3-15 竜の決断
マリアはホテルの一室で、手持ち無沙汰にベッドへと座っていた。竜がどんな答えを持って帰ってくるのか不安でたまらない。また、竜に甘えてはいけないという罪悪感と、甘えてしまいたいという気持ちとが交差し、マリアの心は沈んでいた。
一方の竜は、またもや悪夢の中で目を覚ました。時間を見ると、もはや夕方である。時間もなく、これ以上何も考えられないといった様子で、竜はマリアの待つホテルへと向かった。
竜が部屋に入るなり、マリアは座っていたベッドから立ち上がり、不安げな表情で竜を見つめる。
それを見て、竜は安心させようと、静かに微笑んだ。
「ごめんな。待たせて……」
「いいえ……」
申し訳なさそうにしながらも、不安に目を泳がせるマリアに、竜は優しく笑う。
「大丈夫だよ。これからは一年前と同じく、一日一万でいいそうだ。本当はそれでも高いと思うけど、それ以上は無理だった……受け渡しも、外で待つこともない。真紀の使者が取りに来るはずだ。だからこれからは、寝る間を惜しんで働くなどということもないだろうし、夜の商売だってしなくていい」
竜の言葉を聞いて、マリアは驚きに目を見開いた。
「……本当ですか?」
「本当だとも。なに、たまたま親父がこっちに来ているから、間に入ってくれてね。一緒に真紀を説得してくれたんだ。それほど真紀の申し出はひどいものだったってことだよ。安心していい……そうと決まれば、仕事が見つかるまでここを好きに使ってくれ。君が望むなら、一生ここを家代わりにしてくれたっていい。そのくらいはさせてくれ」
「……あ、ありがとうございます」
「礼はいいって。詳しいことは、また真紀から連絡が入るだろう……じゃあ俺、ちょっと食事会に出なきゃいけないから、もう行くよ」
「そうですか。お忙しいところを、本当に……」
「ハハハ。礼はいいって言ってるだろ?」
苦笑する竜に、マリアは頷きながらも、深々と頭を下げる。
そんなマリアを見て、竜は静かに微笑みながら、重い口を開いた。
「そうだ……君にも言っておかなきゃな。俺、近々結婚すると思うから」
竜の言葉に、マリアは驚いた顔を見せた。竜に結婚を決めた女性がいることなど、聞いたことがない。
「相手は子供の頃から知ってる人でね。まあ見合いに近いけど、なぜだかあちらも俺のことを気に入ってくれているみたいだし、俺もそろそろ身を固めたいと思っていたから、二つ返事で受けたんだ。美人な上に、地位も財産も持ってる申し分のない人だって、珍しく親父も乗り気で……」
「まさか……私のせいですか?」
マリアが言った。
竜は一瞬、言葉を詰まらせる。だが目の前にいるマリアは、必死な顔で自分を見つめている。
「私のせいではないのですか? あの時も……一年前も、私のために……」
「自惚れはよしてくれ!」
叫ぶように竜が拒んだ。マリアは驚き、俯く。
「す、すみません……」
「……黙っていてごめん。でも、こういう話はずっと前から出ていたんだ。俺も気に入ってる女性だよ。これからは君にばかり構っていられなくなるとは思うけど、君のことは大事に思ってる。良き友人だ……だから困ったことがあれば、俺を頼ってほしい。まあ、今までも君が俺を頼ってくれることはなかったと思うけど……」
「いいえ……こちらこそすみませんでした。ご結婚おめでとうございます」
「ああ……ありがとう」
マリアは微笑むと、深々と頭を下げる。
「私は大丈夫です。これからは、ご心配やご迷惑をかけないように気を付けます。どうかお幸せに……」
その言葉は、竜の胸をえぐるような痛みを与えた。だが、それを抑えて竜も微笑む。
「ああ、君も。本当に……些細なことでも何かあったら言ってくれ。これからも、俺は君の交渉人でいたい」
「……はい。ありがとうございます」
社交辞令に似たマリアの返事を受け、竜はそれ以上何も言わず、部屋を出ていった。
一人になったマリアは、複雑な思いでいた。竜と結ばれることはなくとも、竜の優しさを手放したくないという気持ちはあった。そんなずるい自分を醜いとも思ったが、竜が結婚すると聞いて、寂しさを感じつつも、心から祝福と感謝の気持ちでいっぱいになる。
「最後までありがとうございました……結婚を決めたお相手がいるのに、私のことを気遣ってくださったなんて。本当にありがとうございました……」
誰もいなくなった部屋で、マリアはそう呟いた。そしてこれからは一人で生きていくと心の中で誓い、部屋を後にした。
虚しい思いが駆けめぐり、竜は行き場を失くしていた。しかしこのままではいけないと、指定されたレストランへ向かう。
レストランに入るなり、竜は同時にやってきた亮と顔を合わせた。
「亮……」
「兄貴……大丈夫?」
一言目に、亮は心配そうにそう尋ねたが、竜はその真意がわからずに首を傾げる。
「え?」
「あ……なんでもないならいいんだ。ただ、急に結婚だなんだってお父さんから聞かされて……びっくりしたよ。何かあったわけじゃないんだね?」
「ああ……何もないよ。瞳さんとは知らない仲じゃないし……」
「そうだね。僕は何度か会った程度だけど、子供の頃から知ってる人だもんね。兄貴が決めたなら、僕は本当に祝福するよ」
何も知らない亮が、心からの祝福でそう言う。
竜は笑顔で頷いた。決して脅されて結婚を決めたわけじゃない。マリアのためを思ってしたことでも、それを公言するつもりもなかった。特にマリアと亮にだけは言えないと思う。
その日、両家の食事会が行われた。竜は驚くほど自然に振る舞い、その態度は織田氏や真紀をも驚かせるほどだった。
「今日はありがとうございました」
二人きりの夜道を、竜が瞳にそう言った。
織田氏に促されて、瞳が泊まるホテルに、二人きりで帰ることになったのだ。
「いえ、こちらこそ……」
瞳は内気な性格のようで、言葉少なくそう答える。
二人はしばらく黙ったまま歩き続けた。だがやがて沈黙に耐えられなくなったように、竜が口を開く。
「ひとつ聞いてもいい?」
「はい」
「どうして俺を選んでくれたの?」
素朴な疑問だったが、瞳は照れて頬を赤く染める。やがて意を決したように口を開いた。
「ずっと好きだったんです。子供の頃から……」
「……どうして? 俺は昔から、問題児だったんだけど」
「でも竜さんは、私のことを助けてくれたんです。どこかのパーティーに出席したとき、子供たちはみんなで仲良く遊んでいたんですが、私は内気な性格で、他の子に馴染めずにいました。そんな時、竜さんが声をかけてくださって、無理に私の手を引っ張り、仲間に入れてくださったんです。その時から、私は……」
あまりに遠い昔で、竜にその記憶はなかった。だが竜の性格上、そういうこともあったかもしれない。
「覚えてないなあ……」
正直にそう呟いた竜に、瞳は初めて笑った。
「覚えていないのは当然です。だって竜さん、他のパーティーでも、他の女の子にそうしてましたから」
「え? 俺、そんな頃から女性好きだったかな」
「いいんです。竜さんが覚えていなくても、私にとっては大切な思い出です。その時から、私はずっと竜さんが好きでした。こうして縁談に応えてくださったこと、感謝しています」
はにかんだ瞳の顔は、美しさの上に可愛らしさも兼ね備え、一歩引いたところがマリアを連想させる。
竜は一瞬押し黙ると、静かに微笑んだ。
「じゃあ、もうひとつ聞いていい? どうして今の時期だったの? どうせなら、もっと早くでも良かったのに」
「それは……私ずっと勘違いをしていて、竜さんは真紀さんと結婚したものとばかり思っていたんです」
瞳の言葉に、竜は驚いた。
「え?」
「大人になるにつれ、会う機会も減っていったある日、噂でお二人がお付き合いしていると知りました。その後、真紀さんが結婚したと知り、私の恋も終わったと思ったんです。でも最近、真紀さんが結婚したのは弟さんだったと知って、私の初恋は再び燃え上がりました。そんな時、偶然にも父がまた織田のおじ様と会う機会があって、これは運命だと思いました」
「……そう。よくわかったよ」
すべての疑問が解けたように、またすべてを諦めたように、竜は悲しく微笑んだ。
その後、二人は再び無言のまま、瞳が宿泊するホテルに向かう。やがて着いたホテルの前で、竜は瞳を見つめた。
「瞳さん。俺は……わがままで、頑固で、君が思うような男じゃないかもしれない。でも、俺もこの縁談が今の時期に来たこと、運命だと思う。瞳さんがこっちに滞在する一ヶ月間、俺を見て見極めてほしい。そしてそれでも俺で良いなら、結婚しよう」
告白と同等な竜の言葉に、瞳は感無量で涙ぐむ。
「きっと……良いです。もうあなたを想ってずいぶん経ちます。だからあと一ヶ月くらい待てます。あなたも私を見て見極めてください」
「……君ほど完璧な女性はいないよ。父や真紀もそう言っている。俺も……そろそろ結婚して落ち着いたほうがいいのかもしれないな」
「竜さん……」
「じゃあ、寒いから入ってください。くれぐれも、一人で外は出歩かないで。最近は暴徒が多くて、昼間でも物騒になってきているんだ。それから、俺の夜勤がない日は、食事でも一緒にしよう。この街を案内するよ。真紀とも仲が良いなら、家にも遊びに来てくれ」
「ありがとうございます」
何度もお辞儀をして、瞳はホテルへと入っていった。
それを見届け、竜は役人宿舎へと戻っていく。虚しさの中で、新しい風が吹き込んだのもまた事実だった。
(俺が関わることでマリアの立場が危うくなるなら、俺は身を引いたほうがいい……真紀がマリアの身を約束してくれた今、俺に出来ることは、親父たちの言うことを聞くことだ。マリアと結ばれないなら、誰と結婚しても同じ……彼女なら何の不足もない。とりあえず一ヶ月やってみよう。親父の望むままに生きてみよう。そうすることで、マリアも救われるのなら……)
空を見上げながら、竜の心はマリアのことでいっぱいになっていた。だが決して自暴自棄でなく、前向きに結婚もいいかと思う。そうすることで父親の顔も立てられ、真紀の意地や嫉妬もなくなり、何もかも順調にいくような気がした。




