3-29 最終決断
※暴力描写がございます。苦手な方はご注意ください。
「ご主人様。また例の男性が来ています。最高指揮官も一緒です」
富糸ヶ崎の屋敷でダンが言った。
門の向こうでは、亮と竜が返事を待っている。竜は何度か来ているが、ダンに門前払いをくらっていた。だが今日は最高指揮官である亮もいるため、ダンも無下には出来ない。
未だ食堂で話し合いという名の言葉責めを受けていたマリアは、静かに顔を上げた。
「少し待たせておけ。やれやれ困った連中だ。これじゃあ真紀さんが君に嫉妬するのも無理はない。さて君はどうするね? ここから出たいと彼らに泣きつくかね?」
そう尋ねられ、マリアは言葉を失った。
もしそう出来れば簡単だ。ここにいることはあまりにも苦痛になっている。しかしここから逃げ出せば、富糸ヶ崎と真紀の顔を潰すことになる。そうなれば前より状況は最悪だ。自分だけ一時的に助かっても、今度は昇の身まで危うくなるかもしれない。亮や竜の立場も悪くなるだけだ。竜やアルを無理に振り切ってまでここへ来たため、今更どうしようも出来ない。
「……いいえ」
答えを出したマリアに、富糸ヶ崎は満面の笑みを浮かべる。
「いい心がけだ。自分の立場をよくわかっているね」
「ただ……お願いがあります。結婚をなかったことにしてください……」
マリアの言葉に、富糸ヶ崎とダンは目を丸くして驚いた。
「なんだって?」
「すみません。お願いします……」
恐怖に身をすくめながらも、マリアは深々と頭を下げる。
このまま外へ逃げ出すよりも、婚約破棄で契約を無効にしたほうがいいと思ったのである。そうすれば自分一人が消えるだけで、昇のことは亮が守ってくれるはずだ。そう信じたい。
「何を言っているのかわかってるのかね? 真紀さんからも契約内容を聞いているはずだ。私と婚約破棄すれば、行き場はないと」
「わかっています。あなた様の顔を潰すのは申し訳がありません。ただ、もう私には希望もありません。どうか解放してください」
「ここにいるより、死刑台のほうがいいというのかね」
「……はい。もう私に生きる意味はありません」
きっぱりとマリアはそう言った。それほどまでに、ここでの生活には未来がない。また闇が見せた心は、自分の存在をすべて否定する。原点に返ったように、マリアは自分の存在が不幸の根源だったということに辿りついてしまったのだ。
富糸ヶ崎は口を結び、マリアを見下ろす。やがて口を開いた。
「……わかった。じゃあとりあえず、彼らの対応は君に任せようか」
「え?」
「彼らを追い返してくれ。君も彼らに心配をかけたくないだろう? ダン、彼女に受話器を渡せ」
「……わかりました」
決意を固めて立ち上がると、マリアはダンから門に繋がるインターフォンの受話器を受け取った。目の前の小さなモニターには、門の向こうにいる亮と竜の姿が映し出されている。
その姿にマリアは懐かしそうに微笑み、深呼吸をして口を開く。
「お待たせしました……」
「……マリア? マリアなのか?」
亮の声が聞こえる。
マリアは感無量で涙目になった。きっとこれが最後の会話だと、マリアはわかっている。
しかしここで亮たちを追い返さねばならない。マリアは気持ちを切り替えるように、息を吸い直す。
「はい」
「大丈夫なのか? 何かあったら今すぐ言ってくれ」
今度は竜の声が聞こえる。
向こうからこちらの様子は見えるはずもないが、マリアにはモニターに映し出された二人が見えている。必死な様子で自分を心配してくれる二人に、もう甘えるわけにはいかなかった。
「大丈夫です」
「本当か。脅されてるんじゃないのか? 大丈夫なら顔を見せてくれ!」
カメラにかじりつくように、竜がそう怒鳴る。
「……本当に大丈夫です。富糸ヶ崎様はとてもお優しい方です。私は幸せです。だから過去のことは忘れたい……忘れさせてください。もう、ここへは来ないでください。過去のことは何もかもを忘れたいんです……」
マリアの言葉に、亮と竜は言葉を失った。
「……信じていいのか? 僕たちは、もう君と……」
モニター越しに、そう言った亮の目が合う。マリアはモニターの亮に触れた。
「信じてください……私は一から新しい人生を送ります。もう織田家の方々とは関係がありません。これ以上ここへ来られても、迷惑です……」
念を押すようなマリアに、それ以上立ち入ることは言えなくなる。
「わかった。幸せになるんだ、マリア。君の幸せを願ってる……昇のことは心配いらないから」
「何かあったら、すぐに連絡するんだ。いつか君の元気な姿をこの目で見るまで、俺は君を想ってる」
亮と竜はそう言い残し、静かに去っていった。
去っていく二人を見送って、マリアはその場に座り込み、泣き崩れた。
「感動のラストシーンだったな。ダン、彼女を部屋に戻せ」
命令されると同時に、ダンはマリアの腕を掴む。
「待ってください。さっきのお話は……」
「君を手放すのはもったいないよ。もうしばらくあの部屋で頭を冷やしてもらおうか。考えも変わるかもしれない」
「やめてください! もう……殺してください」
あの闇に引き戻されるのは嫌だった。だがいくら泣き叫んでも、マリアには抵抗する力も残っていない。
「お願いです。もう……死んだほうが……」
「うるさいぞ。こんなところで死にたいのか?」
ダンの平手がマリアの頬を叩いた。意識を失うように、マリアは地下室へと倒れ込む。もはや鍵もかけられ、また闇に戻されてしまった。
「昇……」
無意識にそう呼んだマリアは、ハッとする。
(駄目だ。誰の名前も呼んだらいけない……もう旦那様たちと会うことはないでしょう。あの方たちにとって私は死んだも同じ……だったら私がここで耐えることはない。この闇の中で一生を過ごすなら、昇に会える希望もない。もう生きている理由はない……)
マリアは天井を見上げた。闇の中では、目が慣れても何も見えない。
(お許しください、神様……たとえ地獄に落ちても、今の私にはそれ以上の絶望しかありません。お父さん、お母さん、先に死んだ家族たち……一人生き残ったけれど、この命をまっとうすることは出来ませんでした。ごめんなさい。昇……竜様、アル、クリス、マスター、ドクター、私を支えてくれた数え切れないみんな。そして奥様……亮……ごめんなさい。私が死んでも、どうか昇を守ってください。それが唯一のお願いです。どうか――)
思うと同時に、マリアは自分の舌を噛んだ。
「こいつ……!」
一分もしないうちに、ダンが駆け込んできた。その行動に、暗視カメラでも仕掛けてあったのだとわかる。
マリアは朦朧とする意識の中で、絶望の闇に取り込まれていった。
「本当、だろうか……」
馬車の中で、亮が竜に言った。マリア自身から拒否された以上、強引にマリアの結婚を反対するわけにもいかない。ただ顔を見られれば少しは安心出来たはずだが、それが叶わなかった今、マリアの言葉を鵜呑みにも出来ずに立ち往生している。
「さあ……だけど、ああなったマリアを止めることは出来ないよ」
竜の言葉に、亮は押し黙った。
亮とマリアは過去に愛し合っていたが、それはロミオとジュリエットのように数日間で燃え上がった恋だった。引き裂かれた後は、互いに意識していても話す機会もそうはない。逆に今では竜のほうがマリアのことに詳しいという事実に、亮は複雑な思いを抱かずにはいられない。
亮の思いを察して、竜は続けて口を開く。
「女はみんなそうだ。誰にも曲げることの出来ない情熱を持ってる」
「……うん」
「とにかく本人に断れた以上、俺たちは信じることしか出来ない。俺はもう少し探ってみるが、おまえはもう動くな。おまえが動けば事が大きくなる」
「わかってる。最初から、僕に出来ることは何もない……」
少し皮肉に亮が言った。
竜はただ外を見つめ、マリアの無事を願っていた。
気を失ったマリアは、息苦しさに目を覚ました。
そこは地下室と同じような不気味さがあるが、壁には小さな窓があり、天井には薄暗い電球が光っている。それだけでも心が救われる気がする。
富糸ヶ崎の地下室ではないことを悟り、マリアは周りを見回した。
「起きたか?」
男の声が聞こえ、マリアは身体を硬直させた。横になった身体を起こすと、役人の制服を着た日本人がいる。
「状況が把握出来ていないようだな。ここは刑務所の医療棟だ」
それを聞いて、マリアは目を泳がせる。どうやら気を失っている間に運ばれたようだ。この先に待つものはひとつしかないと、マリアは悟った。
「その顔は全部わかっているようだな。おまえは死刑囚だ」
「……はい」
最終宣告をされたように、マリアは静かに返事をした。そしてただ床を見つめる。
「指揮官に連絡する。詳しいことは直接お聞きしろ」
それからしばらくして、真紀が現れた。
「……せっかく縁を切れたと思ったのに、また会う羽目になるとはね」
相変わらずの皮肉たっぷりで、真紀が言った。マリアはすまなそうに頭を下げる。
「申し訳ありません……」
「まあいいわ。富糸ヶ崎氏から連絡が来てね。あなたがどうしても死にたがってるって……まだ結婚前なのに富糸ヶ崎氏の屋敷で死なれたら、さすがにあの方の立場も危ういでしょうからね。契約は破棄されたわ。あなた、結婚しなかった時の契約を覚えていて?」
「はい……処刑されると」
思いの外、マリアは冷静だった。その様子に、真紀は首を傾げる。
「富糸ヶ崎氏の屋敷は、余程のことが行われているようね。その顔じゃ、死んだほうがましだって顔だけど」
「……死ぬよりは、死んだように生きたほうがまだましだと思っていました。いつか昇に会えることもあるかもしれない。それが私の希望でした」
「意外としたたかなのね。たとえ希望でも、そんな希望は抱いてほしくないわ」
「はい……富糸ヶ崎様のところへいても、それはまったく叶わぬことだと知りました。それどころか、あるものは闇だけ……その先に昇と会えると言われても、誰が信じて耐えられましょう。気まぐれで閉じ込められ、人と話すことも許されないなら、死んだものと同じです。私は心の闇の奥底を知りました。今あるものは絶望だけです。どうぞ殺してください。死は恐れません」
すべての覚悟を決めた様子のマリアに、真紀は溜息をついた。張り合いを失くしたようでもある。
「……あなたが望むなら話が早いわ。どのみちあなたは罪を犯しすぎた……あなたは死刑囚です」
「はい……」
「今、公開処刑を考えています」
真紀の言葉に、マリアは顔を上げた。死ぬことが怖くないといっても、不特定多数に罵られながら執行される、公開処刑など耐え難い。
「え……」
「最近、犯罪が多発しているの。公開処刑は十数年前に廃止されたけど、禁止されたわけじゃないわ。あなたははたから見れば凶悪犯ですから、見せしめに一度、復活させてもいいと思ってるの」
それを聞いて、マリアは言葉を失った。
たった一人で死ぬものと思っていた。それが人前で、しかも同じ人種のネスパ人にまで蔑まれて処刑されねばならないのか。そこまで重大な罪を犯していたというのか。
自分の人生が何だったのかを問いながら、マリアは今も尚ある心の闇と闘っていた。
「もちろん最高指揮官である亮の許可ももらわなきゃいけないけれど、近いうちにでも通してもらうよう手配しておくから、心の準備をしておいてちょうだい。何か質問はある?」
「……いいえ」
「そう。じゃあ、しばらくここで静養がてら自分と向き合っていなさい。ここは刑務所の病院だから、ゆっくり出来るでしょ」
そう言って、真紀は去っていった。
一人になったマリアは、板のようなベッドに寝そべり、目を瞑る。
噛んだはずの舌が痛むものの、治療されたらしく、苦い薬の味が口全体に広がっている。
(亮は公開処刑の許可を下すだろうか……どちらにしても、私ももう本当に終わりだわ……)
途端、マリアの意識がぼうっとしてきた。もう何を考える余裕も、抵抗する体力すら残っていない。ただ死んだように眠ったまま、その日を迎えるに違いなかった。




