3-2 ドクター
そこから程近い場所にある居酒屋は、営業時間を過ぎて静まり返っており、店主と見られる中年男性が後片付けをしていた。
店主の名はコブ。街では有名で大きいその店を、一人で切り盛りしているやり手だ。妻も居たが、先立たれている。
そこにドアが開いて、マリアを背負ったままのアルが入ってきた。
「アルか。おかえり……って、その子はなんだ?」
コブの言葉に答えることなく、アルはコブを横切り、奥にある木の長椅子にマリアを寝かせた。そして呼吸を整えるようにしながら、その場に座り込む。
「ハア……」
「なんだよ、アル。女を連れ込んでおいて挨拶もなしとは、感じが悪いな」
「ハア……ごめん、親父さん。気を張っていないと、引きずり込まれそうで……」
ひどい汗をかきながらアルがそう言ったので、コブはアルに水を差し出し、首を傾げた。
「……この子は?」
「そこの広場で倒れてた。音を聞いたんだ。たぶん、馬車から放り出された……死にかけてるんだ。助けたい」
医者という立場であり、また正義感の強いアルを止めることなど出来ないのを、コブは知っている。なによりコブ自身も、目の前の人間を放ってはおけない性格だ。
コブは頷くと、アルを見つめて口を開く。
「どうすりゃいいんだ?」
「まずは俺の部屋に運ぼう。ベッドに寝かせて、部屋を暖かくするのが先決だ」
「なら客間を使え。客なんか来やしないからな。俺が運ぶから、おまえは暖炉に火をつけな」
「わかった」
コブの言葉に、アルは先に階段を上がり、二階へと向かっていった。二人は親子ではないものの、ずっと一緒に暮らしている。
アルはベッドカバーを取ると、暖炉に火をつける。コブは気を失ったままのマリアをベッドに寝かせ、次の指示を待った。
「なんて軽い体重なんだ。呼吸も途切れ途切れだし、こんな状態で助かるのか? アル」
「わからない……でも助けたい。親父さん、ドクターを呼んで。俺は内心分野の精神科医だ。外傷分野の医師が必要だ」
「わかった。すぐに呼ぶ」
無愛想ながらも、コブはテキパキと動く。アルもタオルなどをかき集め、お湯を用意したりした。
「アル。すぐに来るそうだ」
「よかった。こっちも準備は整った。親父さん、今から俺はこの子に触れて、少し催眠状態にする。心を休ませないと、身体の治りも遅くなるからね。でもはっきり言って、俺にとっても危険なことなんだ。死にかけてる人間は無防備で、俺みたいな人の心が読める精神科医は引きずり込まれやすい。危なそうだったら、無理にでも引き離してほしいんだ」
「わかった」
二人は頷き合うと、アルはベッドの横の椅子に座り、静かにマリアの手に触れた。
ネスパ式医療の精神科医であるアルは、人の思考がわかる能力を持っている。心が病んだ人の原因を突き止めることで、病気を治す専門医である。だが触れただけではわかるはずもなく、鍛錬な訓練が必要だった。
しかし、マリアは触れただけで思考が流れ込んでくる。同時にそれは危険な状態を示していた。身体的に傷付き、心が無防備の状態である今のマリアに触れるのは、アルにとってもリスクが大きいが、助けるためにはやらなければならないことである。
アルの手がマリアの手に触れた瞬間、アルに大きな衝撃が走った。マリアの過去が、無防備なまでにアルへと流れ込む。亮と出会い、別れ、昇を産み、離れ、真紀、竜、織田氏、金、収容所、刑務所……すべてのことがフラッシュバックのように、一瞬のうちにアルへと流れ込んだ。
「うわあああ!」
そう叫んだところで、アルはコブの手によって、マリアから引き離された。
「アル、大丈夫か!」
放心状態で息を荒くし、アルの目から涙が溢れ出す。
「大丈夫……この子の心も眠らせた。ひとまず大丈夫だ……」
しかし、アルの涙は止まる気配がない。
「様子はどうだ?」
その時、一人の男が部屋へと入ってきた。その姿は痩せて体系こそ違うものの、コブとそっくりである。
「ドクター……今、催眠で一時的に眠らせています」
アルは涙を拭いながら、男にそう言った。
男の名は、セイン。ドクターと呼ばれるその男は、コブの弟である。双子でもなく年も違うが、顔はよく似ている。街外れの個人病院でアルを助手に経営している、アルの師匠のような存在だ。
「ひどい傷だ。これは、拷問された痕……?」
アルはその問いかけに頷く。
「ドクター、彼女は地獄を見ています……どうか助けてあげてください」
涙目になりながら、アルが言う。ドクターは頷くと、マリアに触れた。
ドクターの医療分野は万能だが、内心治療を専門としているアルと比べれば、内心治療での力はない。だが、身体的な分野での力は凄まじいものがあった。
「おまえに言われなくても、目の前に患者がいたら全力で助ける。その代わり、我々もずいぶんと命を削ることになるだろうがな……」
「覚悟は出来ています。俺の力を彼女にあげてください」
「ああ……少しもらうよ」
ドクターはそう言うと、空いた片方の手でアルの手を掴んだ。繋がった手から光が放たれる。アルにとっては、力が吸い取られるように感じる。
マリアの顔色は変わらず真っ白なまま、死んだように眠っていた。
しばらくして、ドクターの手がマリアから離れた。
「今日の治療はここまでだ」
「ドクター、俺はまだいけますよ」
アルはそう言って、必死な目でドクターを見つめる。
「アル。一人の人間に力を注ぐのは、医者としてあるまじき行為だ。大丈夫、命は取りとめたから、じっくり治療していけばいい」
「……はい」
ネスパ式の医療は、例えば怪我などを不思議な能力で治すことが出来る。だがその分、医者となる人間の体力が奪われることとなるため、ネスパ式の医者になるには精神面から体力面までコントロール出来ることが問われてくる。その面では、アルはまだ私情を挟む分、未熟なようだ。
「カルテを作ろう。アル、メモを取ってくれ」
「はい」
ドクターはマリアの身体に触れ、アルはメモを構える。
「腕に注射針の痕……麻薬か」
ドクターが、苦い顔をして口を開く。
「そんなものまで……」
「思ったより深刻のようだな。相手は相当な知恵者だ。見た目の外傷は、弱りきっている以外はほとんどないが、服で隠れた部分はひどい。打撲に骨折、こりゃあ無事なところを探すほうが難しいぞ」
「はい……」
その時、ドクターがマリアの手を取った。片方の手は開きかかっているが、意識がないにも関わらず、今もなお握ろうと懸命だ。
その間から、千切れた写真が数枚落ちた。
「なんだ? これは」
「そうか、写真だ」
ドクターが言いかけた時、アルがその意味に気付いてそう言った。フラッシュバックするマリアの意識の中で最後に見たものは、細かく千切られた大事な写真である。
「写真?」
「意識の中で最後に見ました。大事な写真です」
「アル。この子の心で、何を見た?」
ドクターが振り向きざまに尋ねる。アルは俯くと、静かに口を開いた。
「苦しみが……見えました」
アルの言葉に、ドクターとコブが顔を見合わせる。
「苦しみ?」
「はい。漠然としかわかりませんが……日本人の顔が見えました。知っている顔もいました」
そう言ったアルの脳裏に、亮の顔が浮かぶ。この街で最高指揮官の顔を知らない者はいない。
だが心を読むとはいっても、フラッシュバックされる事柄に、予想を当てはめていかねばらない。確証を得るまでは、そのことは口外するべきではない。
マリアの意識の中には、織田家の面々の顔、そして不安と悲しみの中で、昇と繰り返される声だけであった。
「この子の名は?」
「マリア……と呼ばれています。たぶん彼女はその人と……日本人と愛し合い、無理に引き離されたんです。一人で産んだ、息子までも……」
「よくある話だ。日本人との結婚が許されたといっても、実際に結ばれたやつなんか見たことがない」
コブが言った。
「でも彼女は他の人とは違う。相手は政府の……地位のある人間だ。彼女の周りには、守ってくれる人が何人かいた。でも、それを思わしくない女がいた」
「男の妻だろう? それもよくある話だ」
「彼女は捕えられて拷問された。暴行も受けてる……」
一同は、重々しい空気の中で、眠ったままのマリアを見つめる。
「だけど彼女は、自分の罪を認めてる。なにより自分だけが我慢していれば、他が幸せになると思ってるんだ」
「典型的なネスパの女だな……助けよう。人並みの生活が送れるまで、この部屋はこの子にくれてやる。日本人は許せねえ……俺の妻も、罪もないのに捕えられて、収容所で殺された……!」
コブが怒りを露わにして言った。コブの妻は数年前、買い物途中に強盗団の入った店に居合わせたことで、犯人と疑われ、収容所で過酷な労働を強いられて死んでいた。病死とは名ばかりの死に様だった。
「兄さん。あんまり感情的にならないほうがいい。後を頼むよ、僕は家に帰る」
「そうだな……わかったよ」
ドクターはコブにマリアを託し、その場を去っていった。
「ハハ……久しぶりに感情的になっちまったな。しばらく起きないんだろう? おまえは何か食べるか?」
「うん……」
重過ぎる人の心を覗いて、アルはすっかり意気消沈していた。そんなアルの肩をコブが叩く。
「なんて顔だ。それでも医者か? この子を治してやるんだろう?」
「うん、そうだね……」
気を取り直して、アルはマリアを見つめた。マリアの心を眠らせてはあるが、身体的な痛みで苦痛の表情も見られる。
「昇……」
マリアが言った。
「しゃべった」
コブがマリアの顔を覗く。
「さっきもうわ言のように言ってた……たぶん、息子の名前かな」
そう言って、アルはマリアの固く握られた拳を無理にこじ開けた。中から細かい写真が零れ落ちる。アルはそれをすべて拾い上げると、布に包んだ。
「どうするんだ? それ」
「ジグソーパズルだ、捨てないで。その前に、ちょっと外へ出てくるよ。さっきここへ運ぶ途中、何枚か落としてたんだ。今ならまだ見つかるかもしれない」
コブの問いかけに、アルが答える。
「おい。外って、まだ雪が降ってるんだ。風邪引くぞ」
「大丈夫。すぐ戻るよ」
アルは雪が降り続く外へと飛び出していった。
意識を失くしてもなお握り続けているマリアには、何枚かの損失も痛手である。もしも復元出来れば、マリアの希望になると思った。




