プロローグ
「結婚しようと思っている」
隣で寝ている男がそう切り出した。
美夜は一瞬息を飲んだ後、動揺を気付かれないように言葉を返す。
「誰と?」
彼女は知っていた。男が結婚を考えている相手が自分ではないことを。
ひどい男。
心の中で彼女はなじった。こうして身体を繋げて、決して短くはない時間、恋人として過ごしてきたというのに。別れはこんなにもあっさりとやってくる。
「蓮山商事の娘だ」
確か男が欲しがっていた人脈だ。彼女は男の言葉から記憶を探り出す。確かあそこには二十歳そこそこの娘がいたと記憶している。
「あそこのお嬢さん、一回りぐらい下じゃなかったかしら?」
皮肉な彼女の物言いに、男は顔をゆがめるように笑った。
「どうでも良い。それであそこの社長と渡りが付くのならな。最初それなりに妻として扱えば、後はどうにでもなる」
「……ひどいことをいうのね」
美夜が不愉快そうに眉をひそめたが、男は肩をすくめるのみだ。
「俺には君がいる。子供に興味はない」
「その子供と結婚するくせに」
「名前だけだ。君と別れる気はないことぐらい、分かっているだろう?」
男は楽しげに嗤うと彼女の頬に触れた。
「……私に愛人になれというの」
彼女の低い声に、男は眉間に皺を寄せた。
「愛人というのなら、そうだろうな。愛しているのは君だけだから」
くだらない言葉遊びだ。
頬のラインをなぞる指先は官能を誘うように動くが、彼女は感情の読み取れない表情でそれを静かに払いのける。
「お断りよ。冗談じゃないわ。あなたがその女の子と結婚するというのなら。それが決定しているというのなら、私達の関係はこれで終わり。私と一緒にいたいのなら、その女の子との結婚を諦めるのね」
彼女は身を起こすと、彼の腕からすり抜けるように立ち上がった。薄暗いベッドルームに彼女のすらりとした白い肢体が浮かび上がる。張りのある美しい胸のふくらみも、引き締まったウエストも、背中から腰にかけての曲線も、細くしなやかな足の形も、全てが男の理想であった。
「おい」
男は溜息混じりに彼女に声をかける。
男のこういった冷酷さを彼女は知っていた。そして今までそれを受け入れてきたのも彼女だった。今回の事も彼らしい判断だと思う。愛する女も、欲しい力も、両方手に入れる。それで誰がどう思おうが関係ないのだ。自分が満足してさえいれば。そして、問題なくやっていける事実さえあれば。
男のことだ。上手く立ち回るだろう。妻となる年若い少女を上手くあしらい、影で愛人と関係を続け、妻の実家も上手く騙すことぐらいやってのける。
けれど、それに付き合いたいとは思わなかった。
こういう男だ。そんなろくでもないことに付き合わせようとさせる、どうしようもなく冷徹な男。
それでも夢に見ていた。こういう男と知りながら、それでも自分を選ぶのを。
さんざん待って、この男は自分を愛人などという立場に貶めようとしている。
しかしそれは冷徹な彼らしい判断であり、ある意味ではらしくない判断でもある。男なら不利となる愛人という存在を持つより、切り捨てる方がより「らしい」。けれど、リスクを背負ってでも彼女をつなぎ止めようとした。そのくらいには愛されているのだ。
愛している。愛されている。それは分かっていることだ。
けれど、愛しているからこそ受け入れられない。愛されているのにそのような立場におとしめられるのが許せない。
「一年だけ、待ってあげる。私が欲しいのなら、その子との結婚を破談にしてからよ」
「美夜」
男の不快感がこもった低い声も気にせず、彼女はさっさと身なりを整える。そして、ベッドの上で身を起こし、諫めるように見つめてくる男に、彼女は歩み寄ると片膝をついて手を伸ばす。
彼女の重みできしりと音を立ててベッドが沈む。わずかに寄り添って、彼女は男に口付けた。
「さよなら。愛しているわ」
彼女は囁き、挑むような笑みを浮かべた後、そのまま振り返ることなく背を向けて部屋を出た。