3-11 酷な助け
「そんなに怯えて……ショックだな。俺はあの時、亮への嫉妬からおまえを憎んでいた」
卓の言葉の真意がわからず、マリアは卓を見つめる。
「亮はエリートでも、平役人だったあの頃から、実力のある人間だった。昔から知ってる俺でも、勉強やスポーツであいつに勝てたことは一度もない。最高指揮官に選ばれるための応援はしてたけど、心の底では羨ましくて仕方がなかった」
独り言のように、卓は遠い目で語り続ける。
「そんな時、亮はおまえに恋をした。亮が落ちていってしまう焦りと、亮がこのまま挫折してしまえばいいという憎悪が入り乱れていた。まあそれは、友情のほうが勝ったけどな」
目を泳がせながら、マリアは卓の終わらない話に耳を傾けていた。気を張っていないと、何をされるかわからない緊張感がある。
「おまえを見た時、あまりの美しさに驚いたよ。ネスパ人が天使と呼ばれる意味がわかった。だが、亮を陥れた女としての憎しみも強かった。妬みもだ。だからあの時、おまえが俺に色仕掛けでもしてくれれば、少しは違う未来になっただろうに……」
「でも……あの頃、あなたは私に憎しみしかぶつけてこなかったと思います」
意を決して、マリアが言った。
「もちろんだ。憎んでいたからな。でも遊びならどうだ。俺にはもう妻も子供もいるし、元からおまえと結ばれたいとは思ってない。感情抜きでつき合うなら、これほどふさわしい街はない」
挑発するような物言いの卓の腕から逃れるように、マリアは近くの路地裏へと駆け込んだ。そしてくるりと振り返ると、卓と距離を取って口を開く。
「私は……まだ娼婦じゃありません。一年間の休息を経て、これから働き口を探すつもりでした。あなた様のおっしゃる意味はよくわかりませんが、今日は私の新しい人生のスタートの日です。ですから、どうか……今日のところはお引き取りください」
そう言ったマリアに構わず、卓はマリアへともう一度近付いた。
「甘いな。新しい人生をスタートさせたいなら、何があってもおかしくない。それにこの街で働くなら、俺も客として行くことになる。今日も明日も同じじゃないのか?」
「それは……」
「それに、客は俺みたいに優しい人間だけじゃない。変な趣味を持った人間、理不尽な要求をする人間、たくさんいる。誰彼構わず受け入れるより、少しは知ってる人間のほうがいいんじゃないのか?」
間髪入れずにそう言った卓に、マリアは一瞬考え込む。
その時、卓がもう一度マリアの腰に手を回してきた。
「何を……」
「教えてやるよ、この街で生き抜く術を。大丈夫、亮にはこんなこと言わないよ。もっとも、亮はおまえのことなんか考えもしないと言っていたがね」
マリアの目が、一瞬大きく見開いた。わかっていたことだが、他人からそんなことを言われるのは辛い。
「そうか。まだ亮が忘れられないんだな。でも、それもいい……忘れさせてやろうじゃないか。おまえは、顔だけは綺麗なままだ。俺の遊び相手には相応しいよ」
卓はマリアの手を自分の首に回させると、マリアの口にキスをした。マリアにとって、それは拒む暇もなく素早い行為だった。
卓の言葉に傷ついたまま、マリアは悲しげな瞳で卓を見つめた。
マリアの脳裏に辛い過去が蘇る。好きでもない相手とキスをするのは初めてではなかった。牢獄で受けた仕打ちは、目の前にいる卓から受けるものよりずっと辛いはずだ。そう考えると、卓の申し出を断る理由はないのかもしれない。
しかし今のマリアはどうしたらいいのかまったくわからず、放心状態のまま、無意識の涙を滲ませている。
「おい……」
その時、卓の腕が他人によって捻り上げられた。
突然のことに、驚いて振り向くそこには、役人の制服姿の竜がいる。
「竜さん……!」
驚いたのは卓だけではない。そこにいるマリアも、その顔にほっとすると同時に驚いた。
「もう夜の規制は外れる時間だ。日本監査のお偉いさんでも、大っぴらな売春は許されないぞ」
竜の低い声が響く。
卓は一瞬、驚きに体を竦ませたが、すぐに苦笑した。
「ネスパ人への聞き込みも、僕の仕事のひとつですよ。竜さんこそ、朝早くからご苦労様です」
「夜勤明けでね……もう終わりの時間だ」
「こっちは一年間の出張です。これから会うこともあると思いますので、よろしくお願いします」
「ああ、聞いてるよ。でも、おまえが居た頃の街じゃない。規制緩和があっても、そう軽々しい態度はやめたほうが身のためだ」
「ええ、心得てますよ。では、また今度……」
マリアへ目配せして、卓はその場から去っていった。竜を前にしても、変わらぬ態度であった。
残された竜は、悲しそうにマリアを見つめる。
「あの……ありがとうございました」
何も言わない竜に反して、マリアは先にそう言った。
竜は言いにくそうに、まだ口をつぐんでいる。
「……あの」
居たたまれない気持ちになりながら、マリアはそう続けた。あまりに悲しそうな竜の目は、いつでも自分を責めているようで、苦手意識もある。
「……大丈夫だったか?」
緊張したままのマリアに反し、竜は優しくそう尋ねた。
「はい……」
「卓と知り合いだったのか?」
まるで嫉妬心を隠すように、静かに竜が続ける。
卓とマリアの関係は、竜にはわからなかった。ただ偶然にも二人のキスシーンを見てしまい、竜の知らない二人の過去に、何かあったのかと疑惑が浮かぶ。
「知り合いというほどでは……」
マリアはそう言ったものの、竜はそれだけの答えでは許してくれないようで、答えの続きを顔で求めている。
仕方がないので、マリアは言葉を続けた。
「昔に何度かお会いした程度です。ほとんどお話ししたこともありません」
「……そう。じゃあ、あいつに何を言われたんだ? 来て間もない人間と、しかもほとんど話したこともないという人間と、そう簡単にキスする間柄なのか。それとも、君がそんなに軽い女とでも?」
竜は少し怒っている様子で、マリアを見つめている。
「……」
「ああ……そんなことより、どうして君がこんなところへ? 俺は聞いていないぞ。真紀がまた何か……」
「いいえ。ただ……もうお休みは終わりです。これからまた一年前と同じように働こうと、働き口を探してここへ来ました」
言葉少ないマリアに、竜は真意を探ろうと、必死に耳を傾けている。
「ここがどこだがわかってるのか? 堅気の職を探さず、初めからここで働くつもり……」
「はい。初めから、ここで働くつもりです」
きっぱりと、マリアはそう言った。その言葉に驚いている竜に、マリアは言葉を続ける。
「卓様は……偶然私を見つけてくださって、買ってくださると言ってくださいました」
「……君は売り買いされるような女だったのか? 真紀に何かを言われたとしか思えない!」
絶望的なマリアの言葉を聞いて、竜は信じられない思いでいた。
「……職を選んだのは私です。まだ……雇っていただけるかはわかりませんが……」
目を伏せて、マリアはそう続ける。
「じゃあ、養育費の額を教えてくれ」
それを聞いて、マリアは目を泳がせた。まるで竜には敵わない。
「それは……」
「ネスパ人がそう簡単に嘘をつけないのは知ってるよ。大した問題じゃない。教えてくれ」
「……」
「言えないというのは、相当な額なんだな?」
竜の言葉に、マリアは首を振る。稼げない額ではないため、誤解はされたくない。
マリアは静かに口を開いた。
「……二万、です」
一瞬、竜の目が少し見開かれるのがわかった。竜にとっても、予想以上の金額に驚いたのだ。
竜はすべてを理解すると、何度も頷き、マリアの頭を優しく撫でる。
「わかった。また俺に、真紀への交渉を任せてくれるか?」
なぜか酷な言葉に聞こえた。なぜ固めた決意を前に、この優しい男に出会ってしまったのか。
マリアは眉を顰める。
「私は大丈夫です……純真な少女でもなければ、純潔な人妻でもありません。誇りを持って夜の商売をしている人たちに倣って、私も何でも受け入れる覚悟で来ました」
「……わかった」
竜はそう言うと、おもむろに自分の財布を取り出した。
普段はあまり金を持ち歩かない竜だが、昨日が給料日で飲み会だったこともあり、十万と数千パニーの大金が入っている。そのすべてを差し出して、竜はマリアを見つめた。
「いつかもこんなことがあったな……あの時、君は金を受け取らなかったが、何でも受け入れる覚悟である今の君なら、きっと受け取れるんだろう……足りない分は後で渡す。とりあえず約一週間、俺の元にいて猶予をくれ。俺の好きにさせてくれ。真紀との交渉を許してくれ」
痛いくらいの竜の愛情を、マリアは即答で受け入れることも拒否することも出来なかった。ただ金で売り買いされる今後の自分を案じ、頷くしかないと感じさせる。




