3-16 新生活へ
ホテルを後にしたマリアは、その足で以前勤めていたレストランへと向かっていった。しかしそこに見覚えのある看板はなく、別の名前の店になっている。
「いらっしゃいませ」
店の前で立ち往生しているマリアに、店の中から一人の男性が出てきた。だがその顔に、見覚えはない。
「よろしければ、中へどうぞ」
「あ、いえ、あの……ここは、新しく出来たお店ですか?」
「ええ、半年くらい前にオープンしました。もしかして、前のレストランを訪ねてきたんですか?」
男性の問いかけに、マリアは頷く。
「はい。以前ここで働いていました。マスターがどうなされたか知っていますか?」
「ああ……亡くなったと聞いていますよ」
「え!」
マスターはマリアを庇ってくれていた優しい人で、昇のことも生まれた時から可愛がってくれていた。マリアが養育費を稼がねばならなくなってからは、ギリギリまで給料を上げてくれ、風呂や食事の面倒まで見てくれた恩人でもある。
「ど、どうしてですか?」
「……夜道を襲われたそうですよ。この辺りはずいぶん物騒になってきて、以前は日本人だけがターゲットだったのに、暴徒もネスパ人を狙うようになってね……むしゃくしゃついでに人まで殺すんだから、世の中狂ってる……あなたもわかったら、早く家に帰るといい」
「……私、仕事を探していて……よろしければ、こちらで雇っていただけませんか?」
マスターが亡くなった悲しみを堪えつつ、マリアは恥を忍んで見知らぬ店主にそう投げかける。
「あいにくだけど、うちは人を雇うだけの余裕がなくてね」
予想通りの言葉に、返す言葉もない。
「そうですか……突然来てすみませんでした」
「いえ。では失礼」
マリアが客じゃないことがわかると、店主は突然冷たくなり、足早に店へと入っていってしまった。
「知らなくてごめんなさい、マスター。あれだけお世話になったのに、私は……」
マスターの死に落胆し、マリアは彷徨うように街を歩き続けた。
その時、マリアは一人の役人に肩を叩かれた。だが、その顔に見覚えはない。
「マリアだな?」
役人の手には、収容所で撮られたマリアの写真が握られている。犯罪者のように、名前を書いたボードを持たされ、撮られた写真だ。
不安に表情が凍りつきながらも、マリアは頷いた。
「はい……」
「私は織田真紀氏の部下で、直々に任務を渡された。役人所まで来なさい」
何をされるのかわからない恐怖があったが、拒否など許されないため、マリアは役人についていった。
役人所に入ると、早速取調室に入れられる。前にも入れられたことがあるが、何の件で連れてこられたのかわからないため、マリアは身を縮めて相手の動きを待った。
しばらく待たされると、やがて取調室のドアが開き、真紀が入ってきた。
恐ろしい相手に変わりはないが、知っている顔に、マリアは少しほっとする。
「お待たせしてごめんなさいね」
いつになく優しい言葉で、真紀はマリアの前に座った。それと同時に、マリアをここへ連れてきた役人は、部屋を出ていく。
二人きりになった部屋で、マリアは目を泳がせながらも、真紀を見つめた。
「さあ、今後について新しく決め直しましょうか。また竜に泣きつきでもしたみたいだから」
「偶然会ってしまって……」
「どうでもいいわ。とりあえず一年前に戻すことにしたわ。一日一万……出来るかしら?」
「はい。ありがとうございます」
さっきまで一日二万という破格の額を言われていたため、一万も減ることは素直にありがたかった。
「お金の受け渡しだけど、一週間に一度……土曜から日曜にかけての夜中から早朝にかけて、また織田家の裏門前で直接受け渡しを行います」
そんな真紀の言葉に、マリアは顔を上げる。これからは外で待つことはないと、竜が言っていたからだ。しかし、そんなことを言えるはずもない。それに一年前までは毎日受け渡しをしていたため、週に一度というのも助かる話ではある。
マリアの表情に、真紀は不満そうに口を曲げる。
「何か異論があって?」
「い、いえ。ありません……」
「……竜が何か口走ったかもしれないけど、もともと竜は関係のない人よね? 養育費にしろ、あなた自身にしろ」
「はい……」
「あなたも、私以外の織田家の人間とは、もう関わりのない人よね?」
言い聞かせるようにそう言う真紀に、マリアは頷いた。
「はい……その通りです」
マリアの答えに満足したかのように、真紀は静かに微笑む。
「わかっているようで安心したわ。何かご質問は?」
「いえ……」
「そう。じゃあ早速、今週からお願いね。もう帰っていいわ」
真紀はそう言いながら席を立ち、足早に部屋を出ていった。
それに続いてマリアも部屋を出ると、役人所を後にする。とにかく仕事を探さなければならない。
一年前よりは給料も物価も上がり、仕事も増えたように思えるが、それでも女性の仕事は一握りしかない。
何十件と店を回り、マリアはなんとか三つの仕事を見つけることが出来た。朝夕と別のレストラン二軒に、以前やっていた早朝の荷物運びの重労働である。
だが堅気の仕事では、三つをこなしてやっと一万パニーが稼げるギリギリの額であった。
その日から、マリアは一年前の生活に戻っていた。毎日真紀に直接金を届けるという手間はなくなったが、その分睡眠に当てるのではなく、仕事に費やすことを決める。少しでも多く稼がねばならないと思ったのだ。なにより忙しいほうが、すべてを忘れられる気がした。
土曜の夜中、仕事を終えたマリアは、織田家の裏門へ向かった。
裏門はほとんど人通りもない。以前なら竜が外で出迎えていたところだが、その姿があるはずもない。
いろいろな思い出のある裏門の横で、マリアは腰を下ろした。まだ雪は降っていないが、そろそろ降り始める季節で、寒さは凍てつくようである。
寒さと疲れで朦朧としながら、マリアは空を見上げた。
(ここに来ると、いろんなことを思い出す……竜さんやアルたちのように、私のことを心配してくれる人もいるけれど、私はそんなに不幸だろうか。今ここにある現実は、過去に比べたらどれだけ幸せなんだろう。これ以上望んだら、私の周りにある幸せも壊れてしまう……私は幸せだ。亮も昇も、竜さんも、みんな幸せなのだから……)
優しい笑みを浮かべて、マリアは眠りについた。
数時間後。人の気配に、マリアは目を覚ました。すると、目の前には真紀がいる。
「あっ……す、すみません!」
とっさにそう言って、マリアは立ち上がった。
「……大丈夫?」
思いの外、優しい顔で真紀がそう尋ねた。
一年前には毎日していた仕打ちとはいえ、この寒さの中で眠れば、いかに生命力の強いネスパ人といえど危険な状態であろう。こんなところで死なせるわけにはいかないと思ったが、逆にマリアは申し訳なさそうに頭を下げ、腰に下げた財布代わりの巾着袋を取り出し、かき集めたような小銭の多い金を差し出す。
「は、はい。すみません……」
「相変わらず小銭が多いのね。週に一度なんだから、銀行に寄って札に換えてからいらっしゃいな」
「はい……わかりました」
真紀は差し出された金を無表情で受け取り、その場で数え始める。小銭も多いが、数日分の金がきっちりあった。
「確かに……じゃあ、また来週」
「はい……」
去っていく真紀を見送って、マリアも織田家を後にした。たったそれだけのやり取りだったが、マリアと織田家を繋ぐ唯一の行動であることは間違いない。そう考えると、マリアに辛い気持ちなどはない。
ある日、亮が役人所で遅くまで仕事をしていると、竜が入ってきた。
「兄貴? どうしたの?」
突然の訪問者に、亮は驚きの顔を見せる。
最高指揮官である亮の部屋に竜が来たことは、特別な用事以外にはない。また、こんな遅くにしらふの竜がいることも珍しい。
「暇だから来ただけだよ。こんな時間まで仕事とは、部下もやりにくいだろうに……邪魔したか?」
「ううん。そろそろ終わろうとしていたところだよ。兄貴は?」
「瞳さんとデート」
竜の言葉に、亮は一瞬口をつぐむ。
「……へえ」
「なんだ、俺の結婚を喜んでくれないのか?」
少し寂しげに笑う竜は、亮を不安にさせる。
「喜んでるよ。兄貴が本当に、彼女と結婚したいなら……」
「どういう意味だよ」
「だって……あまりに突然じゃないか。お父さんが持ってきた縁談を受けるのも、兄貴らしくない。何か問題を抱えてるなら言ってくれよ。僕で力になれることは何でもするよ?」
素直に心配してくれている様子の亮に、竜は皮肉に笑ってソファへと座った。
「親父に言いなりのおまえが、俺に何が出来るって言うんだよ……」
その言葉に、亮は静かに口を結ぶ。
「そうかもしれないね。でも、本当に何かあるなら……」
「ないよ。ただ彼女は……俺にはもったいないくらいの女性だ」
そう言って、竜は静かに微笑む。心の奥に秘めるマリアへの思いは、どうにかして忘れようと思った。それは互いの心境を知らずしても、兄弟揃って無くそうとしている気持ちでもある。
「……兄貴が決めたことなら僕も従うよ。だけど兄貴。必ず幸せになってよね」
「ああ……」
竜はそう答えると、突然黙り込んだ。何故ここへ来て、亮に会おうと思ったかはわからない。しかし瞳と会った後は、心がざわつくのを止めるのに必死である。刻一刻と近付く結婚という二文字を前に、一人でいたくはなかった。
そんな竜は、亮に会いに来たのは間違いだったと思い知らされた。マリアのことや真紀のことが思い出され、腹立たしくもなってくる。
「もう行くよ……邪魔して悪かったな」
そう言うと、竜はそのまま亮の部屋を出ていった。
残された亮は、竜を心配していた。突然結婚を決めたこと、仲の悪い父親との会食も受けていることなど、今までの竜からは考えられない行動に、不安を募らせる。だが同時に、何も語ろうとしない竜を前に、自分に出来ることなどないということも思い知らされていた。




