3-8 再会の日
マリアの姿を見て、竜は俯いて無念に震えていた。
「……竜様?」
「……」
竜は何も言えない様子で、マリアを見つめている。そんな竜に、マリアは精一杯の微笑みを見せた。
「おかえりなさい。こちらに戻って来ていたんですね」
微笑むマリアに、竜は静かに歩み寄り、深々と頭を下げた。
「すまない! 出会って早々、こんな目に……」
震える竜に、マリアは首を振る。
「そんな……顔を上げてください。私のやり方も悪かったんです。昇にも……一瞬ですが、顔を見られてしまって……」
「尋問は俺の分野じゃなくて……あの混乱の中で、君がまさか逮捕されているとは知らなかったんだ。助けることが出来なくて、本当にすまない……」
「もうやめてください。私は大丈夫ですから」
その時、そばにいたアルが、二人の間を割るように立った。
「何が大丈夫だ! 片手骨折してるんだぞ? 顔だって腫れ上がって、身体じゅう殴られて……何が大丈夫なんだ!」
医者として、アルはマリアがもどかしかった。マリアは悲しそうな顔をして、アルを見つめる。
「……ごめんなさい」
身を削ってまで治療にあたってくれるアルに申し訳なく思い、マリアは謝った。しかし自分は無理をしているわけでもなく、大丈夫という言葉は嘘でもない。
そんなマリアの声を背中で受けながら、アルは部屋を出ていった。
残されたマリアと竜は、重い空気になりながらも、互いを見つめる。
「織田家は君に助けられた。あそこでパレードを中止しなければ、大惨事になるところだった。幸い、怪我人は出なかったよ」
「そうですか。よかった……」
竜の言葉に、マリアはホッと胸を撫で下ろす。
「……この一年、真紀に何か言われなかったか?」
「いいえ。お会いしてもいませんし……」
「そうか……」
それを聞いて安心したものの、竜は一年ぶりにマリアを見て、なんと言ったらいいのかわからない。
「ごめんなさい。アルが……」
その時、マリアは苦しそうに微笑んで、アルが竜を責めたことを詫びた。
「いいや。本当にすまなかった……ずいぶん痛むだろう」
腫れたマリアの顔を見つめて、竜がそう言った。しかしマリアは笑って首を振る。
「大丈夫です。アルの治療のおかげだと思うんですが、不思議とあまり痛みも感じなくて……」
「……そう。彼は医者だそうだね。昔からの知り合いなの?」
「いいえ。従兄弟のクリスが知り合いでしたが、一年前、たまたま助けてくれたのが彼なんです。私よりひとつ年下なのにしっかりしていて、いつも助けられています」
「そう……」
医者がそばにいるという安心感と、親しげな様子の嫉妬感が、竜を襲った。だがすぐに思い直してマリアを見つめる。
「……これからのことは、何か考えているのかい?」
竜の言葉に、マリアは静かに微笑みながら、首を振る。
「どうなるのかわかりませんし……でも、この一年間で、出来るだけのお金は貯めてきました。前ほど働いているわけではないですし、家賃なども少しばかり払っているので、心ばかりの貯金ですが……これからのことは、きっと奥様も考えておられることと思いますので、今はなんとかそれに応えられるように待つだけです」
「そうか……」
「竜さんは、最近はどうですか?」
思わぬマリアからの逆の質問に、竜は驚いた後、考えた。
「俺? そうだな……新設された部署に配属になったから、前より責任感もあって厳しいな。でも、特に前と変わらないと思うよ」
「そうですか」
二人は微笑んだ。マリアの笑顔を見て、竜は静かに立ち上がる。
「……じゃあ、そろそろ行くよ。長居してしまってすまなかったね」
「いいえ。わざわざありがとうございました」
「いいんだ。それより……前と違って拠点地区も違うから、あまり顔は出せないと思う。俺なんて邪魔なだけかもしれないけど、いつでも役人所経由で連絡はつくと思うから、何か困ったことがあったら、いつでも呼び出してくれ」
「ありがとうございます……」
変わらず優しい態度の竜に、マリアは微笑んだ。そんなマリアに、竜も頷く。
「じゃあ、お大事に……おやすみ」
「おやすみなさい。お気をつけて……」
「ああ。あと……」
行きかけたところで、竜は振り向いた。
「あと、昇は変わらず元気にしてる。頭の良い、優しい子だ。心配しなくていい」
その言葉に、マリアは優しい笑顔になり、小刻みに頷いた。
「ありがとうございます……」
「いや……じゃあ、おやすみ」
竜はそう言うと、マリアの部屋を出ていった。
一年間で溝が出来たように、少しばかりギクシャクした態度をお互いが取っていたが、マリアの笑顔は変わらず、また昇を想う気持ちも変わっていないようである。そんなマリアを、竜は未だに愛しいと感じていた。
マリアはそんな竜の優しい気持ちを知りながらも、未だ変わることのない想いを抱えていた。どんなことがあっても消えない、亮への想い。パレードの時に一瞬見えたのは、昇の姿だけではない。同じように見えた亮の姿が、脳裏から離れなかった。
一週間後。顔の傷が完治して、マリアは職場に復帰した。まだ手の骨折は治っていなかったが、なんとか仕事を続ける。
「マリア。もう店を閉めるよ。表の花を中に入れてくれるかい」
「はい」
夕方、花屋の店主に言われ、マリアは外へと出ていった。外に並べられた花を中へ運び続けていると、視線を感じて顔を上げた。
するとそこには真紀がいる。突然のことで驚きながらも、マリアは待ちかねていたその日が来たことを察し、真紀にお辞儀をした。
「すぐに参ります」
マリアはそう言うと、急いで花を片付けて店の戸締りをし、店を飛び出していった。
「久しぶりね。先日はどうも」
店の前に立っていた真紀がそう言った。一年前と変わらぬ冷たい口調が、懐かしく響く。
「申し訳ありませんでした……考えなしに飛び出してしまって……」
マリアは深々とお辞儀をして詫びた。緊急事態だったとしても、一瞬でも昇に顔を見られたはずだ。
申し訳なさそうにそう言うマリアに、真紀は溜息をついた。
「そうねえ。あれはいただけなかったわね。あの子、あの時あなたの声を聞いて言ったのよ。ママってね」
それを聞いて、マリアは目を見開いた。昇が自分を覚えていてくれた嬉しさと、取り返しのつかないことをしてしまったという罪の意識が、マリアの心を揺さぶる。
「申し訳ございません!」
頭を下げて、マリアはもう一度そう言った。
「こんなところでやめてちょうだい。喫茶店でも入って話したいところだけれど、一目につくのはまずいから、役人所に行きましょう」
「はい……」
真紀に言われるがまま、マリアは近くの役人所へと向かっていった。そしてそのまま取調室に入れられる。一番しっくりとくる立場の部屋だと思った。
「ずいぶん過酷な取り調べを受けたようだけど、先日の取り調べは私が噛んでいるわけじゃないの。今でも取り調べは、ああいうやり方が主流でね。どこでも捕まったらあんな仕打ちが待ってるわ。特に西地区は気性が激しくて……悪かったわね」
「……いいえ」
「どう? この一年は」
その言葉に、マリアの目が泳ぐ。どうと言われても、特に何もない。
「特には何も……でも、少なからずの貯金はしていました。そのまま奥様にお渡しします」
「そう。じゃあ今後はどうしましょうか。今も三つの仕事をかけ持ちしているそうだけど、体力は大丈夫なの?」
「はい。前ほど長い時間で仕事をしているわけではありませんし、お給料も安いです。でも前と同じように働けとおっしゃるなら、なんとか割の良い仕事を見つけて……」
マリアの言葉に、真紀は静かに微笑んだ。
「わかっているなら話が早いわ。早速ですが、一年前と同じ状況に戻ってもらいます。養育費は少し値上げして、一日二万パニー。昇もこれから小学校などで出費がかさむし、あなたが昔住んでいた家賃の肩代わりなども、少しも減っていないから」
「二万……わかりました……」
絶望的な数字だった。一年前に苦しんでいた額の倍である。名ばかりの好景気で給料は上がっている今でも、堅気の仕事では掛け持ちしても稼げる額ではない。
「それから、先日昇にあなたの姿を見られた慰謝料をもらわなくちゃ」
「慰謝料、ですか」
「そう。結果的にあなたにも命を助けられたことにはなるけど、優秀な役人たちが守ってくれたから関係ないわよね。せっかくあなたのことを忘れかけていたのに、また思い出させることをして……まったく迷惑な話ですから」
「昇は……私のことがわかったんですか?」
「あなたが本物の母親かどうかは別としても、あなたの存在を思い出したのは事実よ」
「……すみません」
そう謝りながら、マリアの脳裏に昇の姿が思い出される。いつの間にあんなに大きく、凛々しくなったのだろうか。そんな昇の姿を見られただけで幸せであり、昇のためならと思うと、なんでも頑張れる気がする。
そんなマリアを、真紀が現実に引き戻す。
「あなた、本当に反省してるの?」
「は、はい。すみません」
「まあいいわ。慰謝料は三万で結構よ。本来なら十万は欲しいところだけど、一応助けようとしてくれたみたいだし考慮します。その代わり一ヶ月以内で」
「はい……」
どれだけの重圧があったのか、マリアは目も眩む思いでいた。養育費に加えて追い打ちをかけられたように、堅気の仕事はまず無理だという印象を受ける。マリアにとって途方もない金額でしかなかったが、到底交渉の余地もない。
「受け渡し方法は……そうね、また夜中に裏門まで届けてくれる?」
「かしこまりました……」
「じゃあまたね。とりあえず今の仕事では到底無理でしょうし、新しい仕事を見つけるにしても、三日後からでいいわ」
「ありがとうございます。あの……東地区に行ってもよろしいですか?」
背を向けかかった真紀に、マリアが尋ねた。
一年前、真紀と別れる際に、東地区への立ち入りは禁じられていたはずだ。それは東地区のほうが都会で、真紀や亮と会ってしまう機会も増えるからである。
真紀は無言のままマリアを見つめる。
「……こちらの西地区よりも、東地区のほうが仕事もあります。物価もお給料も少し割高ですので、出来れば東地区へ……それに、今一緒に住んでいる人たちにも、そう簡単には会えなくなります。一人の生活に戻るには、東に戻ったほうがいいかと思うのです……」
何も言わない真紀に、マリアがそう説明をした。
「許可するわ」
そう言って、真紀は去っていった。




