1-5 逃亡
数週間後――。
マリアは独房の中で、何をするでもなく過ごしていた。そこへ一人の女性が訪ねてきた。真紀である。
「こんにちは」
そう声をかけてきた初対面の真紀に、マリアもお辞儀を返す。
「こんにちは……」
「そう。あなたがマリアさん」
「……あの?」
「私は、織田真紀。亮の妻です」
「……奥、様……」
突然の訪問に、マリアは食い入るように真紀を見つめる。とても綺麗な女性だと思った。見るからに仕事が出来そうな上に、セミロングの黒髪が輝き、気品に溢れている。マリアから見れば、薄汚い罪人として捕えられている自分とは比べるに堪えないほど、その姿は輝いて見えた。
「つい先日、正式に入籍したの。まだ式はしてないけれど、近いうちするわ」
「……お、おめでとうございます……」
まるで敵わない真紀という女性を前に、マリアは自分の身の上を恥じて身を縮める。
「ありがとう。それと今日、亮がこの街の最高指揮官に任命されたわ。後ろ盾が大きいから、割とすんなりね」
「そうですか……」
そう言うマリアの表情は途端に明るくなり、素直にそれを喜んでいるようだった。
「……これから、あなたの刑罰を決めるわ。私は犯罪者を取り仕切る部署の指揮官でね。この刑務所の責任者もしているのよ。あなたを生かすも殺すも、私次第といったところね」
真紀の言葉にマリアは俯いた。紛れもなく自分は罪人であり、もうどうにもならないことを知っている。
「だけど軽い刑罰にしてあげる。お義父様からも、一応そう言われているから……今日はあなたの顔を見に来ただけよ。もう二度と会わないでしょうけど。さようなら」
それだけを言うと、真紀は去っていった。
真紀の言った言葉の真意がわからず、マリアはただ茫然として目を泳がせる。亮が結婚してしまったこと、どれだけの刑に処されるかはわからないが自分の行く末は明るくないことに、絶望を覚える。しかし亮が無事に最高指揮官になれたことだけは、唯一の救いだった。
それから数時間後。マリアのもとに、また足音が響いた。マリアがゆっくりと顔を上げると、そこには有り得ない顔があった。
「……亮!」
マリアは鉄格子へとかじりついた。亮も鉄格子越しに、マリアへと駆け寄る。
「マリア!」
亮の手がマリアの手を握り、その頬を撫でる。
「亮、どうして? もう会えないと思ってたわ……」
「ごめん……ずっとこんなところに入れられていたのか? 君には合わせる顔がない。結局僕は、君を守るどころか、何も出来なくて……」
「私は大丈夫。あなたが最高指揮官になったと聞いて、本当に嬉しい。亮は大丈夫? 大変な時でしょうに……」
「僕は大丈夫だよ」
二人は不安げな顔で、互いを見つめる。
「……結婚、したんですってね……」
静かにマリアが言った。
「どうしてそれを……」
「婚約者がいたなんて、知らなかった……あなたが最高指揮官の息子だったということも……」
「……ごめん、言えなかった。言えば君と一緒にいられなくなると思って……でも婚約は親同士が決めたことで、僕は了承してなかったんだよ。僕は本気でマリアを愛していた。結婚だって、マリア以外とは考えられなかった。でも、ごめん。君を助ける方法が見つからなかった……ごめん」
謝るばかりの亮に、マリアは首を振る。
「謝らないで。また会えただけで幸せ。嬉しい。もう死んでもいい……」
「そんなこと言うな!」
「亮……」
「頼むから、そんなこと言わないでくれ……」
鉄格子を挟んで、亮はマリアを抱きしめた。
「もう、会えないのね……」
「……ああ」
二人は互いの温もりに包まれたまま、目を閉じた。そしてもう一度、見つめ合う。
「でも、よかった……最後に一目、あなたに会えて……」
「ごめん。君を幸せにすると誓ったのに……」
「私は幸せよ。こうしてあなたが会いに来てくれた……少しの間だけでも、私を愛してくれた……」
マリアの言葉に、亮はマリアの手を握る。
「いつまでも愛してる。結婚しても、地位が上になっても、僕は君を愛してるから……もう僕に残されたことは、最高指揮官になることを受け入れて、少しでも君の生活が良くなるように働くだけだ。僕は頑張るよ。たとえ別々のところにいても、本当にもう会えなくても、どこかでマリアを想ってるから……」
まっすぐな亮の言葉に、マリアの目から涙が溢れる。
「私も亮を愛してる。一生、亮だけを想ってる……でも亮の幸せを願うわ。私は大丈夫だから。幸せになってね、亮……」
「マリアもだ。生きてくれ。そして幸せになってくれ」
「うん……」
そういうマリアは幸せそうに微笑むが、顔色が悪く、手も冷たい。
「マリア。大丈夫か? 真っ青じゃないか」
「大丈夫……ごめんなさい」
「でも」
「大丈夫だから、もう少しだけそばにいて……」
「そばにいるよ」
「うん……うん……」
二人はもう一度、抱き合う。もう高い月が、小さな窓から二人を照らした。
「そうだ、マリア。これをあげるよ」
亮はそう言って、腕にはめていた腕時計を外し、マリアの腕にはめた。
「時計?」
「この時計が夜中の十二時を差す時、一緒に空を見上げよう。北極星がいい。どこにいても見えるからね。二人違うところにいても、同じ星を同じ時間に見つめよう。お互いを忘れないように……」
「忘れないわ。そんなことをしなくても、いつも亮を想う」
「ああ」
「でも、こんな高価な物……」
「いいよ。ここを出た後、お金に困ったら売っていいからね」
「ううん。大切にするわ」
マリアはそう言って微笑むと、亮の腕の中に顔を埋める。
「マリア……」
その時、亮はマリアの異変に気がついた。マリアはそのまま眠ってしまったかのように、急に意識を失くしている。ただ苦しそうな表情を浮かべ、呼吸も荒い。
「マリア! マリア!」
亮がそう呼んでも、もはや返事はない。
「誰か、医者を呼んでくれ!」
刑務所内にある病室の前で、亮はマリアの診察が終わるのを待っていた。するとそこに真紀がやってくる。
「真紀……」
「知らせを聞いて来たの。倒れたんですって?」
「ああ……」
「もういいでしょう? 帰りましょう」
「待ってくれ。せめて病状を聞くまで」
「亮……」
亮は静かに息を吐き、俯く。
「……ごめん。仮にも僕は、君の夫なのに……酷なことを言っているよな」
「本当にね。愛人の安否を、夫婦揃って気遣うだなんて」
「そうじゃない。でも、ごめん……」
そこに、診察を終えたネスパ人医師が出てきた。
「大丈夫です。命に別状はありません。気が緩んで気を失ったようですね。しかし彼女、妊娠しているようですね」
「え?」
亮と真紀は、言葉を失った。
「まだ妊娠して間もないようですが、間違いないでしょう。倒れたのは、栄養失調や心労が重なったからでしょうが、栄養をつけてしばらく安静にしていれば大丈夫ですよ。少し様子を見ましょう」
「……わかりました。ありがとうございました」
亮がそう言うと、医師は去っていった。亮と真紀もまた顔色を変える。
「……すぐに日本人医師を呼びましょう。ネスパ式の医者なんて当てにならない。早く堕ろさなきゃ、手遅れになるわ」
そんな真紀の言葉に、亮は驚いて口を開く。
「堕ろす? 何の権利があって、そんなことを言うんだ」
「権利はあるわ。夫である、あなたの子供でしょ? だったら私にも関係がある」
「決めるのは、マリアだ!」
亮と真紀の、睨み合いが続く。
「……彼女は産みたいと言うでしょうね。そうしたらどうするつもり? 産んで何の得があるのよ」
「損得の問題じゃない」
「問題だわ。せっかくここで、すべてが終わるはずだったのに……これであなたは、また彼女を放っておけなくなる。子供に会いたがったりするんでしょうね。それでずるずると、私たちの関係はどうなるの?」
興奮気味の真紀に、亮も打開策を見い出せない。そんな亮に、真紀が言葉を続けた。
「あなたは私の夫なのよ? 私は少なくとも、あなたとの結婚が嫌だとは思ってないわ」
そんな時、病室の中では、気を失っていたマリアが目を覚ましていた。マリアの耳に、ドアの向こうで話している、亮と真紀の声が聞こえる。
「でも、真紀。マリアの妊娠は事実なんだ。その子供を産むのか産まないのかは、マリア以外には誰も決められない。たとえ父親である、僕であっても……」
「私は許さないわ。あなたと彼女が会うのは、今日で最後という約束よ。そして子供も絶対に産ませないわ!」
マリアは耳を疑った。自分が妊娠をしている。そして亮の妻である真紀は、自分のお腹の中にいる子供を望んではいない。マリアは自分の腹を押さえた。
「そんなことを言わないでくれ、真紀。君が嫌だというのなら、子供にだって会わないよ。でも援助くらいはさせてくれ」
それを聞いていたマリアは、涙を流した。亮は自分と子供の存在を認めてくれているのである。
「あなたがそんなことで済むわけがないわ。一切の縁も断ち切ってちょうだい」
「僕の子供なんだぞ? 縁など切れないのに、それでも会わない覚悟があると言っているんだ」
病室の外では、なおも亮と真紀の言い争いが続いていた。
「一生会わないなんて出来るかしら? それなら元を断ち切ればいい。お義父様だって、反対するに決まってるわ」
「お父さんが反対しようと、それでも僕は嫌だよ。そりゃあマリアが産まないと決めるならば仕方がない。でも僕はやっぱりまだ……マリアを放ってはおけない。だから僕の子供なら、産んでほしいと思っている」
その時、真紀は亮の頬を、思いきり殴った。だが亮は、そんな真紀をまっすぐに見つめる。
「真紀。ごめん……無茶を言っているのはわかっている」
「ごめんじゃないわ! 私たちは夫婦よ。嫌でも従ってもらいますからね。それに私には、お義父様がついてるんですから」
「確かに僕は、お父さんには弱いよ。でも、それとこれとは違う。これは命の問題なんだ」
「とにかく、お義父様にはすぐに報告するわ。帰りましょう。気を失って眠っているんでしょう?」
「今日は胸を張ってマリアに会える最後の日だろう。時間になるまで、そばにいるよ」
「……勝手にしなさい」
後ろめたさを感じながらも、亮はマリアの病室のドアを開いた。そこで亮の目に飛び込んできた光景は、信じ難いものだった。
立ち尽くす亮に、真紀も部屋の中を覗く。すると中には、いるはずのマリアの姿がない。
「マリア……?」
病室には小さな窓があり、軟な金網は元から破れていたようだ。そしてそこから、結ばれたシーツが窓の外へと伸びている。
「あの子、逃げたんだわ。誰か来て! 囚人が逃げたわ!」
すかさず真紀が叫ぶ。
「やめろ、真紀。彼女はもう囚人じゃないはずだ」
「あの子は一生罪人よ。そしていつまで経っても、織田家の囚人よ」
「……とにかく捜さないと。あんな身体で無茶だ。誰か来てくれ!」
そう言って、亮も人を呼んだ。
マリアはひたすら逃げていた。病棟は刑務所とは別の棟で、警備も手薄い時間帯だったのが運が良かった。マリアは一目を避けながら、広大な敷地の端を目指す。敷地の端は木々で覆われ、その先を高い壁で囲まれている。壁の向こうは外の道か、隣り合った最高指揮官邸のはずである。
壁にぶち当たり、マリアは辺りを見回した。さっきまであった木々はもはやなく、目の前には壁がそびえ立っているだけで、伸びきった雑草しか生えていない。また壁の上には有刺鉄線がこちら側に倒れるようにして張り巡らされており、壁を登れたところでそこから脱せそうにない。
「ハア……ハア……」
もう下しか残されておらず、マリアは壁の下にある雑草をかき分けた。体力が著しくなくなっていたが、ふらつく身体に気付きもせずに、一心不乱に壁を探る。すると、一ヵ所だけ壁に子供が通れるほどの穴を発見した。土を掘れば通れそうである。マリアは大急ぎでそこを掘ると、壁の外へと這い出した。
壁の外には先程と同じような光景があった。だが外ではないということは、最高指揮官邸の敷地内に入ったのだと瞬時に思い込み、マリアは壁伝いに走った。
(お願い、神様……私を助けてください)
そう願いながらしばらく行くと、馬屋の前に馬車が止まっているのが見え、マリアは息を潜めた。支度の程度からいって、これから出るところらしい。マリアは馬車の下に潜り込むと、やがて近付いてきた人影に身を縮める。
馬車は思った通り、やがて動き出した。そしてそのまま最高指揮官邸をも脱出すると、マリアは闇夜を隠れ蓑に、街へと走っていくのだった。
(亮……亮……)
逃げなければいけないと思った。亮が自分との子供を望んでくれて、自分も産みたいと思う。それにはたとえ罪を重ねても、刑務所を抜け出さねば、真紀や亮の父親に子供を殺されるかもしれない。そう思うと冷静ではいられず、マリアはただひたすらに逃げ続けるのだった。