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【処女作】 ハピネスタウン物語  作者: あいる華音
最終章 「終焉 -end-」
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Maki's end -woman-

【真紀エンド】


 マリアが処刑台をゆっくりと歩き始めた時、反対側の展望台でそれを見つめていた真紀は、尋常ではない震えに襲われていた。

 犯罪取締指揮官である真紀は、今までも何度か処刑は目にしている。直接手を下したことはないが、拷問に似た取調べも日常茶飯事で、慣れてしまっている自分に嫌気が差す。だがそれ以上に犯罪の減らないこの街で、潔癖症である性格が、犯罪者を受け入れられない事実があった。

「真紀、大丈夫か? ずいぶん震えているようだが……」

 隣にいた織田氏が、そう言って真紀を見つめる。それを聞いて、卓が真紀を支えるように肩を抱いた。

「大丈夫……大丈夫です」

 真紀はすかさずそう答えた。だが、いろいろなことが頭を駆け巡る。

 許せない存在であるマリア。なぜ許せないのか。亮を愛したから――では、自分は亮を愛していたのか?

 亮とは政略結婚だ。自分は竜を愛していたはずだ……しかし竜は去っていった。竜は今、あのマリアを愛しているという。それが許せない? では、自分は竜を愛しているのか。今ではそれはわからない。

 しかし子供は愛している。それが他人の子であろうと、子供は好きだ。子供を取られたら、気が狂うかもしれない。

 だがマリアはその子供を手放した。気が狂うほどの現実だろうが、あの女はそれを受け入れ、今も罪を背負い、死を受け入れようとしている――。

 もし自分があの女と同じ立場なら、どうしていたことだろう。愛する男と引き裂かれ、子供とも離れなければならない現実を、自分は受け入れられるだろうか――。

 そんな様々な思いが頭の中を駆け巡り、真紀は震えの中で、指令用マイクのスイッチを押した。

「もうやめて! 処刑は中止!」

 一瞬の静けさが場内に漂った。しかしすぐに反発の声が上がる。

「どうしてだ! 処刑を続けろよ」

「極悪人なんだろ。殺せ!」

「見せしめだ。早く続行しろ」

 そんな民衆の声にも、真紀は少しもひるまない。

「聞こえなかったの? 処刑は中止です。告訴人、織田真紀は、告訴を取り下げます。役人以外はすみやかにこの場から立ち去りなさい」

 絶対的な言葉に、人々は役人に追いやられるようにその場から出て行かされた。


 展望台では、真紀の立場がすでに危うくなっていた。

「なんてことをした、真紀! ここまでこぎつけるのに、どれだけ苦労したと思ってる? 卓だって、このために政府と何度も交渉したんだぞ」

 そばにいた織田氏が、怒りの声を上げる。

 真紀はいつになく静かな目で、処刑が中止された処刑台の上を見つめた。

「……お義父様。私は疲れました。人を憎んだり、恨んだり……あの子を憎んだのは私の勝手ですが、あなた方が煽ったことも事実です。私も人の子、女です。あの子の苦しみは当然だと今でも思っていますが、あの子は死んではなりません。あの子はそれ以上に、もう償っているのだから……」

 穏やかな口調の真紀に、織田氏も少したじろいた。しかしすぐに口を開く。

「何を言うんだ、真紀。おまえは優しすぎる。あの女だって認めたんだろう? おまえの立場になってみて、あの女を許せるかと。あの女も許せないと言ったのではなかったかね?」

「言ってはいませんがそう感じました。でも私は彼女の立場になってみたことはありません。それでも愛する人と別れ、命より大事な子供を手放さなければならない辛さだけはわかります。それに彼女は、今も誰一人恨んでいません。そんな生き方、私には出来ない……彼女に敬意を表して、もうここで終わりにします。告訴を取り下げます」

「真紀……」

 織田氏にも取り繕えないほどの決意が、真紀にはあった。

 真紀はそのまま無言で部屋を出て行くと、反対側の処刑台の上まで歩いていく。そこには瀕死のマリアが横たわっている。

「奥様、どうして……」

 力なく、だがどこか訴えかけるような目で、マリアがそう言った。

「……マリア。私を許してください。ここまでこなければわからなかったなんて……自分の残酷さにぞっとするわ」

 正気を取り戻したかのような真紀だが、マリアは首を振る。

「私は、昇を引き取ってくださっただけで、なにもかもが満足です……」

「しゃべらないで。すぐに病院へ連れて行くわ」

「でも……」

「いい? 必ず治して。そうしたら、もう私はあなたに関わらない。あなたも幸せになりなさい」

 朦朧とする意識の中で、マリアは真紀の言葉を聞きながら目を閉じた。


 次にマリアが目を覚ました時、そこは真っ白な病室だった。

「ママ!」

 その声にハッとして、マリアは朦朧とする意識を叩き起こす。

「ママ」

 声のほうを見ると、目の前には昇がいる。夢にまで見た我が子だ。そしてそのまた向こうには、亮と竜もいる。

「ここは……」

 か細い声で、マリアが言った。天国ではないかと思った。

「病院だよ。今、先生を呼んでくる」

 そう言ったのは竜だ。言うなり病室を出て行く。

 力ない表情のマリアは、処刑中止から何があったのか、今置かれている状況を必死に思い返し、理解しようとしていた。

 そんなマリアの頬に、そっと亮の手が触れる。

「すまない……話したいことがいっぱいだ」

「……旦那様……昇……」

 精一杯の力を出して、マリアはその手を昇の顔に触れる。

 会ってはいけないはずだとは思いながらも、こうして会えたことが素直に嬉しい。

「ママ」

「昇……大きくなった」

 マリアの優しい瞳が、昇を貫く。

「ママ……大丈夫? 痛い?」

「大丈夫よ。心配しないで……旦那様も、すみません……」

「何を言うんだ。謝るのは僕のほうだ。知らなかったとはいえ、許可を出したのは……」

「いいんです……」

 その時、竜とともに医者が入ってきた。

 マリアはその場で医師の検診を受け、その場でもう命に別状はないことを言われ、一同も安堵の表情を浮かべる。

 検診の後、マリアはすぐに眠ってしまったので、一同は家に戻ることにし、無言のまま帰っていった。


「昇。もう自分の部屋で休みなさい。大丈夫だね?」

 家に着くなり、亮が昇にそう言った。

「はい。大丈夫……でも、またママに会える?」

「ああ。きっと」

「よかった。おやすみなさい」

 昇はそう言うと、自分の部屋へと戻っていく。

「兄貴。少し話せる?」

「ああ……」

 亮の言葉に頷き、竜は亮の部屋へとついていった。

「何か飲む?」

「いいよ。本題に入ってくれ」

 竜も虚ろな表情で外を見つめ、亮を促す。小さく溜息をついて、亮はソファに座った。

「これからのこと……相談に乗ってほしいんだ」

「……俺なんか、相談に乗れる立場じゃないだろ。所帯持ちでもなければ、おまえのように政府高官じゃないぞ」

「立場なんかどうでもいい。僕は……どうしたらいいんだ!」

 頭を抱え、亮は今にも泣き出しそうだった。

 竜も顔を顰めて亮の前に座る。亮が言いたいことはわかっていたが、自分でも答えが出ない。

「……真紀は、本当にマリアを解放するのだろうか」

 ぼそっと、竜が言った。

 竜も自分が許せなかった。マリアを救うことが出来ず、真紀や父親に立ち向かえもしなかった自分に腹が立つ。

 だがそれはきっと亮も同じ気持ちだろう。最高指揮官という立場でありながら、自分だけが何も知らなかったマリア処刑の事実。日本で不意に知った亮は、真紀や父親がそこまで進めていたこと、トップでありながらも自分だけが知らなかった事実に、ショックを隠しきれない。

「兄貴。真紀をあそこまで追い詰めたのは僕かな……僕は無力だ。何が最高指揮官だ。僕はただ踊らされているだけのピエロだ」

「いや。おまえは忠実にこなしてたよ。マリアと別れる契約を……追い詰めたとしたら、それは俺だ。俺だって、あいつらを心の底じゃ信頼してたんだ。マリアを殺したりはしないって……でも事実、今までマリアは死ぬよりひどい目に遭わされてきた。真紀は何度も鬼になってた……もっと早くに、俺が止めてやらなきゃならなかった」

「でも処刑を止めたのは真紀だ。あれだけ会わせまいとしていた昇を、マリアに会わせろと言ったのは真紀なんだ」

 マリアと会うことを禁じられ、マリアの生死すら知らなかった昇が病室にいたのは、他でもなく真紀の指示によってだった。

 出張から帰ってきて事実を知った亮は、ためらいながらも昇を一人置いておくことに気が引け、ともにマリアのもとへ向かったのである。

 病室で目にしたマリアに、亮は血の気が引く思いがした。自分の妻や父親が、ここまで強硬な手段に出るとは思ってもいなかったのだ。

「俺も散々裏切られてきたからな。あんまりあいつらを信用するな。でも、真紀はどうしてる?」

「今日は帰らないと言っていたよ。僕と顔を合わせづらいのかもしれない」

「そりゃあそうだろう。俺だったら……」

 そう言いながら、竜は思い詰めた表情になった。真紀の気持ちを自分に置き換えてみれば、死さえ選ぶかもしれない。

「兄貴?」

「亮……おまえ、今でもマリアを愛してるのか?」

 突然立ち上がった竜は、不意にそう投げかける。

「……そうだね。彼女のことは大切に思ってる。なんのしがらみもなければ、いつでもよりを戻せたと思う。なによりもう真紀を、もとのようには見れないかもしれない……」

「じゃあそういう覚悟をいつでもしておけ。こうなった以上、何かが壊れる」

「兄貴?」

「出かけてくる。おまえはここにいろ」

 それだけを言い残して、竜は屋敷を飛び出していった。


 そのまま竜が向かったのは役人所である。その奥の奥には、真紀が受け持つ部署と真紀の部屋がある。

「真紀!」

 竜は息を切らして真紀の部屋へと入った。しかしそこは真っ暗だ。

「真紀……」

 暗闇の中で、竜はソファの上に横たえる真紀を発見した。

「あら、竜……いつでも私の邪魔をするのね」

 力なく笑う真紀に、竜も静かに微笑む。

「こういう邪魔なら、いつでもしてやる」

 真紀は少し酒を煽った後、ナイフで自分の手首を切っていた。しかし血は出ているが傷は浅い。

 竜はシャツを破って真紀の手首に巻き、自らの手で強く握りしめた。

「何を馬鹿なことしてるんだ!」

「痛い。痛いのよ……」

「当たり前だろ。でもそんなに深くはないようだな……明かりつけるぞ」

「駄目よ。つけないで! こんな惨めな姿、見られたくない!」

 真紀の声を受けながらも、竜は部屋の明かりをつけ、誰が来ても見られないように部屋を閉め切る。

 明かりの下で真紀は涙に濡れ、そこらじゅうに血が飛び散っているのがわかった。

「……ここには俺しかいない。おまえの抱えてるもん、全部吐き出しちまえよ」

「何言ってるのよ……あの子の味方のくせに」

「俺は傷ついてるやつの味方だ」

 竜は救急箱を取り出すと、早くも赤く染まった真紀の手首を拭いてやり、もう一度処置を始める。

「病院へ行こう。傷は浅くても、放っておいていい傷じゃない」

「嫌……大丈夫よ」

「……よく思い留まってくれたな」

 静かにそう言った竜の言葉に、真紀は大粒の涙を流す。ほとんど人前で泣いたことのない真紀の、綺麗な涙だった。

「本当は……あの子に死んでほしかった。助けたのに罪悪感に駆られて、私も死にたくなった。でも怖くて出来なかった……」

「……痛むか?」

 処置した手にそっと触れ、竜は真紀を見つめる。

「痛いわよ。そりゃあ……」

 真紀はそう言って、止まらぬ涙を拭いながら頷いた。

「マリアの痛みはこんなもんじゃない……だが、おまえだって感じてたはずだ。直接手を下さずとも、あの子を傷つける度におまえも傷付いてたはずだろ。どうしてもっと早くやめられなかった。こんなになるまで、どうして自分の首を絞めていることにも気付かないんだ!」

 竜の目は真剣に真紀を捉えている。いつもなら捻くれて聞けない言葉も、今は優しく聞こえる。

「竜……」

「俺はマリアが大事だ。でも、おまえのことも大事だ。今回の件は、おまえが憎くもあり、思い留まってくれたおまえに感謝もしてる。なによりも俺の前で死なせない。また俺を苦しめるつもりか? 亮の母親が死んだ夢を今も見るように、おまえかマリアの夢も見なければならないのか?」

 そう言うと、竜は真紀を背にして床に座り込んだ。

「……俺はそんなに苦しめられる覚えはない。おまえは勘違いしてる。マリアを大事にするに決まってるだろ。あの子は不幸だと思ったし、おまえもどんどんムキになる。放っておけやしないじゃないか……でも俺は、おまえのこともマリアと同じくらい大事だ。おまえを死なせないためなら、俺はおまえのために命もかけられるぞ」

 ソファの上に座りながら、真紀は竜の背中を見つめていた。その背中は怒りか悲しみか、ひどく震えているように見える。

「ごめんなさい……」

 やがて、真紀がそう言った。

 竜は振り向き、そして真紀を見つめる。

「そんなことは、マリアや亮に言え」

「……うん」

「早く乗れ。病院に行くぞ」

「うん……」

 驚くほど素直になり、真紀は肩を落として立ち上がる。

 そんな真紀を負ぶさり、竜は歩き出した。

「どうして……もっと早くこう出来なかったんだろう」

 噛みしめるように竜が言う。真紀も同調して涙を流した。

 かつて恋人同士だった二人。すれ違い意地を張り、別々の道を歩みながらも切っても切れない関係が、今まさに修復されようとしているようにも思える。

「やり直そう、真紀。結婚とかそういうのじゃなくてもいい。自分のために生きるのが辛いなら、俺のために生きてくれ。俺がおまえの闇を一緒に背負ってやる。だいたいおまえは、力と真世のことにしても、一人でずっと溜め込み過ぎだったんだ。俺もおまえに見合えるように頑張るから……」

「私たち……お互いに素直になればよかっただけなのね……」

「ああ。すまなかった。もっと早くおまえをさらっていればよかったのに……」

 二人はそのまま病院へと向かっていった。


 それから何度も話し合いが続き、織田氏の反対を押し切って、亮と真紀は離婚に至った。

「ごめんなさい……」

 事件以来マリアと真紀が顔を合わせたのは、離婚後数日が経ったある日のことで、マリアもだいぶ動けるようになっており、アルたちのところで新生活を始めたところであった。

「そんな。お顔を上げてください、奥様」

 初めて自分に頭を下げる真紀に、マリアは恐縮して首を振る。

「私はもう、奥様じゃないわ」

「……申し訳ありません」

 マリアは俯いてそう言った。真紀は拍子抜けしたように首を傾げる。

「……どうしてあなたが謝るの?」

「なんと言ったらいいのか……いろいろ思い巡ることがあります。私が罪人なのは事実です。それなのに助けてくださった奥様には、感謝の気持ちはもちろんのこと、お詫びの気持ちしかございません」

「もうやめて!」

 突然、真紀がそう怒鳴った。

「す、すみません……」

「どうしてあなたはそうなの? あなたが私の罪を受け入れる度に、私は惨めになっていったわ。私は……綺麗事を並べるネスパ人が嫌い」

「……」

「でも綺麗事じゃないのよね、あなたたちは……」

 真紀はいつになく穏やかな顔でマリアを見つめている。そして続けて口を開いた。

「綺麗過ぎるわ。本当に人を疑うことを知らず、他人のために己を捨てる……人間、綺麗事じゃ生きていけないのに、あなたたちはそれが生き方だと言う。世界から嫌われるのは当然だわ。でもそれを守ろうとする人間もまた当然いるわ。竜や亮のように……」

 それを聞いて、マリアの顔は曇る。

「……確かに綺麗事なのかもしれません。でも私だって、旦那様に会い昇が生まれるまでは、そんな気持ちはなかったように思います。日々の生活で精一杯で、他人がどうこう言えるものではなかった。でも愛を知って大切な人が出来て、ネスパ人の心になれたのだと思います。それは我々だけでなく、世界共通のものではないでしょうか」

 マリアの言葉に、真紀は微笑んだ。

「確かにね。私だって子供たちが大切。子供のためなら命だってかけられるわ。少しわかってきたわ。あなたたちの人種のこと」

 真紀の微笑みで、マリアも静かに微笑む。

「ありがとうございます……」

「私、近々日本に帰るの。離婚もしたし、仕事の引き継ぎも済んだから」

「……そうなんですか」

「亮には会ってるの?」

「いいえ……」

「あら。あの人も冷たいのね。私に遠慮でもしてるのかしら」

 マリアは微笑んだまま俯く。亮が真紀と別れたからといって、これから会ったり出来るのかはわからない。

「このままでいいのです……」

「……私から会うように言っておくわ」

「いいえ。私たちはもう……」

 そう言いかけたマリアの手を、真紀が取った。

「私たちは話し合って、夫婦の問題は解決したわ。あなただって、私がいなくなるからすぐにどうこうと言う人じゃないと思うけど、もう誰に遠慮することもないのよ。もう一度きちんと話し合いなさい。昇のためにも」

「昇の……」

 迷いが生まれているマリアに、真紀は優しく微笑む。

「不思議ね。肩の荷が下りたみたい。私はこれからも、あなたに償っていかなければならないでしょうけれど、どうして今まであんなに意地を張っていたのかと、今では不思議に思うくらいなのよ。もっとこうして、あなたと手を取れれば良かったのに、遅すぎたわね……」

「いいえ。あなた様は私の憧れです。そして今日まで昇を育ててくださって、本当にありがとうございました。久しぶりにあの子の顔を見て、奥様に預けたことに感謝しました。あんなに立派に大きくなって……ありがとうございます」

「もういいわ。私のほうこそ、ありがとう。いろいろ学ばせてもらったわ。そして本当に、ごめんなさい」

「いいえ。本当にもういいんです」

 互いに譲らない感謝と償いの気持ちに、二人は自然に微笑んだ。

「じゃあ帰るわ。帰国の準備もあるし」

「はい、あの……本当にありがとうございました」

「もうやめて。私は何度言っても償い切れなくなるわ。それじゃあ、さようなら」

 そう言って、真紀は静かに去っていった。

「さようなら……」

 真紀の背中にそう言って、マリアは窓から外を眺める。

 亮と真紀の関係は終わったかもしれないが、マリアにとって、今は先のことなど何も考えられなかった。


 真紀が帰った後、マリアはまた居候させてもらっているコブの店の掃除を始めた。まだあまり動くなとアルからも止められているため、店を手伝うまではいかないが、掃除だけはとやらせてもらっている。

 そんな時、店のドアが開いた。そこには竜が立っている。

 竜もまたしばらく姿を見せていなかったため、マリアはすぐにお辞儀をした。

「もう動いて大丈夫なのか?」

 一言目に、竜がそう言った。

「はい。でもまだ掃除くらいしかやらせてもらえませんが」

「無理するなよ。ここにいるから安心だと思っているんだから……」

「大丈夫です。激しく動かなければ痛みもないですし」

「まったく君ときたら……」

「……すみません。ご心配かけて」

 無茶なマリアに竜は半ば呆れ顔だが、マリアらしいとも思う。

「本当だよ。でも、ちょっといい?」

「はい、どうぞ。もう終わるところでしたし」

 店の椅子に座った竜の前に、マリアも座る。

 竜はマリアを見て言い出しにくそうにしながらも、やがて口を開いた。

「真紀が来た?」

「はい、さっき……」

「そう。本当に今まですまなかった。真紀がしたことを許せとは言わない。あいつを煽ったのは親父たちのせいもあるけど、俺が追い込んだせいでもある。君は望まないかもしれないが、俺はこれからも君に償いたいし、君の助けになりたいとも思ってる」

 真剣な眼差しの竜に、マリアは困惑する。

「……奥様も謝ってくださいました。でも私には、それですらも恐縮です。許すも許さないも、私には最初から憎む気持ちなどないのですから。だからこれからも、どうか謝らないでください。償いなどいりません」

「でもマリア。君に罪があったとしても、それはもう許されたことだ。これからは幸せになるんだ。きっと亮が迎えに来る。昇と一緒に幸せになるんだ」

 それを聞いて、マリアは目を泳がせた。

 亮と結ばれることは長年の夢だが、それが叶えられるとは毛頭思わない。

「……駄目です。私は……」

 震えるようにマリアが言った。

「どうして……もうなんの妨げもないだろう? 最高指揮官の妻が重いなら、あいつは辞めることだって考えるぞ」

「そんなことは望んでいません。私は、昇が父親のもとで幸せになれればそれでいいんです。私と一緒では、それは難しくなります」

「どうして? 言っていることがわからない。君の息子だ。子供は母親と切れない関係なんだよ」

 マリアの目に、苦しい過去が浮かぶ。

「……私は、もはや人間ではありません」

「え?」

「罪が洗い流されたと言っても、私に残った罪は消えない……私は亮にも昇にも、とても顔向け出来ません」

 竜の脳裏にもマリアの過去が浮かんだ。マリアになされてきた数々の罰という名の虐待は、マリアにとって生き恥を晒すのと同じものであるのだろう。何もかもを忘れて、亮や昇と笑い合えないというのか。

 それを知って、竜はマリアを抱きしめる。

「許してくれ……君を救えなかったこと」

「違います! あなたは何も悪くないです」

「では誰が悪い? 真紀も今は喜んで君に憎まれるだろう。他に誰を憎めば、君は救われる?」

「……憎むだなんて」

 竜はマリアから離れると、マリアの顔に触れた。

「誰かを愛してでも、憎んででもいい。誰の幸せを願うためでなく、マリアが幸せになるために生きてほしい」

 真剣な竜の目は、もはや逸らすことなど出来ない。竜は言葉を続ける。

「過去が消せないのはわかってる。だが、亮は君の傷ごと受け止めてくれるはずだ。自分の気持ちに素直になって、亮と幸せになれ」

 命令のような絶対的な言葉に、マリアは暗示でもかけられるようだった。だがマリアの中で、葛藤が続いている。

「でも……」

「マリア。俺は今でも、君のことを愛してる。でも君を幸せに出来るのは俺じゃない。そうだろう?」

 そう聞かれて、マリアは何も言えなかった。竜も答えは求めずにそのまま言葉を続ける。

「俺は真紀と一緒に日本に帰ろうと思う。今はみんながみんな、自分を責め続けているだろう。俺もそうだ。俺が真紀と別れなければ、君は亮ととっくの昔に結ばれていたかもしれない。そう考えると、俺も俺を呪う」

「竜様……」

「君がどんな答えを出しても、俺は君を愛しているし、これからも君を助けると誓うよ。でも真紀のことも心配なんだ。もともと子供たちは俺の子だし、日本で心機一転、頑張ろうと思っている。だけど君が幸せにならなければ、俺はここから動くことも出来ないだろう。だから俺のためにも、君には幸せになってもらいたい。もちろん俺は、俺も真紀も子供たちも幸せにすると誓う」

 竜はマリアが逃げられないように、そんな言葉続けた。人のためにしか生きられないネスパ人のように、竜は自分の幸せのために、マリアに幸せになれと迫る。

「はい……私も考えます。私自身の幸せを願えるように、あなた様に心残りが出来ないように、きちんと未来のことを……」

「ああ。もう大丈夫だ。自分の幸せを考えるんだ。そうすれば、みんなも幸せになる」

「……はい」

 マリアに希望の光が灯ったことを確認するように、竜は優しく微笑み、そして立ち上がった。

「帰るよ。君もしばらくは、ちゃんと安静にしてなきゃ駄目だ」

「はい」

「じゃあ、また。元気でな」

「はい。ありがとうございました。本当に、今まで……」

 最後の別れのように、二人はそう言い合った。

 竜は頷くとマリアに背を向け、そして立ち止まる。

「俺も礼を言うよ。人のための幸せを考えるなんて、君に会うまで知らなかった。絶対に幸せになれよ」

 そう言って、竜は去っていった。

「竜様も、どうかお幸せに……」

 祈るようにそう言って、マリアは別れに涙していた。


 しかしそれから何日経っても、亮がマリアを訪ねてくることはなかった。

 その間、マリアはいろいろなことを考えた。織田家のこと、昇の将来のこと、自分の幸せのこと。それでも答えは出なかったが、これからどんなことがあろうと生き抜くことを胸に誓う。竜や真紀の後押しを受けて――。


 それから一ヶ月が過ぎた。亮からはまだ連絡はないが、マリアの答えは出始めていた。

「ここを出る?」

 マリアの言葉を聞いて、コブとアルが驚きに声を上げる。しかし前から悟っていたことでもあった。

「ええ。もう怪我も良くなったし、心機一転、一人で始めたいの。大丈夫。ちゃんと連絡するし、前みたいに無茶な生活もしなくていいんだもの」

「でも、何処へ行くのかあてはあるのか?」

「まだ決めてないけれど、東側に戻るつもり。やっぱりあちらのほうが思い出深いの。クリスもいるし……」

 西側に住むアルたちのもとを離れ、マリアは元々いた東側に戻るという。特に東西で分かれている街ではないが、今までとは違って会いづらくなるのも事実だろう。

「……最高指揮官から連絡はないの? 竜様とか」

 アルの言葉に、マリアは首を振った。

「竜様はたぶん、もう私にお会いにはならないと思うわ。すでに日本に帰ったかもしれないし……」

「そんな。じゃあマリアの味方は? まだ何があるかわからないじゃないか」

「味方ならいるわ。アルやマスターもそう、クリスもそう。それに私は竜様に誓ったわ。幸せになるって」

「でも……」

「お願いだから、そんなに心配しないで。私はアルよりも年上よ。もうお金の問題もないし、一人でやっていけるわ」

 アルとコブは互いを見つめた。まっすぐにそう言ったマリアを止める手段はない。なにより未来へ向かって羽ばたこうとするマリアを、止める気にはなれなかった。


 そして次の日、早くもマリアはコブの店を後にする。行くあてなどないが、一人で一から頑張りたいと思った。

 遠のくマリアの背中は、アルやコブの目に、どこか清々しく輝いて見えた。


 ハピネスタウンは小高い丘を中心として、東西に分かれている。小高い丘の上には、最高指揮官の大きく立派な屋敷があり、その隣には中央収容所と刑務所が隣接している。マリアにとっては、どちらも思い出深い場所だ。

 最高指揮官邸の正門を通りかかると、信じられない光景が飛び込んできた。

 もはやそこに門はなく、たくさんのネスパ人が列をなしている。

「あの……」

 どうやら屋敷に入る順番待ちをしている列のネスパ人女性に、マリアが声をかける。

「なんだい?」

「この列は何ですか? 何かあったのですか?」

「あら、あんた知らないの? まあ無理もない……昨日から仮の受付だからね。最高指揮官が、この屋敷をネスパ人用の共同住宅にするとおっしゃったんだよ。家のない人間が優先でね。さすが最高指揮官だね。あんたも家なしなら並ぶといいよ。まあこの様子じゃ、明日までかかるかもしれないけどね」

「……じゃあ最高指揮官様は、これから何処に?」

「さあ。そこまでは知らないね」

「そうですか……ありがとうございました」

 礼を言って、マリアは長く続くネスパ人の列を横目に、東側の街へと向かっていった。街に大した変化はなく、どこをとっても思い出深い。

 あてもなく出てきたものの、マリアの思いは二転三転して定まらない。このまままた誰にも行方を知られずに生きるのも悪くないと思う時もあれば、きちんと亮と話をして、もう一度昇に会いたいという気持ちもある。

 ふらふらと歩きながら、マリアは広場のベンチに腰を下ろした。

 目の前には、昇と同じ年くらいの少年たちが遊んでいる。

(幾度の困難がありながらも、私は生かされてきた。みんなが私に愛をくれた。私はこれからどうすればいいの? 私も意地を張っているだけなのだろうか。でも私は私が許せない。この汚れきった魂で、どんな顔をして亮や昇に会えるというの? それともまた、こんな考えは間違いなのだろうか……)

 子供たちは明るい笑顔で、マリアの前を走り回る。

『マリア、幸せになれ。亮は君の傷ごと受け止めてくれるはずだ。自分の気持ちに素直になって、亮と幸せになれ。自分の幸せを考えるんだ。そうすれば、みんなも幸せになる』

 そんな竜の言葉を思い出し、やがてマリアは顔を上げた。

(どんなに惨めでもいい。自惚れでもいい。私には手があり足があり、声だって出る。彼に会いに行ける。話が出来る)

 意を決したようにマリアは立ち上がり、そのまま歩き出した。


 マリアはそのまま役人所へと向かった。ハピネスタウンにいる限り、亮がいる場所はここしかない。

「約束がない限り、お取次ぎ出来ません」

 案の定、受付の答えはそうだった。

 当たり前だと思い、マリアは外で待とうと振り向いた。

「マリア……」

 するとそこには、亮がいる。

 あまりに突然のことで、マリアも亮も言葉を失った。

「マリア。どうしてここへ……僕を訪ねてくれたのかい?」

 亮は驚きながらも、心配そうにマリアを見つめる。その言葉だけで、亮の優しさが伝わってくる気がした。

「はい。あの……話がしたかったんです」

「怪我は……もう大丈夫なのか? しばらく安静にと聞いていたんだが……」

「大丈夫です。もうすっかり……」

 その時、亮は世話役と見られる役人に肩を叩かれた。

「最高指揮官。あまりお時間が……」

「少し遅れるだけだ。すぐに行く」

 亮の言葉に役人は去っていった。それと同時に、亮はマリアの肩を抱く。

「とにかく奥へ……ここじゃ話しも出来ない」

「あの……すみません。急ぎの話ではないのです。また後で伺います」

「気にしなくていいんだよ。今日は重役たちと打ち合わせがあるだけだから」

 そう言うと、亮はマリアを連れて、亮専用の応接室へと入っていった。

「話というのは、これからのことだね?」

 応接室に入るなり、亮がそう尋ねる。マリアは頷いた。

「はい。すみません……このまま何も言わず、一人で生きて行こうとも思いました。でも周りの後押しもあって、話だけはきちんとしておかないとと思い直して……」

 マリアの目に、いつも待ち焦がれていた優しい顔が映る。

「ごめん。迎えに行けなくて……」

 静かに亮が言った。

「え?」

「よく来てくれたね。こっちも準備は大体整っている」

「準備……?」

 意味が分からず、マリアは首を傾げる。

「すべてが片付いたら迎えに行こうと思っていたんだが、またすれ違いにならなくてよかった。君はまだまだ療養するはずだと思っていたし、こっちもバタバタしていて……すまなかった」

 そう言うと突然、亮はマリアの手を取った。

「昨日、兄貴と真紀が日本に帰った。僕は最高指揮官邸を、貧しいネスパ人たちに開放しようと思ってる」

「はい……それは来る時に見ました。旦那様らしい、立派なことだと思います」

「いいや。もともと僕たちだけじゃ広過ぎるんだ、あの家は。今は小さいけど、役人所の近くに家を借りた。家政婦が二人だけの、僕にとっては今までとまるで違う生活だ。でも僕たち三人で住むには十分広いと思うよ。マリア、一緒に暮らそう」

 待ちに待った言葉に、マリアの目が潤む。夢ではないかと思った。

「そんな夢みたいなこと……」

「夢じゃないよ。いや、僕もずっと夢見てきたことだ」

「でも私、あなたに顔向け出来ないほどの罪が……」

 亮の手がマリアの頬に触れる。そしてしっかりとマリアを抱きしめた。

「過去は重要じゃないよ、マリア。君になんの罪があるというの? あるとすれば僕も同じだ。僕は君を何度も裏切ってきた。でも、そんな僕でも許してくれるなら、これからの人生、一緒に歩んでいこう。辛いことは一緒に背負っていけばいいんだ。僕が必ず支えるよ。だから安心しておいで」

 マリアもそれに応じ、亮の背中に手を回す。涙が溢れ出してくる。

「亮……」

「ああ……ずいぶん遠回りをしたね、僕たち。でももう一緒だ。昇と三人で生きて行こう。ね? マリア」

「……はい」

 喜びの涙が頬を伝う。抱えていた不安など一気に吹き飛んだ、そんな感じである。

 その日、マリアは亮とともに、新しい小さな家へ向かった。

「ママ!」

 昇の笑顔が、眩しいくらいに輝く。

「昇……」

(ああ、これが、みんなが私に願ってくれた、幸せというものなのですね……)

 幸せを噛みしめながら、マリアは昇をしっかりと抱きしめる。

 辛く悲しい過去も、明るい未来が照らしていく。揺るぎない愛に包まれながら――。

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