3-4 心機一転
その夜、アルがマリアを叱ったのは言うまでもない。ただ再出発を切ろうというマリアの前向きさには、嬉しく思える。
「でも、よかったよ。元気になって」
マリアの診察を終えて、アルが言った。
「アルやコブさんたちのおかげです。私、早くみなさんに恩返しがしたい……」
「そんなこと、誰も望んじゃいないよ。コブの親父さんだって、普段はぶっきらぼうだけど、困った人を放っておけないだけさ。俺も親父さんに拾われたんだ」
「拾われた?」
ベッドに腰をかけながら、マリアはそばに座っているアルを見つめる。
「ああ。俺はもともと、姉貴と一緒に住んでたんだ。姉貴は歓楽街の娼婦。俺はその店の客引き。ある時、姉貴が病気で死んで、俺は天涯孤独になった。姉貴を救えなかったことを悔やんだこともあったし、金も稼げるしで、俺は医者になろうと思って、ドクターの病院へ行ったんだ。でも医者になりたきゃ学校へ行けって言われた」
アルは苦笑して、遠い昔を思い出す。
「学校に行きたくても金がない。そんな時、歓楽街にいる娼婦の姉さんたちが、俺の後押しをしてくれた。俺はチビで可愛がられてたから、みんなが少しずつお金を出し合ってくれて、入学金になった。そうしたら、もう後には引けないさ。必死に勉強したよ」
「ええ……」
「学生時代、ドクターのところへ何度も押しかけて技術を学んだ。その伝手で、コブの親父さんの家に世話になることになったんだ。親父さんもその頃、奥さんを失くした直後だった。お互いに天涯孤独。今では本当の親子みたいに思ってるんだ」
屈託のない笑顔でそう言うアルに、マリアも微笑んで頷く。
「みんないい人……私、やっぱり恩返しがしたい」
そう言ったマリアに、アルは苦笑する。
「逆効果だったかな。だから恩返しなんていらないって言いたかったんだけど」
「大それたことは出来ないと思うけれど、役に立ちたいんです」
「マリア……」
アルももう、何も言わなかった。
「ああ、そうだ。この間クリスが来たんだ。君の従兄弟なんだろう? 俺、同じ学校の同級生なんだ」
突然、アルが話題を変えてそう言った。
「クリス……本当に?」
「ああ。年は違うけど、俺たち二人は仲が良かったんだよ。地区が変わって会わなくなったけれど、君のことをずいぶん心配していたよ。今度また会う機会も作ろう」
「ええ。でも、クリスはきっと私を許してはくれないわ……」
マリアが静かにそう答えたので、アルは怪訝な顔をする。
「え?」
「私は彼を……ネスパ人全員を裏切ったのだから……」
「……君が日本人を好きになったことは知ってる。クリスの婚約者だったことも。でもそれは裏切りにはならないはずだ。人の心は簡単には止められないよ」
アルの言葉に、マリアは首を振った。
「止めなければならないこともあった。それなのに私は、今になっても忘れることも出来ず、罪を重ねているわ……」
暗い表情になったマリアの肩に、アルが静かに触れる。
「クリスは君を心配してた。大丈夫だよ……ただでさえ病み上がりなのに、心が沈んでしまってはいけない。そろそろ寝よう。それから店へ出てもいいけど、親父さんの言うことは聞くこと。まだあまり歩かないこと。無茶はしないこと。いいね?」
「ええ……」
「俺のが君よりひとつ年下だったよね? それなのに説教じみたことを言ってごめん。でも医者の言うことだからきかなきゃね」
「ええ、アル先生」
「先生はよしてくれよ」
二人は微笑んだ。
「じゃあ、おやすみ。また明日」
「おやすみなさい……」
一人残されたマリアは、ベッドの上で昇の写真を見つめた。昇に恥ずかしくない再スタートを切ろうと思う。
「昇。ママ、頑張るからね……」
その日からマリアは変わった。リハビリも続け、一ヶ月後にはまっすぐに歩けるようになった。コブの店の手伝いも、次第に任される仕事が増え、それをこなしていく。
そんなある日――。
「外で働きたい?」
マリアの相談に、アルとコブが顔を見合わせる。
「べつに、ここでの生活費ならいらないぞ? バイト代も出すよ」
コブが言う。マリアは申し訳なさそうに口を開いた。
「いいえ。バイト代なんてとんでもないです。今後も住まわせてくださるなら、家賃としてください。コブさんに迷惑をかけず、お金を稼ぎたいんです」
「どうして……」
「……養育費を、稼いでおかないと……」
「どうして? 一年間は何もしなくていいって言われてるんだろ?」
アルが言う。
「いいえ。出来るだけ稼いでおけと……私もそう思います。借金も残したままですし、どうせ一年後にはまた要求されるものです。今から稼いでおきたいんです」
頑なまでのマリアの言葉に、コブは静かに頷いた。
「マリアの身体がもつならいいさ。とても駄目だと言ってきくような目じゃないしな。でも、少しでも辛くなったら止めろよ」
「はい。ありがとうございます」
ほっとしたように微笑み、マリアは深々とお辞儀をした。何もない今だからこそ、金を貯めておく必要があった。それは真紀からの指示でもある。
真紀には意識を取り戻してすぐに、居場所を伝えた。少なくともマリアに逃げ場はない。
数日後から、マリアはコブの紹介で、すぐ近くの花屋で働き始めた。数週間後には、喫茶店での仕事も増やす。コブの店も出来るだけ手伝うようにしていたが、他で働くマリアに、コブは仕事を振ろうとはしない。それでもマリアは、出来る限りの手伝いを続けた。マリア自身は辛くはなかったが、アルや周りの人間の心配は続く。
クリスも仕事で忙しかったが、合間を縫ってはマリアの様子を見ていた。普通に会話を交わし、回復していくマリアを見ながら、クリスは複雑な思いでいた。
数ヶ月後。マリアは順調に新しい生活を送っていた。
織田家から離れ、何もかもから解放されたような感覚だったが、それでもマリアは必死にお金を貯めようと必死である。朝は喫茶店、昼間は花屋で、夜はコブの店を手伝っている。
「マリア!」
夕方、店じまいの花屋の後片付けをしているマリアに、仕事帰りのアルが声をかけた。
「アル。早いのね」
「まあね。一緒に帰ろう」
「ええ、ちょっと待ってね」
マリアはそう言うと、店の戸締りをして出てきた。店主である老夫婦は、すでに早上がりしている。
二人は歩き始めた。
「調子はどう? 気分は」
すかさずアルが尋ねる。その問いかけに、マリアは笑った。
「いつも同じ質問するのね」
「医者だからね。君は俺の患者だ」
「そうね。でも大丈夫よ。そんなに心配しなくても、私は丈夫だから」
「まあね……確かにネスパ人の生命力はすごいよ」
そう言って笑うと、アルは話を続ける。
「マリア。どうしてネスパ式の医者に、女性の医者が少ないのかは知ってる?」
突然、アルがそう尋ねた。
「いいえ」
「本来、俺たちネスパ人だけが持つこの不思議な力は、女性のほうが強いんだ。でも、女性は自分のことなんか顧みず、その人を助けようとする。そのせいで死んでしまったりすることが多くて、危険だからと力を使うことを禁止された節もあるんだよ」
「へえ……」
「俺たち医者の最初の勉強は、自分の力をコントロールすることから始めるんだ。自分を犠牲にしてまで使う力は、医者とは呼ばないからね。俺はマリアが、そういうコントロールの方法を学ぶべきだと思うんだけど……」
アルが言いたいことを理解して、マリアが苦笑する。不思議な力を使わないまでも、マリアの全力での働きぶりに、歯止めをかけたいのだ。
「無理だわ。そんなこと……」
「え?」
きっぱりとそう言ったマリアに、アルは怪訝な顔をする。
「私には、大事なものがたくさんあるの。もちろん、あなたやコブさんたちもその中にもう入ってる。私には自分の命の重さがわからない。だから、自分の命より大切な息子のためなら何だってしたいと思うし、大事な息子を育ててくれて、借金の肩代わりまでしてくれた向こうの奥様にも、きちんと応えたいの。そのために死んでも悔いはない。ううん、私はそのために生きてるのよ」
「……マリア」
マリアの微笑みに、アルは何も言えなくなっていた。
そんな時、向こうから数人の女性が声かけてきた。歓楽街の女たちである。
「アルフレッド。最近、顔も出さないのね。女が出来たって噂、本当だったんだ」
女たちが口々に言う。
「マリアのこと? 違うよ、俺は彼女の主治医なだけ」
「そんなのどうだっていいよ。いつ店に来てくれるの?」
「俺だって、仕事が忙しいんだよ」
居場所を失くしたように、マリアは苦笑すると、アルの顔を見た。
「じゃあ私、先に行くわね」
「え? でも、夜道は危ないよ」
そう言うものの、アルは女たちに腕を掴まれ、動けないでいる。
マリアは大丈夫だと顔を振って、その場を去っていった。
「もう。なによ、あの女。本当に関係ないの? アル」
女たちは、なおもアルに絡んでいる。アルは苦笑した。
「なるほど……見知らぬうちに敵を作るタイプなんだな、マリアは……俺みたいな男が近くに居るからか」
ぼそっと、アルが言う。
「アル? ねえ、店に寄ってってよ」
「ごめん。俺も店の手伝いしなきゃ。俺が行くんじゃなくて、店に来いよ。お客様大歓迎」
「もう! コブの店の時間は、私たちも仕事なんだからね」
「そっか。じゃあ今度な」
「アル!」
アルは女たちの群れから出ると、コブの店へと歩き出した。
(しかし、マリアが来てもう一年にもなるかな。そろそろ織田家の使いが来るんだろうか……)
「あの」
コブの店に向かうアルは、そんな声で振り向いた。するとそこには、黒ずくめの日本人男性が立っている。
この辺りに日本人が来ることはあまりないので、アルは一瞬、息を呑んだ。
「……なんですか? お役人様」
「コブという人の店を探しているんだが、知らないかい?」
「……織田家の使いですか?」
アルはピンときてそう言った。たった今、考えていた予感、アルの持つ特殊な能力が、ビリビリと刺激する。
相手の日本人も、アルの言葉に驚きつつ前へ出る。
「そうだ。俺の名前は、織田竜」
竜だった――。




