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【処女作】 ハピネスタウン物語  作者: あいる華音
第三章 「悪夢 -syo-」
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3-26 昇の写真

「もう行ってしまったのか!」

 コブの店では、駆けつけた竜が落胆の色を見せていた。何もしてやれることはないと悟ったものの、もう一度話しておきたかったのである。

「はい。今朝早くに……」

 そう言いながら、アルは目を伏せる。コブは仕入れに出掛けていて、ここには竜とアルの二人しかいない。

「……彼女の様子は?」

「笑っていました。ありがとうと……どうかお元気でと、あなたにそう伝えてくれって」

「……」

「マリアの決意が揺らぐことはありませんでした。俺も親父さんも、何も言えなかった……」

 複雑な表情をしているアルの肩を、竜が静かに叩く。

「富糸ヶ崎氏の状況を探ってみるよ」

「お願いします……俺もそろそろ仕事に出かけなければいけないので、もう行きます」

「ああ、呼び止めてすまなかった。いろいろありがとう……」

「いえ。ただ……」

 重い口を開き、アルは竜を見つめた。

「ただ、もう状況は何も変わらないかもしれません。彼女は望んで彼女の道を進んでいるのです。それが俺たちにとって間違っているかもしれなくても。そんな人間の運命を、俺たちが変えることは出来ません。それは余計なおせっかいですから」

 開き直ったようにアルがそう言った。だがそれは事実を言ったまでだ。

 改めて思い知らされたように、竜も頷く。

「わかってる……でも俺は俺のエゴでも、しばらく彼女を追い続ける。結果、彼女にとって救いにはならなくても、苦しみがわかれば手を差し伸べられるかもしれない。逆に幸せになれたことがわかればそれでいい」

 竜に共感し、アルも静かに頷いた。


 富糸ヶ崎の屋敷では、食事が運び込まれていた。その時だけは数人の使用人が現れ、無言のまま料理を運んでいる。

 マリアと富糸ヶ崎は大きなテーブルに向かい合う形で座り、食事を始めた。

「食事は口に合うかね?」

「はい……」

 富糸ヶ崎に問われ、マリアは肯定の返事をする。自然に振舞おうとしても、緊張と不安で機械的になってしまう。

 だが富糸ヶ崎は満足げに言葉を続けた。

「それはよかった。これからしばらくは、テーブルマナーなども学んでもらうよ。私は接待を受けることが多いからね。君にも妻として私に相応しい女性になってもらわないと困る」

「はい……」

「もちろん織田家の人間との食事もあるだろうしね。ロイヤルファミリーとご対面だ」

 その言葉に、マリアは目を丸くした。

「織田家の方って……」

「最高指揮官を含め、子供たちまでだよ」

「……待ってください。私は最高指揮官やお子さんたちに会うことを禁じられています」

 マリアが言った。

 事実、マリアが亮と昇に会うことは正式に禁じられている。なにより自分が別の男性と結婚した姿を亮に見られたくないと思った。昇に対しては申し訳なくも思う。

 しかし富糸ヶ崎は不敵な笑みを浮かべた。

「そうだったか……まあプライベートに関しては、ここでは最高指揮官よりも私の権威のが勝っている。亮君の父親とは古くからの知り合いだしね」

「でも……」

「私に口答えするつもりか?」

 突然、富糸ヶ崎の態度が一変した。蛇のように冷たく恐ろしい目で、マリアを睨みつける。

「いえ……」

「先に言っておこう。私はこう見えて短気だし、妻や女といえど容赦はしない。その意味がわかるかね?」

「……いいえ」

「そうか。わからないなら教えてあげようか」

 富糸ヶ崎はそう言うとおもむろに立ち上がり、マリアへと近付いていく。

 マリアは恐怖におののき、思わず立ち上がった。

 そんなマリアを尻目に、富糸ヶ崎は壁につけられた電話の受話器を取る。

「食事が終った。皿を下げてくれ」

 その言葉に安心し、マリアは椅子に座り直した。

 不敵に微笑みながら、富糸ヶ崎はマリアの前へと座る。

「いつからだろうか、私が人間を虫けらにしか見られなくなったのは……」

 ぼそりと呟くように、富糸ヶ崎がそう言った。マリアは驚きと恐怖に包まれる。

「人の痛みがわかるどころか、楽しむことのほうが好きになってしまった。しかし私も学習能力がないわけではない。今まで妻という人間を何度も死に追いやっていたからね。しょっぱなから君をどうこうするつもりはないが……口答えはしないほうが身のためだよ」

「……はい」

「さて、今日からここに住むわけだが、持参した物を見せてもらおうか」

 そう促され、マリアは首を振った。

「すみません……私には何もありません。着のみ着のまま来ただけです」

「何も? 君には大切な物すらないのか」

 富糸ヶ崎の言葉に、マリアはズボンのポケットを探った。

 唯一、肌身離さず持っているのは、一年前に竜からもらった昇の写真である。真紀に一度破られてボロボロになっているが、アルが貼り合わせて復元してくれたおかげで、その形は辛うじて留めている。

「大切な物は、この写真一枚です」

「息子さんかね? なるほど可愛い息子だが、悪いがここへ来たからにはすべてを断ち切ってもらいたい」

「わかっています。でも、この写真だけは……」

 マリアがそう言いかけた次の瞬間、富糸ヶ崎は写真を暖炉へと投げ込んでいた。

「!」

 声にならない声を上げ、思うより先にマリアの身体は動いていた。何も考えずに、素手のまま火のついた暖炉へ手を伸ばす。

 だが写真は一瞬のうちに焼けてしまい、昇の頭から先が辛うじて見られるだけとなっている。

「なんて危険な真似を……綺麗な手が火傷だらけだ」

「どうして……どうしてこんなひどいことを……」

 暖炉のそばに座り込み、うなだれるようにしてマリアが言った。

 たったひとつの目に見える支えだった写真を失い、マリアは落胆していた。同時に、富糸ヶ崎を憎くも思えてくる。

 その時、食堂のドアが開き、使用人らしき男が一人入ってきた。男はネスパ人で、体格の良い青年である。青年はマリアをじっと見つめると、不気味に微笑んだ。

 マリアには最初、その青年が誰だかわからなかった。だがすぐに忘れたくても忘れられない記憶が蘇り、マリアは体を硬直させる。

「ダン、すぐに氷を。彼女の手を冷やしてやってくれ」

「かしこまりました」

 ダンと呼ばれたネスパ人の青年はすぐに出直し、氷水の入った容器を持ってマリアへと近付く。

 マリアは床に座り込み、硬直したまま青年から目を逸らせずにいた。

「さあ、氷を」

 そう言う青年の手を振り切り、マリアは後ずさりする。

「どうしたんだね? 早くしないと火傷がひどいことになる。それに、その写真は諦めて燃やしてしまいなさい」

 富糸ヶ崎が言った。だがマリアは写真を握り締めたまま、悲しげに二人を見つめる。

「多くは望みません。ですが写真だけは、どうかお許しください……」

「駄目だ」

 懇願するように申し出たマリアに、富糸ヶ崎は許す余地も与えない。

 しかしマリアは食い下がるように、深々と頭を下げた。

「お願いします! 他には何もいりません。だからどうか……」

「……そんな顔まで燃えてしまった写真がそんなに大切かね? そんなに過去は捨てられないか」

「どうか、お願いします……」

「まあいい。とにかく手を冷やしなさい」

 やっと許しを得て、マリアは写真をポケットに戻すと、用意された氷水に手を入れた。

「彼のことは覚えているかね?」

 やがて富糸ヶ崎が、使用人の男を指差してそう尋ねた。マリアは顔を上げ、静かに富糸ヶ崎を見つめる。

「……いいえ」

「そうか。では紹介しよう。彼は私の使用人の一人で、ダンという男だ。この屋敷では、彼が主に下で動いてくれる。何かあったら彼に言うといい。まあ私同様に短気な男だが、そのあたりは君のほうがよく知っているんじゃないのかね? 一年前の牢獄で、毎晩のように会っていたそうだが……」

「やめてください!」

 思わずマリアが叫んだ。

 ダンという男は、一年前にマリアが入れられていた独房で、真紀の命令によって解き放たれた囚人だった。時には意識がなくなるまで殴られ続け、暴行された悪夢の日々だ。今となっては何人いたのかはわからない。しかしダンはリーダー格の男で、マリアにとって最も恐ろしい男だった。

「ご主人様に歯向うとは何事だ!」

 突然、ダンの容赦ない平手がマリアに飛んだ。マリアは吹き飛ばされるように倒れ込む。

「ダン、まだ初日だ。手加減してやれ。しかし、こんなに反抗的な娘だとは思わなかったな。早いがそろそろ部屋に案内しようか」

 命令した富糸ヶ崎にダンはお辞儀をすると、おもむろにマリアの腕を掴んだ。

「は、離してください!」

 過去の思い出が蘇ると同時に、マリアの脳裏には危険信号が感じられていた。すぐにでも逃げ出さなければ、殺されてしまうかもしれないほどの威圧感と危機感が感じられる。

 しかしマリアはいとも簡単にねじ伏せられると、ダンに引きずられるように食堂から出させられた。

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