だ。
秘書の手が清花の髪をゆっくりとなでた。
「わかりました。ひとまずはこれで失礼させていただきます。お食事の邪魔をしてしまい、申し訳ありませんでした。……また、お会いしましょう」
最後の言葉は、美夜を射貫くようにして向けられる。
美夜は肩をすくめると、ひらひらと手を振った。
「ええ。またお目にかかれる日を楽しみにしてるわ」
しっしと追い払うような美夜の手つきに眉を顰めた後、秘書は個室を一人で出て行った。
「食事を取り損ねるところだったわね」
ため息をついて、美夜は再び椅子に腰を下ろす。一息ついてメニューをめくりながら、困った顔の清花に座るように促した。
「せっかくもらった小切手だけど、休日じゃすぐに使えないわね。服はお取り置きで良いとして、他はいくつか見てまわって予約するようにしましょう。時間が余れば美容院かしら」
清花はまだ目を潤ませてただうなずきを返すばかりだ。今まで押し殺すしか出来なかった言葉を解放したことで、感情面の興奮がまだ抜けないのだろう。
美夜は軽く肩をすくめると、苦笑を浮かべた。
「よく、自分の意見を言えたわね」
「が、んばり、まし、たっ」
「泣くのをこらえなくて良いわ。今のあなたじゃ、泣くのをこらえると逆効果にしかならない。涙が出てきたら、いっそ思いっきり泣いてごらんなさい。その方が感情は制御しやすいから。泣ける時に心ゆくまで泣いておきなさい。泣いて感情を制御することになれたら、泣くことなく感情の整理を付けられることも増えるわ」
「は、いっ」
泣きながら清花が笑う。
面倒な保護者も出てきて目を付けられたが、信頼した目で見つめられると、決して悪い気はしない。
あまり、情は移したくないんだけどね。
美夜は苦笑する。けれど、必死に頑張る子は、嫌いじゃない。
ようやくありつけたランチを楽しみながら、二人はこれからのプランについて話し合った。
藤堂美夜という女は、つくづく腹立たしい女だった。傲慢でふてぶてしい。そして……。
清花と出会ったのは、六年前の夏のことだった。
蓮山社長の秘書となって間もない頃、ほぼ雑用に近い状態の時、ついにプライベートの雑用まで押しつけられたのだと、ため息をついた。
夏休み中、家政婦がいない間、娘の様子を見て欲しいと言われ、断る余地もなく出向いた先で、ぽっちゃりとした少女が榊を出迎えた。
「……こんにちは」
おどおどとした様子で人の顔色をうかがう少女は、自信にあふれたワンマン社長の印象とは全く逆のベクトルを向いていた。
関わるのも面倒そうな子供相手だが、仮にも社長令嬢だ。榊は、にこやかに挨拶を交わすと、夏休み中のことを話し合った。
印象こそおどおどとしているが、言葉を交わしてみれば清花は利発な少女だった。しかし、自信なさげなところが気にかかる。
榊は、清花が話しやすいよう気をつけながら彼女の警戒を解いていった。
その頃は、兄のように慕われていたように思う。
そして、社長から清花に関することを頻繁に頼まれるようになり、必然的に家政婦とも関わることも増えた。
家政婦は優しげな容貌におっとりとした印象で、その雰囲気に違わず、いつもにこにこと笑みを浮かべ清花を気遣っている女性だった。
「清花さんは榊さんとお会いするのが本当に楽しいようで」そう言ってクスクスと笑いながら報告してくる。
榊が気にしていることもいろいろと気を回してくれているようであった。
「かわいらしい服をお勧めしたのですが、好みに合わなかったみたいで…」
「お食事を残されて、心配です」
「清花さんのお好きな物を作ったのですが……」
「シンプルな装いがお好きなようで……」
「体調が悪いのではないかと」
「……ほんとは、私の作る物や選ぶ物がお母様とは違うから、嫌がってらっしゃるのかもしれません」
「清花さんは悪くないんです。お母様を恋しく思うのは当然ですから」
「反発されるのも、信用されているのかと思えばうれしい物です。反抗期ぐらい、受け止めて見せます」
「やっぱり、お母様を亡くされているからでしょうか。不安定な時があるようで……。できる限り、娘のように接しているつもりですが………代わりにはなれませんね……」
寂しげに微笑みながら「清花さんは悪くない」と報告してくる事で、「清花を気遣い、包み込んでいる家政婦」を演じながら全ての真実を覆い隠していた。
心配する素振りで、清花が悪いのだと刷り込みをしていることにすら気づかなかった。
言葉を鵜呑みにして、これだけ家政婦が気遣っているのなら甘やかすだけでは清花のためにならないと、自分は厳しく接しようと、清花への態度を変えた。
あれだけ家政婦にかわいがられていながら被害者のような態度をとる清花に、甘えてばかりではいけないと気付かせようと、厳しい言葉を何度もぶつけた。傷ついたような清花の表情は胸に痛かったが、いつまでも自分の殻にこもっていてはいけないと、もっと自立して欲しいと、厳しくしてきた。頑張っても良い方向に変わっていかない清花に、いらだちを覚え、必要以上にきつく言葉をぶつけたこともある。
けれど自分が思っていた現実は、作られた虚像だった。家政婦は優しげな言動の裏で清花を虐待し、そして自分は、それに追い打ちをかけていた。
いいように家政婦にあしらわれていた自分自身に腹が立つ。
家政婦の言葉を信用し、清花の言葉に耳も貸さなかった自分を、彼女はどう思っていたのだろう。味方のいなかった世界は、どれほど辛かっただろう。
慣れて少し話せば、清花の利発さは見つけられる。頑張る姿勢も好ましく、なのにおどおどしすぎて失敗ばかりしてしまう姿には、いつも力になってやりたいと思っていた。
この子の本質の良さを引き出してやりたいと、ずっと思っていた。よく見ればかわいらしい顔立ちをしており、こんな風に卑屈になっていてはもったいないと思っていた。
清花は、そうは思っていなかったかもしれないが、ずっと、かわいがってきていた。いつも気にかけていたのだ。いつも暗い顔をしているあの子が、いつか笑顔になれるよう、力になりたいと思っていたのだ。
あの家政婦は追い出した。仲介業者には報告をし、賠償とこれからの対応については話し合っている。時折家政婦から連絡はあるが、適当に話は躱している。
清花がもうこれ以上関わりたくない、顔を見るのもイヤだと言うから、訴訟は起こさずにいるというのに。
あの女もこの程度の対応ですんでいるうちに手を引けば良い物を。
清花の養育を口実に横領していた様子も見られるため、あまりひどいようだとそちらの方面からの訴訟も考えている。それでも少なからず清花も関わることになるため、出来れば避けたいのだが。
しかしひとまずは清花自身から家政婦の問題は取り除いた。だからこれからは、ちゃんともう一度、清花との関係を築きたいと思っていた。
清花が家政婦を糾弾した時は、彼女が一皮むけたのを誇らしく思った。もう二度と清花を傷つけないように、力になりたいと思った。
なのに、清花が家政婦に立ち向かうきっかけを作ったのは、協力者が別にいたのだという。
なぜ自分に頼ってくれなかったのだと、胸の奥が疼いた。
分かっている。
榊はあの頃清花の味方にはなり得なかった。けれど、自分が頼られたかったという理不尽な怒りがこみ上げる。清花の話によく出てくる女の名前。藤堂美夜という女を心底頼りにしているようだった。
だが、もう、彼女は必要ない。
清花さんには、私がいるのだから。
だから、今度こそは……。
なのに。
『あなたみたいな人間がこの子の自尊心をたたき潰してきたのよ』
藤堂美夜へのいらだちのために、清花に発破をかけようとしていた頃の癖が出て清花を傷つけていたことに気付いた。
藤堂美夜に言い返す言葉が見つからなかった。
清花に必要なのは自分だと、そう知らしめたいのに、縋る清花をこれ以上傷つけることも出来ず、その場は去った。
あの女は邪魔だ。
だいたい、なぜあんなにも清花のことを気にかけるのか。何か目的があるはずだ。金目当てかと思ったが、そうとも限らなくなってきた。あの女の目的がなんなのかはまだ分からないが、これだけは確かだ。得体の知れないあんな女に、清花を任すことは出来ない。




