3-19 神の使い
「マリア!」
竜は走りながら、縦横無尽に続く路地裏を、手当たり次第に探し回っていた。血痕を見てから、マリアはそう遠くには行っていないと思ったのである。
早く見つけなければ、このまま会えなくなってしまうかもしれないという恐怖が竜を襲う。
マリアの精神が無限の時間を感じ始めた頃、マリアは無理に身体を起こされた。
「マリア!」
マリアの身体を支える手は、熱く力強い。また、すべてを呼び覚まされるように、懐かしい声が聞こえた。
「しっかりするんだ、マリア!」
意識を取り戻し、マリアは静かに目を開けた。するとそこには亮の姿がある。
「マリア!」
目を開けたマリアを見て、亮はひとまずほっとし、苦しそうに微笑んだ。
そんな亮を見て、マリアは静かに声を発する。
「ああ……神様……」
かすれた声でそう言ったマリアの目に、涙が滲む。
(神様……これはあなたがくださったおぼし召しですか? 彼の姿を借りた天使でしょうか……私は幸せと安らぎの中で死ねるのですか? 最後に彼に会わせてくれて、これ以上の幸せはありません……)
心の中で、マリアは神に感謝した。声にならなかったこともある。
マリアは押し黙ったまま、ただ亮を見つめていた。
「マリア。しっかりするんだ」
「……りょ、う」
必死な様子の亮に、マリアは静かに声を発する。
「ああ。大丈夫か? 一体何があったんだ!」
「……最後に、あなたに会えてよかった……」
それを聞いて、亮はマリアを抱く手を一層強めた。
「なに言ってるんだ。最後だなんて言うな。必ず助けるから!」
そんな亮に首を振り、マリアは亮から離れると、手で止めるようにして拒む。
「触らないで。このまま死ねたら、どんなに幸せでしょう……」
マリアがそう言って離れたのは、今の状態ではなんの妨げもなく、弱った体が亮の生気を吸い取ろうとしていたからだ。ネスパ人特有の、神通力に似た保護本能である。
人の傷を癒す能力があるネスパ人は生命力も強い。それゆえに、瀕死の状態であれば、触れた他人から生気を吸い取ってしまうという本能を持っているということは、この街に勤める役人誰もが知っている。
それを知りながらも、亮はマリアの手を握る。
「何を言うんだ! 生きてくれ。昇に会いたくないのか?」
「昇……会いたい……」
「そうだ。生きていれば、昇に会わせる機会もあるさ。だから生きるんだ」
それでもマリアは首を振り、静かに亮から離れる。
その時、やっと竜がマリアの姿を見つけた。
「マリア!」
竜はマリアに駆け寄るなり、その手を取って見つめる。
「何があったんだ? どうしてこんな目に……おまえがやったのか!」
動転したまま、竜の矛先は、そばにいた亮に向けられる。
「そんなわけないだろ! 兄貴こそ、どうしてここへ……」
「胸騒ぎがして、探してた……何があったっていうんだ!」
「わからない……」
マリアは二人を見つめ、尚も首を振る。
「私は大丈夫ですから……行ってください」
絞り出すようにそう言ったマリアの言葉に、亮と竜は互いに顔を見合わせる。
「なに言ってるんだ。病院へ行こう」
竜が言った。
マリアは重い身体を起こし、座ったまま後ずさりながら二人から離れ、首を振る。
「大丈夫ですから……」
「大丈夫でも駄目だ。さあ、行こう」
今度は亮が、マリアの肩を抱こうとする。しかしマリアは怯えるように、硬直してそれを避けた。
「マリア?」
「本当に、大丈夫ですから……」
か細くかすれた声で、マリアはもう一度そう言った。
「いいから、さあ、おいで……」
説得するように、亮と竜は身を引きずるように逃げるマリアに手を差し出す。
だがマリアは顔を背け、身を縮め、少しでも二人から離れようとする。
「お願いです。こんな惨めな姿、これ以上、見られたくない……」
二人に背を向けたまま、マリアは懇願するように本音を言った。触れられて生気を吸い取ることは元より、傷だらけで腫れ上がった姿など見られたくはなかったのだ。
それを聞いて、竜は強引にマリアを抱き上げた。
途端に、竜は生気が一気に吸い取られるような感覚に陥った。その正体が、ネスパ人独特の能力だということは、すでに竜の中の知識にある。だがそれをネスパ人ではない自分が感じているということは、マリアが危険な状態だということも、竜にはわかっていた。
マリアは、絶望的な表情で首を振り続ける。
「やめてください。どうか……」
「黙ってろ」
竜はもはや強引にそう言うしかなかった。それに続いて、亮も頷く。
「病院へ運ぼう。役人用だけど、近くに総合病院がある」
「ああ。急いで馬車を……」
そう話す亮と竜を、マリアは悲しげな表情で見つめた。
「お願いします。どうかこのまま……お捨て置きください。すべて私が悪いんです。こうしている今も、あなたから命を吸い取ろうとまでしている……悪い人間です。だからどうか……」
マリアの言葉に、竜は冷や汗をかきながらも微笑み、歩き出す。
「口が回るようになったなら、少しは俺の命で回復してくれたのかな? 俺は血の気が多くて元気すぎるのが難点なんだ。少しくらい君に力をあげたって、死にはしないよ。安心して回復させてくれ」
「そういうことではありません。私はもう、ここで……」
亮と竜は、互いに息を呑んだ。聞かずとも、マリアの真意はわかる。しかし、それを受け流すことは到底出来ない。
マリアは必死に自分の身体に抵抗していた。無意識でいれば、自分に触れた竜の体力を奪いかねない。だが意識を保つのが精一杯で、もはや声も出なくなる。
(ネスパの血よ。お願いだから、言うことを聞いて……この方たちから何も奪い取らないで。私はここで死んでも構わない。お願いだから止めて……)
抵抗虚しく、マリアは抱き上げている竜から、著しく体力を奪っていた。だが、マリアは諦めない。
(力を止める術は知らない。でも、もしかして与えることなら……)
途端、マリアの体力が放出されるように奪われていった。
(神様――力をください。もうこれ以上、この方たちを巻き添えにしないで……お願いです)
マリアは目を真っ赤にし、目の前の竜を見つめて、最後の力を振り絞るように口を開く。
「や、きば、に……」
「え……?」
必死な様子でそう言ったマリアに、竜は耳を傾ける。
「捨てて、ください……」
竜は目を見開いた。
焼場に捨ててください――。マリアがそう言ったことを理解し、竜はマリアを更に強く抱く。
「しっかりしろ、マリア!」
「や、焼場に……」
「黙れ! りょ、亮、馬車! 急げ!」
竜の言葉ももう聞こえず、マリアはそこで意識を失った。
「わかってる。とにかく、早く表通りへ!」
迷路のような裏路地を先導する亮について、マリアは竜に抱きかかえられたまま、病院へと連れて行かれた。
三人が病院に着いた頃、すでにマリアは呼吸をも不規則にしていた。
そんなマリアを見た医者は、息を呑む。
「なんてひどい……」
「暴漢に襲われたようなんだ。どうか助けてくれ!」
切実な顔で、竜が言った。その顔は青白く、病的にさえ見える。
「彼女を担いできたんですね。ずいぶん生気を吸い取られたはずだ。処置室へどうぞ」
「ありがとう。だが、早く彼女を……」
「……本当に助けますか?」
医者の一言に、亮と竜は目を見合わせた。
「どういうことですか?」
一瞬の沈黙を破って、亮が尋ねる。
「……安楽死という選択肢もあるということです」
「助けてください。必ず……!」
亮と竜が、同時にそう言った。
医者は静かに頷くと、すでに手術室に運ばれたマリアを追って、その場から去っていった。
「安楽死だなんて。そんな選択肢……」
その言葉にショックを受け、亮はロビーのソファに座り込んだ。
竜は黙ったまま、亮の隣に座る。
「兄貴……兄貴も処置室へ行ったほうがいいよ。顔色が悪い」
「……あのままマリアに触れていたら、俺はマリアに命をあげられたのかな……」
ぼそっとそう言った竜は、生気もなく表情をなくしていた。
いつになく弱気な竜に、亮は顔をしかめる。
マリアに触れていたので無理もない。ずっと生気を取られていたはずで、心まで沈んだ竜の元気を取り戻させるには、処置室で治療を受けさせたほうがいい。
「兄貴! 本当に、早く処置室に……」
「亮。俺たちは酷なのかな。死を悟った子を……無理矢理に生かそうとしていることは、俺たちのエゴなのかな……」
「兄貴……」
竜は絶望に顔を上げ、片手で目を押さえた。涙を堪え、マリアの無事を願う。
「あの子……本当に死ぬ気だったんだ。焼場に捨てろなんて……まっすぐに俺を見てた。光も何もない、死を覚悟した目だった……」
がっくりと肩を落とし、竜は小さく身を震わせる。
一方、亮はそんな竜を見るのは初めてだった。マリアへの愛が本気なのだと思い知らされる。それは自分が叶えられなかった情熱で、複雑に思えた。




