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高い城壁の上で彼女は踊る。踊る。笑う。
下がざわめきだした。
弓兵が矢を番えるのが見える。
いいね、いいね! そうこなくては!
無理やり気を高揚させなければやってられない。
それでは、それでは。いるのかいないのか分からないけど神様、戦場の神様お力をお貸しください。
もはや神頼みで、彼女は、努めて明るく――笑いかけた。
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眼前にそびえ立つその城は暗闇の中、門を堅く閉ざして鎮座していた。
通常ならそう簡単に攻め落とせるものとも思えず一度退却していただろう。
しかしあと一歩のところまできていた。仲間もすぐそこに見えている勝利に疲れている体を奮い立たせる。
ああこれでやっと終わりそうだ、と兵士が馬上でひっそり息を吐く。
帰ったら念入りにブラッシングして、よく休ませてやろう。そう思いながら首筋を軽く叩く兵士に、馬は満足げに軽くいななく。
その馬首が、不意にそびえたつ城を向いた。なんだ?と自分も視線をやる。
なにか、動いた。ほんのわずかに。目を凝らし耳を澄ませても城の変化は見受けられない、遠すぎてここからではよく分からなかった。
ふと、静まり返っていた城の上。おそらく見張り台であろう場所で、白い何かが揺れていた。遠目に一瞬、星が瞬いたのかと錯覚した。
なんだ、と不審げに呟く多くの兵、ざわめきはだんだん大きくなる。目を細めて『白』を睨みながら誰かが呟く。子供か?子供だ。何故?白い服を着て城壁の上を歩いてるぞ。
足元で舞う服の裾がふわりと揺れる、子供はまるでゆるく吹く夜風と遊んでいるようだ。足をすこしでも踏み外せば、冷たく硬い土に叩きつけられるのに。時々、くるりとターンしながらまるで踊るように城壁の上を歩いていた。
兵士たちのざわめきはいつの間にか無くなっていた。目にしているものが信じられず、多くの兵がただ茫然と城を見上げていた。そうしているうちに、離れている場所にいた指揮官らが異変に気がついたのだろう。近づいてきて、そして我々と同じように城へと釘付けになる。
我々が、『白』に気付いたことに『白』も気がついたらしい。
ふ、と進む足が止まった。フードに隠れた顔がゆるりと、こちらに向けられる。
思わず顔を見ようと凝視したが、残念なことにフードが邪魔をして見えなかった。なのに、なぜか、子供が笑ったように思えて首を振る。笑うことなど、できるものか。この状況で。あんな場所で。
「……射落としますか?」
弓兵が指揮官に問いかける、彼は難しそうな顔をしながら上司の返事を待っていた。指揮官はしばし考えて首を横に振った。まだ判断できない。もうすこし泳がせて様子を見る、と言い放つ彼に、何人かは弓に矢をつがえて城壁へ狙いを定める。
狙うだけだ。けれどいつ射られてもおかしくない状況が、あちら側から見えているはずなのに。人影は興味を亡くしたように、再び動きはじめた。
危険性などまるで無いとでも言うかのように、さっきよりずっと軽やかな足取りのように思えた。『白』は踊るように城壁を移動していく。
その『白』に直接肺を抑えつけられていると錯覚に陥るほど、呼吸が圧迫される。恐ろしく美しい光景だった。満天の星空の元、漆黒に塗りつぶされた城の先、純白の『白』が踊っている。
おそらくこの光景を見た物は、一生忘れることができまい。と無意識に考えて、そうだろうと兵士は思った。誰も、一度でも戦場に出た事のあるものならば、こんなにも気圧され、圧倒され、引き込まれるこの光景を正気のものとして受け止めることなど、とてもできない。
大丈夫。怖いことなど、なにもない。そう自分を落ちつけても視線を離せない。まるで魔物に魅入られたかのように誰一人として言葉を発せない。
誘うように舞う影が、不意に動きを止めて我々を捉える。やはり気が付いていた。ここに、我々に、『敵』に、気が付いていたのだ。
いまさら緊張感を取り戻した兵士たちをあざ笑うかのように、人影はくる、とその場で一度回った。長い衣が踊るように風に揺れる。『白』の両腕が細く、小さな両腕が何かを求めるように持ち上がり、胸の高さで止まる。
その瞬間、『白』が一層際立つ。人影が闇の中に浮かび上がる。白く、白く。
後から思い至った事だが、城壁の燭台に火が灯されたのだ。それは瞬きよりも早い出来事で、その時はまるで魅入られるかのように、みな白く浮かび上がった影を凝視していた。
そして気がつけば白い人影の後ろに兵士が二人後ろ向きで控えていた。それぞれ旗を持ち、長い柄を交差させて静かに控えている。
ぞっと、背筋が凍った。
ダメだ。あれは、あのままにしておいてはダメだ。
兵士がパニックに陥るより早く、射落とせっ、と指揮官が恐怖に耐えきれなかったのか、闇を切り裂くような鋭い命令を響かせた。
『白』は、依然として我々を見ていた、焦ることなく。待っていた、と言うように唇が笑みを描く。
赤い、赤いまるで血の色のような赤。息を吸うように薄く開いた唇が、何か言葉を紡ぎあげる。
守れ。その一言。恐らくたったそれだけの言葉だった。その一言で影が動いた。『白』のすぐ足元、我々からは見えない位置に控えていたのであろう人影が、その言葉に従うように。『白』を守るように二人の兵士が立ちあがった。飛んでいった矢をすべて剣で叩き落とされたときに初めて、動いた影が兵士だと気づいた。
『白』が笑う。何がおかしいのか、我々がおかしいのか、それとも攻撃など何の意味もなさないという意味なのか。こちらまで届かない声で、笑う。いかにも楽しそうに。笑いが溢れてきて止まらないのだとでも言うように。我々を馬鹿にしたように。まるで自分を守った兵士たちを褒めるように。
それは何処にでもいるような子供の仕草であるのに、どこまでもこの不気味な夜に似つかわしくないほどの清らかさだった。
『白』はこの世のものではないような透明感をまとって、ただ我々を、『白』にとっての『敵』を城壁の上から見下ろしていた。
追い詰めて城に立てこもらせたのは我々の筈なのに、勝利を手にするのは我々のはずなのに、気圧されているのはどうしてなのか。先ほどから一歩も動けない兵士の前で、『白』が再び動く。
その背に誇り高き自国の旗をはためかせて。