第二話『春』
自分は逃げて来た。
あの虐めっ子達から。
ここがどこかもわからず、足だけを前に進め。
そうして辿り着いた地は、とてもとても暖かい街で。
ぬるま湯に浸かる思いだったが、徐々に傷は癒され、馴染んで行った──
紀里谷冬は18歳にして、紀里谷萬ノ店の店主である。
そこには様々な事情があるのだが、現状関係無いので、その話はまた今度。
──もぐもぐぱくぱくむしゃむしゃ。
音を立てながら皿に載る料理を片っ端からかき込んでいくその豪快っぷりに、冬はため息を漏らす。
自分の作った料理を美味しそうに食べてもらえるのは嬉しいのだが、何と言うか、その、音を立てずに食べて欲しい。
そこはかとなく下品だ。
いや、下品とかそれ以前にイライラする。
しかし、その姿をみると、注意する気も失せ放っておくのだが、またしばらくするとイライラし始め──のループに、また一つため息を漏らす。
なんだこいつは。
紀里谷萬ノ店、奥の店員専用スペース。
まあ店員と言っても、すでに冬しかいない現状、冬個人のスペースになっているが。
キッチン、冷蔵庫、電子レンジ、テーブル、テレビ。簡単な家具は揃い踏み。ここで暮らそうと思えば暮らせるが、一応冬の部屋は別の場所にある。
そんな、普段一人しかいないはずの店員専用スペースには現在、もう一人存在していた。
砂漠の中でも歩いて来たのか、砂まみれの古めかしいマントに身を包み、顔をすっぽりと覆っていたフードは今は被っていない。
フードから露わになったその顔は、やはり男で、冬と同じくらいの年齢だろうか。
謎多き少年──どこか非日常で彩られたその少年を前に、冬はまたため息を漏らす。
突然通りに現れ、空腹に倒れた少年。
それを冬が不審者に仕立て上げ、あまつさえ自らの株上げに利用した。
そのことに多少の罪悪感を抱き、こうして見知らぬ少年のために手料理を振舞っているのだが……。
「……ホントよく食うな、アンタ……」
最初は、茶碗にご飯一杯、朝食の残り物である味噌汁と鮭の塩焼きを提供した。
が、それを一瞬で平らげたのを見て、ああ、足りない、と思った冬は次々と料理を作り、少年は次々と胃の中に放り込んで行った。
ついに、最後の一品まで勢いを落とすことなく食べ尽くし、満足気に吐息を漏らす。
商売人である冬は、料理代を払ってもらおうかと考えたが、その少年はどう考えても金を持ってそうにない。
仕方ない、無料と言うことにしておこう……。
当初の目的である罪悪感の払拭などすでに頭の中から抜け落ち、自分がタダで商売をしたことに、またため息を漏らす。
「で?アンタ誰だよ」
満腹になった腹をさすりながら椅子に寄りかかる少年に、蓮っ葉な口調でド直球に尋ねる冬。
怪しい言葉が出たら即追い出してやる、と息巻きながら。
だが少年は、そんなギラギラした冬の視線には気づかず、ただ一言。
「知らない」
と口にした。
それを聞いて冬は、同じく一言。
「なめんな」
と口にした。
少年は、本当に何も知らないかのように、眉根を寄せ、冬の剣呑な態度に怯えている。
その弱腰な姿に、男のくせになよなよしい、と思いながらも、怒る気を失っていた。
なんだこいつは。
先ほども感じた疑問を、再度浮かべる。
こいつと話してるとペースを崩される……めんどくせー。
早々に会話を諦め、冬は小さな部屋から出て、いつも通り開店準備を始める。
昨日の夜入荷した商品を棚に並べて行き、シャッターを開ける。
ふと背後を見ると、その一連の動作を少年が、大きな瞳を輝かせて見ていた。
どんな力がはたらいたのかはわからないが、冬はそれを見て、言葉を発していた。
「やってみるか?」
最初は拙く。
回数を重ねるごとにそれっぽくなり。
一ヶ月も経った頃には、一人でも出来るほどになった。
その間にも、少年と冬の会話は紡がれ、あちこちから冷やかしの声が挙がる。
「おーっす。今日もお熱いねぇ紀里谷は」
「うっせえじーちゃん。良い年して女の子からかうんじゃねーっての」
「おお恐い。もう少し女の子らしくしてくれないもんかねぇ」
「しね」
一蹴したところで、少年がおずおずと話しかけてくる。
「ふ、冬……?」
「んぁ?ああ、終わった?お疲れさん」
「あ、うん……あの、さっきの人のこと……」
「気にしない気にしない。別に、わたしも本気で怒ってるわけじゃねーよ」
それを聞いた少年──春は、わかりやすく顔をパァっと綻ばせる。
それを見て、冬も微笑む。
少年は様々な記憶が欠落していた。
自分が誰なのか。
どこから来たのか。
なぜここに辿り着いたのか。
すべて抜け落ちていた。
名前は冬が考えた。
春に出会ったから、春。
安直だと散々言われたが、春本人が喜んでくれたので、周りもそれ以上は口出ししなかった。
そうして、春は、彼艸商店街の一員となった。
これは、そんな、春と冬のお話。
春が過ぎ、夏、秋を経て、冬へと廻るまでの。
短い短い、お話。