3-21 救いの命
病室に辿り着いた竜は、引き続き処置を受けているマリアを見つめた。その顔は青白く、眠った状態ながらも、時折、苦痛に顔を歪ませている。
何度そんなマリアを見たことだろう。その度に過去の過ちを悔いた竜だが、結局どうにもならなかったことに苛立ちを覚える。
「まだ処置中です。しばらくは面会謝絶となります。申し訳ありませんが、出ていってください」
医師に止められ、竜は目を伏せた。そして静かに顔を上げると、その医師を見つめる。
「どうか助けてください。お願いします」
それだけを言って、竜はその場を去っていった。
屋敷にいる真紀は、一睡も出来ぬまま朝を迎えた。そしてその足で織田氏のもとを尋ねる。
「どうした? こんな朝早くに……」
織田氏はそう言いながらも、その表情で真紀の言いたいことがマリアに関することだとわかっていた。
「……マリアのことです」
「だろうと思ったよ。今度はどうした? 遂に死んだのかね?」
「それに近いかもしれませんね。事情はよくわかりませんが、暴徒に襲われて病院送りだそうです」
「ほう……暴徒か。最近、増えているそうだな」
そう言って、織田氏は葉巻に火をつける。真紀は溜息をついた。
「主に日本とネスパの間の子が、少数のグループとなってやっているようです」
「そうらしいな。亮とは立場の違う、最初から格差のある人間たちだ。早く捕らえて更正させろ」
「わかっています……」
「……先手を打とう。あの女を別の病院を移すんだ」
「え?」
「こちらの手中に収めろ。だが、竜たちの目も欺く」
織田氏の言葉の意味が、真紀にはわからない。
「どういうことです?」
「あの女が暮らしていたというところは、医者の家じゃなかったかね? そこへ戻せば、とりあえず竜も安心するだろうし、大病院より付きっきりのぶん回復も早いだろう」
「そうして、また私と切り離すとおっしゃるのですか? あの子は結局、私に対して何も償っていない。被害者を装って、男を食い物にしているだけです」
「おまえの気持ちはよくわかっているつもりだ。だから私はおまえに手を貸してるんじゃないか。我ながら、息子たちの馬鹿さ加減には呆れているくらいだ。だが、そろそろおまえと切り離すべきだとも思っている。おまえはあの女に依存しすぎだ」
「わかっていないじゃありませんか!」
取り乱した真紀の前には、能面のように表情ひとつ変えない織田氏がいる。その恐ろしいまでの冷静さに、真紀は言ったことを後悔した。
だが真紀より先に、織田氏が口を開く。
「あの女を結婚させよう。日本人でもネスパ人でも構わない。あの女にとって一番残酷なことのひとつは、結婚だろうからな」
織田氏の言葉は、一瞬で真紀を冷静にさせた。確かに織田氏の提案は、今までになく竜や亮を遠ざけるに相応しい行為だと思う。
「結婚……ですか」
「こちらでも探しておこう」
「お願いします……」
多少の不安はあったが、真紀にとっても織田氏の言葉は絶対である。なにより今回の提案は、いいものかもしれないと思い、マリアのことはすべて織田氏に委ねようと決心した。
数日後、マリアは静かに目を覚ました。そこは見覚えのある天井で、そばには一年間暮らした、アルフレッドがいる。
「ア、ル……」
まだ力なく、かすれた声で、マリアが言った。
アルは心配そうな顔をしながらも、意識を取り戻したマリアの手を握る。
「マリア、よかった……」
「……私?」
「織田家から引き取り要請が来てね……君はうちで預かったほうがいいと言ってきたんだ。こんな状態だったけれど、また君に会えてよかった」
アルの言葉に、マリアは罪悪感を抱いた。世話になりっぱなしのここからようやく出たが、すぐに逆戻りをし、またアルの体力を奪ってまで治療を受けている事実に、自分の不甲斐なさを感じる。しかしその罪悪感は、織田氏も狙ってのことだった。
「……ごめんなさい」
ただそれしか言えず、マリアはアルを見つめる。アルもその真意がわかっていたが、思い切り首を振る。
「いいんだよ、何も考えなくていい。今はただ治療に専念するんだ。あちらの奥様もそう言っておられたよ」
奥様という言葉に反応し、マリアはすぐにでも復帰しなければならない衝動に駆られた。このままでは借りも借金も増えるばかりで、恩さえ返せない。
「私……もう動ける?」
「馬鹿言っちゃいけない。あと一ヶ月は安静にしていないと。頭も深く切れていて大変だったんだ」
「……どうして、生きているのかしら」
ぼそっと、マリアがそう言った。
それを聞いて、アルは真剣な目でマリアの手を握る。
「医者の前でそんなこと言うな。君は生かされているんだよ。それは神様が与えてくださった命だ」
「神様……終わりじゃなくて、また始まりだったのね……」
淡い夢だったようだ。亮と再会して、その腕の中で死ねると思ったが、それは終わりにはならなかった。そしてその事実はマリアに重く圧し掛かる。
「とにかく、元気になるまでまたじっくり看病するよ。元気になったら、また昇のために働けるさ」
「……ありがとう」
もはやそれしか言えず、マリアは静かに目を閉じた。
まだ体中が痛む。それよりも、倒れては介抱され、生かされている自分が情けなかった。早く復帰して、アルにも織田家にも恩返ししたいと思う。
そんなマリアの心情を察知し、アルも辛かった。
数日後、大きな花束を抱えて、竜が見舞いにやってきた。
すでにマリアは生きる意欲を再び持ち始め、早く復帰したいという焦りを感じている。
「やあ。調子はどう?」
複雑な表情を浮かべながらも、竜が軽くそう声をかける。
自分が離れることでマリアへの風当たりが緩くなることを信じたが、真紀に裏切られてマリアを窮地に追い込んだ自分に苛立ちを覚え、竜はマリアに合わせる顔がない。それでも竜はどうしても会いたかった。
「だいぶいいです……」
マリアは変わらぬ笑顔で竜を見つめ、そう返事をする。
竜は花束を渡した。
「これは亮からだ。会えないから、せめてものお詫びだと言っていた」
「お詫びだなんて……」
亮からの花束は嬉しかったが、詫びられる覚えはまったくない。マリアは首を振る。
「本当にすまなかった。君を守ったつもりだったのに、何も変えられていなかったなんて、本当に……」
辛そうに顔を顰め、竜は深々とお辞儀をした。マリアは居たたまれなくなり、頭を下げている竜の肩に触れる。
「やめてください。私が暴徒に襲われたのは、誰のせいでもありません」
「違う! 君をあんなところで待たせたのは俺の責任だ。俺がもっと気を張っていれば、こんなことにはならなかったんだ。真紀を買い被りすぎていた……親父を信じすぎていた。君をまた苦しめたのは、俺の責任なんだ」
真剣なまでの竜の瞳に、マリアは圧倒されていた。なぜそんな考え方が出来るのか、マリアには理解出来ない。
「どうしてそんな……私はあそこで待つのは慣れていましたし、苦ではありませんでした。あなた様の責任などではありません」
「君こそどうしてそんなに優しくなれる? 俺や真紀を責めてもいいんだ」
マリアの脳裏に、真紀の姿が浮かぶ。
「……罪人の私が、どうして責められましょう。私は優しくなんてありません。優しければ、竜さんや旦那様や奥様を苦しめることもありません」
「マリア……」
「あつかましくとも、竜さんに助けられて、神様に与えられたこの命を、もう一度まっとうする覚悟です。早く仕事に復帰して、今まで通り奥様にお金を返したいと思います。これだけは私の好きにさせてください」
揺るぎない言葉の前には、竜は何も言えない。だが時が来れば、また話も出来るだろう。
竜は小さく頷くと、マリアの手を取った。
「……君を助けるつもりで、俺は結婚に踏み切ろうと思った。だが親父や真紀に裏切られ、婚約は解消したよ。俺は今でも君を愛してる。見返りは求めない。君も、これだけは俺の好きにさせてくれ」
マリアは目を見開いた。やはり竜の結婚は自分のためだったのか。また、似合いのカップルだと思ったが、自分のために解消したというのか。その事実の重さに、マリアは絶望に打ちひしがれる。
「私のために……竜さんが犠牲になることは何もありません。私は何も持たないのに、どうしたらいいのですか? どうしたらあなたへ恩返しが出来るのですか?」
顔を顰めてマリアはそう言った。竜は静かに微笑み、マリアを見つめる。
「生きてくれ。そして何かあったならば、出来れば俺を頼ってほしい。俺に手を差し伸べさせてほしい。それが君に出来る、俺への恩返しだよ。それに俺は、誰のためにも犠牲にはならない。ただ生きたいように生きているだけだ。君が重荷に感じることは何もない」
竜の優しさが身に沁みる。亮からの花束を抱え、マリアは涙を流した。
「ありがとうございます……」
マリアの言葉を聞き、竜は頷きながらマリアの肩を抱く。
二人は互いを癒すように、安らぎを感じていた。
それから数週間、マリアはアルやドクターの治療によって次第に回復していった。竜も頻繁に見舞いに訪れ、マリアの心の拠り所にもなっている。いつ真紀から新たな連絡が来るのか不安もあったが、早く復帰しなければと願った。
そろそろ復帰出来るかという頃、遂に真紀から呼び出しの手紙がやってきた。
「行かないほうがいい」
そう言ったのは、マリアを住まわせてくれている店主のコブだ。コブに賛同し、アルも頷く。
「そうだよ。まだ完治してないし、行くことない。断りの連絡なら俺がやるよ」
しかしマリアは明るく笑う。
「大丈夫よ。もうすっかり体調もいいし、動けるもの」
「そういう問題じゃない。相手が相手だ。行ったきり帰って来られないなんてことも、あるかもしれないだろ」
マリアに反論してコブが言う。だがマリアは引き下がらない。
「奥様はそんなことしないわ。今後のことをもう一度話し合いましょうって書いてあるもの。その通りだと思うわ。逃げ回っているわけにもいかないし、身体も大丈夫だから、心配しないで」
二人の心配をよそに、マリアはそう言って手紙の指定場所へと向かっていく。そこは近くの喫茶店で、すでに真紀が待っていた。




