3-25 戻れない
「待ってください!」
コブの店から出るなり、竜を呼び止めたのはアルだった。
「……すまない。解決どころか、マリアを絶望させることしか出来なかった」
暗い表情を見せる竜に、アルは眉をしかめる。
「あなたとマリアのことはいいです。でも時間がない。明日には、マリアは連れて行かれるんだ。すぐに結婚させられるのかもしれない」
「時間がないことはわかってる。でも少し時間をくれ。俺は今まで突っ走って、どれだけの不幸を撒き散らしていたかわからない。もう二の舞にはさせたくない。それに君もわかっているだろう? マリアは意志の強い子だ。何を言っても曲げはしない。役に立てなくてすまないと思ってる」
「このまま諦めるんですか? あなたなら、どうにかしてくれると思ったのに……」
「俺だって、力ずくでもどうにかしたい……だけど嘘でもなんでも、結婚はマリア自身が望んでいることだ。これ以上、我々に何がしてやれる?」
竜の言葉に、アルは俯いた。
「でも……」
「マリアが決めたことだ。マリアが……」
そう言って、竜は無念に肩を落とす。
自分が孤独になることが一番良い方法だということを、マリアはわかっている。それを悟って、竜はもう何も言えなかった。自分が諸悪の根源だということを知り、身動きが取れなくなったのもまた事実である。
アルもまた、思う以上に頑なであるマリアの決意に、何の手立ても見つけられなかった。
一人になったマリアは、人知れず涙を流した。
竜の助けを無にして頑なに拒んだこと、アルやコブに返し切れない恩、自分の不甲斐無さに嫌気が差す。
また、力と真世が亮の子供でなく、竜の子供だったという事実に、少なからずの衝撃を覚えた。最初から知っていれば、自分と亮の間に何か別の道があったのではと思わずにはいられない。
しかし逆らえなかった運命。これからも逆らうことはないであろう運命に、マリアはすべてを諦めようとしている。心に穴が空いたように、絶望感がマリアを包んだ。
家へ戻った竜は、真紀を部屋へと呼び出した。
「こんな夜中に呼び出すなんて、何の用? あの子のことなら聞かないわよ」
変わらぬ態度で真紀が言う。
「……俺とやり直さないか?」
竜の突然の言葉に、真紀は驚いた。
「え?」
「亮と別れろよ。力と真世は俺の子供なんだろ? 俺が面倒見るのは当然だ」
そう言った竜に対して、真紀は大きく笑った。
「本気で言ってるの? 私がそれを告白したのは、あなたと寄りを戻したいからじゃないわ。誰があなたみたいな二流役人なんかと……」
「亮が離婚すると言ったら?」
「……出来るわけないわ。お義父様だって反対するだろうし、彼は子供好きだもの。実の子供じゃないからといって、力と真世から離れられるとは思わないわ」
真紀の言葉はもっともだった。竜もそう思うが、説得するように口を開く。
「真紀……もう終わりにしないか」
静かにそう言った竜を、真紀はまっすぐに見つめる。
「何が言いたいの?」
「もういいだろう。マリアを解放してくれ。亮を取られ、昇を取られ、死ぬより辛い目に遭わされてきたあの子に、もうこれ以上の地獄はいらないはずだ。もし聞き入れないのなら、親父に話す。俺はどんな覚悟もしてる」
「あれだけ嫌っていたお義父様に泣きつくつもり? 都合のいい時だけすがっても、お義父様が聞くはずないわ」
「なんと思われてもいい。これ以上、あの子の人生を狂わすのはやめろ」
そう言った竜の目は虚ろに鈍く光り、いつになく熱を失っていた。ただ悲しそうに、真紀を見つめている。
「あなたのそんな悲しそうな顔、そうそう見られないわね。でも怒鳴りも泣き落としも、私には効かないわ。それに、今回は富糸ヶ崎氏という大物が噛んでいるの。お義父様クラスの口利き者がいても、もう後戻りは出来ないわ」
「……」
「安心してよ。もうあの子に手は出さないから。ううん、もう私も手を出せないわ。案外あの子なら、富糸ヶ崎氏のところでもうまくやるんじゃないかしら? 生まれついての悪女みたいだから」
竜は目を伏せると、静かに口を開く。
「俺に出来ることは、本当にもうないのか?」
「ないわ」
きっぱりと真紀が答えた。
「富糸ヶ崎氏と直接交渉することは……」
「可能でしょうけど、説得はむりでしょうね。それに、あの子があなたに泣きつきでもしたの?」
「……いや」
「だったらあなたが出しゃばることじゃないじゃない。今回だけじゃないわ。昔からあなたは私の邪魔ばっかり。あの子が望みもしてないことに首を突っ込むなら、それはあなたのエゴじゃない」
痛いところを突かれたように、竜は一瞬押し黙った。
「そうだな……でも、あの子が声を上げられない状況にしているのはおまえだ。俺は自分のエゴでもなんでも、あの子を助けたいと思った。それがあの子にとって迷惑でも……」
「迷惑でしょうね。あの子は自分の罪も立場もわかってるわ。それをまっとうしようとしているだけ。邪魔をしているのはあなたじゃない」
「じゃあ見殺しにしろって言うのか?」
その言葉に、真紀は静かに微笑んだ。
「心外ね。まるで私が人殺しみたいに……」
「人殺しだろ。何度殺そうとした? 雪の中に放置したり、日も差さない牢屋に閉じ込めたり、拷問まがいに襲わせたり、食べ物に毒を入れたり……それを公表したら、おまえは終わりだ」
「馬鹿ね。私とあなた、世間はどちらの言葉を信じるって言うの? それに、あの子はまだ生きてるじゃない。ネスパ人の生命力がいかに強いといっても、あの子が生きていることは私が無実だっていう証明」
「……おまえと話していても埒が明かないな」
「それはこっちの台詞よ。そろそろ戻っていいかしら。深夜に二人きりなんて、亮がどう思うかわからないし、私もいろいろ問題を抱えていて頭が痛いの」
一方通行の会話に、竜は押し黙った。解決策が一向に見つからない。
そんな竜に、真紀が口を開く。
「まあ富糸ヶ崎氏も、何度目かの結婚ですもの。前より柔らかくなったと聞いたし、そうそうあの子に危害を加えたりはしないんじゃないかしら」
真紀の言葉は気休めにしか聞こえない。竜は真紀を見つめた。
「俺は……マリアのこともおまえのことも、どうしたらいいのかわからない」
「あの子のことはともかく、私のことは放っておいてちょうだい。あなたに子供の父親を名乗ってほしくなんかないし、寄りを戻す気も更々ないわ」
そう言い残して、真紀は竜の部屋を出ていった。
虚ろな表情のまま、竜は頭を抱えた。
亮は自分の部屋で、眠れぬ夜を過ごしていた。
可愛がってきた子供が自分の子供ではなかったという、思わぬ真実を突きつけられ、やりきれない気持ちでいっぱいになる。
(子供に罪はない……僕の子供ではないと知っても、力と真世は可愛い子供だ。じゃあ誰に罪がある? 僕を裏切っていた兄貴か、黙っていた真紀か。いや、一番罪深いのは僕だ。当時の僕は、マリアを忘れられなかっただけでなく、機械のように真紀の夫を演じていただけだ。そんな夫に、真紀が満足するはずがない)
頭を抱えたまま、亮は普段はあまり飲まない酒を煽るように飲んだ。何もかも忘れられればと思う。
(結婚した時から、僕は腹を括って、全力で真紀と向き合わなければならなかった……兄貴との関係を清算させるのは、僕の役目だったんだ。僕は誰を責める権利もない。ただ……)
棚の上にある写真を見ると、亮は思わず目を伏せた。
写真には、先日のパレードの際に撮られた家族写真が入っている。その中に、優しく笑う昇の姿があった。
(ただ、思わずにはいられない……力と真世が兄貴の子供だと知っていたら、僕は今頃、マリアと昇と三人で暮らしていたかもしれない。真紀だって、本当は兄貴が好きだったはずだ。誰にも言えず抱え込んで、それなのに僕はマリアを想って……真紀を追い詰めていたのは僕だ。僕は誰を想う資格もない。もはやマリアを想うことも……)
亮の目が涙で潤んだ。どんなに悔やんでも、今となってはすべてが遅い。過去の選択を無駄にしないためには前へ進むしかないことを、亮は悟っていた。
(僕に出来ることは、もうマリアに関わらないこと。そうすれば真紀との関係は続けられる。真紀が嫉妬に暴走することもない。マリアの近況はもはや知らないが、彼女も新しい人生を進んでいるはずだ。僕は子供たちと離れることはもう出来ない。すべて忘れよう……新しい人生のことだけを考えていれば、すべて丸く収まるはずだ)
止まらぬ酒に溺れ、亮はすべてを忘れようとしていた。
次の日。豪華な造りの馬車がコブの店の前へと停まった。それと同時に、富糸ヶ崎氏の使者がマリアを迎えに来る。遂にその時が来ていた。
「マリア……」
心配そうに、アルとコブが見つめている。
マリアは身軽な荷物を抱え、二人に深々とお辞儀をした。
「マスター、アル、今まで本当にありがとうございました。心配させてしまってごめんなさい。でも私は大丈夫だから。私には希望があるの。昇のことを思うと心が軽くなるし、マスターたちの優しさ、絶対に忘れません。みんなの顔を思い出すと、折れそうな心も支えられるの。だから……」
コブはマリアを抱きしめた。
「出来るもんなら連絡してくれ。店にも来いよ。特製の料理作ってやるから」
「ありがとう、マスター」
「無茶するなよ。何かあったら逃げるんだ。帰ってくる場所がここにあるんだから」
今度はアルが言った。マリアは微笑み、頷く。
「ありがとう、アル」
「おい、早くしろ」
馬車から使者にそう呼ばれ、マリアは慌てて振り向いた。そしてもう一度、二人を見つめる。「じゃあ行きます。今まで本当にありがとうございました」
「マリア……本当に行っちまうのか」
「ええ、さよなら。どうかお元気で……竜様にも、そう伝えてください」
マリアはそう言って一礼すると、馬車へと乗り込み去っていった。
残されたアルとコブは複雑な表情を浮かべていたが、もうどうすることも出来なかった。
マリアを乗せた馬車は、街外れの大きな屋敷に止まった。屋敷のドアが開き、富糸ヶ崎自らが迎え出る。
「よく来たね。さあ入りなさい」
紳士的な態度で、富糸ヶ崎はそう言った。マリアは恐縮しながら一礼する。
「よろしくお願いします……」
「ああ、堅い挨拶は抜きにしよう。とりあえず休みなさい」
富糸ヶ崎にそう言われて通されたのは、大きな食堂であった。そこには誰もいない。
「紅茶は入れられるかね? そこに道具がある」
「はい」
テーブルの上に置かれたティーセットで、マリアは手際良く紅茶を入れ、富糸ヶ崎に差し出した。
皿洗いが主だったものの、レストランで働いてきたので、マリアにもある程度の知識はある。
「君もそこに座って飲みなさい」
「はい、ありがとうございます……」
促されるまま、マリアは椅子に座った。
「緊張しているのか。無理もないが、堅苦しいことはやめよう。私はこの通り、一人きりで余生を送っている。使用人を使うのも好きではないのでね。別棟で数人、料理や掃除の使用人が控えているほかは、この屋敷には誰もいない。私の世話係として、若い妻が必要だと考えているから君を呼んだ。気兼ねなく暮らしてくれ」
「……はい。よろしくお願いします」
心なく、マリアは静かにそう言った。




