3-9 別れの時
その夜、マリアはいつも通りにコブの店を手伝うと、すべての仕事を終えて寝床につこうとするアルとコブを捉まえ、言いにくそうに口を開いた。
「あの……突然ですが、明日にでもここを出ようと思っているの」
出来るだけ軽く、笑顔でマリアはそう言った。だがそれに反して、アルとコブは眉を顰めてマリアを見つめる。
「突然、何を……」
「ごめんなさい。でも前から考えていたことなの。もうすっかり体の調子もいいから、これからバリバリ働くつもり」
「織田家の人間に、何か言われたのか?」
アルが尋ねた。
「……もう一年経ったから、元の生活に戻らなければならない時期だと思うの。それに、最初からわかっていたことのはずよ」
「それはそうだけど……」
「マスター。急に店を手伝えなくなってしまうけれど……どうか許してください」
マリアがコブを見て言った。
「……我々に遠慮してるなら、見当違いだぞ? 別の仕事を見つけるにしても、ここから通えばいいじゃないか」
「いいえ。東地区に戻ろうと思っているの。あちらのほうが仕事も多いし、お給料もこちらより高めだから。本当に、急でごめんなさい。でももう決めたんです。どうかよろしくお願いします」
そう言って頭を下げるマリアに、コブは何も言えなくなっていた。
「そうか……マリアの人生は、マリアのものだものな。俺たちがとやかく言う問題じゃないのか……」
「わかってくれてありがとう、マスター。恩返しも出来ずにここを出るのは申し訳ないけれど、私に出来ることがあれば、何でも言ってください。アルも……心配させてごめんなさい。でも、私は本当に大丈夫だから……支度があるので、部屋に戻ります。おやすみなさい」
マリアはそう言うと、足早に自室へと戻っていった。
「マリア」
部屋に戻るなり、追いかけてきたアルの声が、廊下から聞こえた。
一瞬、マリアの体が竦む。これ以上問いつめられたら、何もかも悟られてしまう気がした。心配などさせず、さっぱりと別れを告げたいと思う。
それでも、呼び続けるアルを無視するわけにもいかず、マリアは部屋のドアを開ける。
「マリア……ちょっと話をしてもいい?」
目の前に立っていたアルは、心配そうにマリアを見つめ、部屋の中へと入ってきた。
「俺にだけは、真実を教えてくれないか?」
「……真実も何も、さっき言ったことがすべてよ」
下手に悪びれて、マリアはそう言った。しかし、アルは表情ひとつ変えずにマリアを見つめている。
「君に手を触れて心を読もうと思えば、君の真意は俺にわかってしまうよ。だけどそんなことはしたくないじゃないか。今だって手を触れずしても、君の不安や焦りはわかる。織田家の人に、何か言われたんだろ?」
アルに言われ、マリアは静かに口を開く。
「アル。嘘なんてつかないわ……私はネスパ人だもの。そう簡単に嘘をついて、神に背くことはしない。でも、すべてを言う必要もないわ」
「一年間一緒にいたのに、俺はそれを聞く権利もないのか? おかしいじゃないか、急に明日出ていくなんて……」
「……わかったわ」
折れたように、そして半ば諦めたようにして、マリアは頷いた。そしてアルを見つめる。
「奥様が来られたの……以前と同じように、養育費を稼ぐことを命じられたわ。でも、この一年でも続けてきたことだから、今までと何も変わらない」
「今までと変わらない……また君は地獄に落とされるというのか? だったらこの一年、無意味なことになる。俺やクリスは何のために、君の治療に当たってきたんだ!」
「それは違うわ、アル。あなたに助けられていなければ、私は一年前の時点で死んでいたでしょう……だけど、あなたが助けてくれた。とても感謝しているし、こうしてまた昇のために、自分のために働けることが幸せで仕方がないのよ」
悲しみに暮れているように、アルは小さく震えていた。アルの脳裏に、一年前のマリアが思い出される。死にかけていたマリアを助け、ここまで回復した矢先に、また元の生活に戻ることは居たたまれない。
「……逃げよう、マリア。それか、織田竜氏に相談を……彼ならきっと、君を守ってくれるんじゃないか?」
そう言ったアルに、マリアは首を振った。
「わかって、アル。私はあなたの気持ちもわかっているわ。でも私の決意は固いの。それが献身的に治療してくれたあなたに対する裏切りというのなら、私はもうあなたに会わないわ。今までの治療費も、なんとか返すつもり。だからどうか行かせてください」
深々と頭を下げてそう言うマリアに、アルはもう頷くしかなかった。
次の日の早朝、コブとアルが見送る中、マリアは一年間過ごしたコブの店から出ていった。アルたちには、もう止められる術はなかった。
「今までありがとうございました。私は大丈夫だから、心配しないで。どうかお元気で……」
「マリア……いつでも帰って来ていいんだぞ。おまえはもう家族なんだ。金に困ったり何かあったら、遠慮なく帰って来い」
ぶっきらぼうだが、優しいコブの言葉が沁みる。マリアは笑顔で頷いた。
「ありがとう、マスター。本当にありがとう……アルも、元気でいてね」
マリアがアルを見て言う。しかし、アルはなんと言ったらいいのかわからずに、目を泳がせている。
「……今からでも遅くない。もう一度交渉を……」
やがて出たアルの言葉に、マリアは首を振る。
「一年前と同じ生活に戻るだけよ。辛いだなんて思わない。私は幸せだから、安心して」
「出来るかよ。安心なんて!」
アルはそう言うと、おもむろにマリアの手を掴んだ。その途端、マリアは心を見透かされるような感覚を覚え、アルの手を振り払った。
アルの脳裏に、マリアの感情が流れ込む。本当は押しつぶされそうなほどの不安を抱えていたマリアは、最後まで自分の口からそれを告げようとはしなかったのだと思い知らされる。
マリアの心情を知り、アルはもう何も言えなくなっていた。
「……ごめん」
悲しげに見つめるマリアに、アルは静かにそう言った。マリアは首を振り、お辞儀をする。
「じゃあ……もう行きます。本当にありがとうございました」
深々と頭を下げ、マリアはコブの店を後にした。
小さくなっていくマリアの後ろ姿を見つめながら、アルはマリアが来た日のことを思い出す。
「あの日は雪が降ってた……心から凍えそうな、冷たい夜だった」
静かにアルがそう言った。
隣にいたコブは、悲しみに暮れるアルを見つめる。
「アル……」
「最後まで笑顔だったな。マリア……」
「ああ……だが、あの子は一人じゃない。俺たちはもう家族だ。暇が出来たら戻ってくるさ。あの子だって、治療してくれたおまえの優しさも覚えてる。そうそう無茶はしないと信じたい。さあ、俺たちもマリアのいない生活になれなきゃな。中へ入ろう、アル」
コブの言葉に、アルもそっと微笑み頷く。
だがアルには、マリアがもう二度とここへは戻らない覚悟なのを知っていた。
早朝の街を歩きながら、マリアは西地区から東地区へと向かっていった。小さな街のため、大した距離ではないものの、その道のりは遠く感じられる。
二つの地区の中心には、最高指揮官邸がある。そこに差しかかると、マリアは長く続いた塀を見つめた。
(この中に昇がいる……また頑張るから、元気でいてね)
マリアは祈るように心の中で呟くと、東地区へと歩き始めた。




