1-3 警告
マリアが部屋で料理を作っていると、ドアがノックされた。
「はーい」
亮だと思った。しかしマリアが玄関口に出ると、そこには卓がいる。マリアは言葉を失った。
「君がマリアさん……だね?」
「……あの」
突然のことで、マリアは不安な表情を浮かべることしか出来ない。だが卓は機械的に口を開く。
「これは職務質問だ。しゃべることにためらわなくていい。聞きたいことがある。亮とはどういう関係だ?」
マリアの顔は、もはや真っ青だった。
「織田亮のことだ。正直に言え!」
「な、なんでもありません……」
「嘘をつけ! ネスパ人が嘘をついていいと思っているのか?」
卓がそう言ったのは、ネスパ人は古くから独自の神を信じており、嘘をつくことや自殺することなどが許されていないからだ。もちろん小さな嘘などはあるものの、それでも好んで嘘をつく人種ではない。
だがマリアは亮を守りたい一心で、苦しげに口を開く。
「本当です……そんな人、知りません……」
その時、卓の平手がマリアの頬を思いきり叩いた。
「正直に言えば、亮が罪を科されることはない」
その言葉に揺らいだが、マリアは口をつぐむ。
「……」
「収容所に入れられたいか。亮との関係は?」
「……知りません……」
それでもマリアは嘘をついた。それが神への反逆で許されないことだとわかっていても、亮が罰せられることは考えたくない。
卓は静かに口を開く。
「おまえがその気ならそれでいい。だが亮は優秀な人間だ。あの若さで最高指揮官候補に挙がるほどの……おまえは亮の未来を奪っているんだぞ。それをわかっているのか?」
「……」
「猶予をやる。一刻も早くここを立ち去れ。そして二度と亮とは会うな」
それを聞いて、マリアの瞳から涙が溢れ出す。わかってはいた。しかし、こんなに早く別れが来るとは思ってもいなかった。そして亮との未来を、どこかで信じていたかった。
「わかったか? いいか、次におまえと会う時は……」
その時、卓は床で寝ていた猫を目がけて、銃を発砲した。
「ああ!」
マリアが駆け寄った時には、もう遅かった。逃げる間もなく、もはや猫に意識はない。
「わかったか!」
卓はそう言うとマリアに背を向けた。そんな卓のコートを、マリアが掴んで止める。
「待って! よくも……どうしてこんなことが出来るんです。この子に何の罪があるというの?」
そう言われても、卓は相変わらず、不敵な笑みを浮かべているだけだ。
「猫にはないな……恨むんなら自分を恨め。そしておまえが懺悔しろ。それとも今、ここで殺してもらいたいか?」
「……よくも!」
次の瞬間、マリアは卓に掴みかかっていた。
「やめろ!」
その時、駆けつけた亮がそう言った。しかし、マリアは卓を掴む手を緩めない。
「やめろ、マリア! 本当に罪になってしまう」
「亮は黙ってて!」
亮はそう言うマリアを卓から離す。二人の視線が悲しく交差した。
「猫一匹に必死になりやがって……亮、おまえにも話がある。行くぞ」
「待ってくれ、卓。どうしてこんなことを……」
「いいから行くぞ。騒ぎを聞きつけて人が来ちまう。おまえにスキャンダルは許されないんだからな。おい、女。おまえもわかってるな? おまえの勝手な行動が、亮の死を招くんだ。覚えとけ!」
無理やり亮の腕を掴んで、卓がそう言った。亮は苦しそうな表情でマリアを見つめる。
「マリア……」
亮の言葉を聞きながら、マリアは別れを悟っていた。二人の未来は、もともとなかったのかもしれない。 マリアは決意すると、静かに亮に背を向ける。
「……さよなら」
それだけを言って、マリアは外へと飛び出していった。
「マリア!」
追おうとした亮は、卓に掴まれたまま止められた。亮は睨むように卓を見つめる。
「卓。これがおまえのやり方か?」
「……そうだ。今まで一緒にやってきた親友じゃないか。だからおまえを助けたい」
「これが助けだというのか?」
「世の中には結ばれない恋も多くある。すぐに忘れるさ。帰って話そう」
そう言う卓に、亮は首を振った。
「ごめん、卓……」
「おまえ……本気で頭がおかしくなったんじゃないのか? おまえがすべてを捨てられるわけがない。親も兄弟も、婚約者も……親友も地位も、おまえにすべてが捨てられるのか? 捨ててネスパ人になれるとでも思ってるのか?」
「……捨てられない。でも、あの子を捨てることも出来ない。今はマリアが一番大事なんだ」
「どうしてあんな女に!」
卓にとっては悔しい言葉だった。年は違えど亮とは親友で、ずっと一緒にやってきた仲だ。仕事でも信頼していたが、たった一人の女性のために亮が落ちていくのを見てはいられない。そんなもどかしさで、卓は苛立ちを隠せない。
「わからない。でも初めて会った時から惹かれていた……それは同情かもしれない。彼女を助けることで、僕に喜びがなかったわけでもない。でも僕たちは、間違いなく愛し合ってる。一緒にいるだけで安らげる相手が、いつかおまえにも現れるよ。僕の気持ちがわかる時が……」
「わからないし、わかりたくもない! 亮、忘れろ。おまえには未来がある。最高指揮官になるんだろう? それがどれだけすごいことか、おまえにだってわからないはずがない」
「もう有り得ない。マリアのいない未来なんて……」
亮のその言葉を聞いて、卓は掴んでいた手を離す。
「亮、なんで……」
「ごめん、卓……僕のことを考えてしてくれたとは、わかっているよ」
「……行け。行っちまえ!」
半ばヤケになって、卓が言う。
「……ごめん」
亮はそう言うと、その場から走り去っていった。
「あんな女一人に……」
一人になった卓は、やり切れない思いでいっぱいだった。道を外していく亮を止められなかった自分の無力さが、マリアへの怒りとなって大きく膨れ上がっていくのを感じていた。
マリアは亮とよく行っていた、路地裏にある小さなレストランへと入っていった。
店主は優しい中年男性で、亮と出会う前から、店の残り物がある時は分けてくれたりしていた。
「マリアじゃないか。その後はどうだい? 役人の旦那とうまくいってるのかい?」
人目を気にしながら、店主は密かにそう言った。しかしマリアは悲しげに首を振る。
「やっぱり元から許されない恋だもの。当然といえば当然よね……」
「それで、どうするんだ?」
「わからない。でももう会えないの……」
身体を震わせて、マリアが俯く。
「マリア……」
「かといって、この街からは出られないし……でも、少し遠いところまでは行こうと思ってるわ。捕まるかもしれないし……」
「捕まる? どうして」
「だって、禁じられている交流をしてしまったんだもの……」
「そうしたら、相手だってそうだろうに」
「亮は、きっと大丈夫……」
マリアは卓の言葉を思い出していた。わかっていたこととはいえ、亮の未来を潰そうとしていた自分に腹が立つ。冷静になってみれば、好きというだけで進んではいけない恋だった。
カウンターの内側に座り込み、マリアは膝を抱えた。
「お願い、マスター。夜中までここに居させてください。閉店になったら出て行くから……もちろん仕事も手伝うわ」
そんなマリアに、店主は微笑む。
「いつまででも居なさい。かくまってあげるよ」
「ありがとう。裏で皿洗いするわ」
「出たら見つかるからいいよ。きっと役人の旦那も、おまえを捜しているよ」
「まさか……」
その時、レストランに入って来たのは亮だった。マリアはカウンターの裏に座り込んだまま、人の気配に息を殺す。
「すみません」
その声に、マリアは目を見開いた。顔は見えなくても声でわかる。誰よりも愛しい人の声だ。
「すみません。ここに……マリアが来ませんでしたか? 大切な人なんです。なんとか会いたくて……」
亮は祈る思いでそう言った。店主はそんな亮を見つつも、首を振る。
「最近は見かけもしませんよ」
「……そうですか。では、もしもここを訪ねたら、日本人宿舎まで連絡をするように言ってください。僕の名前は、織田亮といいます」
「……わかりました」
「失礼しました」
そう言うと、亮はレストランを出ていった。マリアはカウンターの裏で、声を潜めて泣いている。
「マリア。本当にいいのかい? 彼なんだろ?」
「うん、いいの……」
「……同じネスパ人として、おまえが心配だよ。俺に出来ることがあればしてやるからな」
「ありがとう、マスター……でももう十分よ」
「マリア……」
「ごめんね、マスター。ごめんなさい……」
そう言うマリアの瞳から、涙が止まることはない。愛しているのに会えない苦しみが、マリアを包む。自分の存在が亮の未来を奪うと言われ、もう亮とは会わない決心をしていた。
数日後。亮はマリアを捜しつつも、有力な情報はひとつも得られなかった。マリアの安否を心配しながらも、誰に相談出来るものでもない。
「亮!」
そこに声をかけたのは、卓だった。
「亮、少し痩せたか?」
卓の言葉に、普段は温厚な亮が顔をしかめる。
「誰のせいだろうな……」
「そう怒るなよ。俺は、おまえのために……」
「余計なお世話だ!」
いつになく苛立っている亮だが、卓も負けてはいない。
「俺は後悔しないぞ、亮。いくらおまえが俺を怒っても、いつかおまえは俺に感謝する時が来る」
「卓。僕は……」
「亮」
その時、向こうから真紀がやってきた。
「卓もいたのね。その後どう?」
「二人とも、グルか」
真紀と卓に、険しい顔で亮が言う。
「人聞きが悪いわね。さあ、一緒に来て」
そう言って、真紀は亮の腕を取る。そしてそのまま、亮を連れて歩き出した。
「ちょっと待ってくれよ、真紀。どこに……」
「仕事で日本に戻ってたの。一緒に来た人がいるわ。会ってちょうだい」
真紀が連れていった喫茶店には、亮の見覚えのある顔があった。亮の父親である。
「……お父さん……」
言葉を失い、亮は目を見開く。
「元気そうだな、亮。まあ座れ」
「どうして急に……」
あまりに突然の出来事に、亮は驚きを隠せない。現最高指揮官として世界中を飛び回っている父親とは、親子であっても多忙でほとんど会う機会もない。
「こちらで仕事があってな。それより、真紀から聞いたぞ。おまえがネスパ人の女と……」
「待ってください。どういう用件です? 僕も忙しいんだ」
遮るようにして、亮が口をはさむ。
「ずいぶんな口を利くようになったな。私に口答えは許さんぞ」
すさまじい威圧感が父親から発せられ、亮は身を縮めた。
「すみません……でも、僕は……」
「まあ座れ。真紀からその話を聞いて、いろいろと考えた。でもおまえの相手は、真紀以外にはおらん」
父親の言葉に、亮の顔は凍りつく。父親の言葉は絶対と教え込まれ、どうやっても太刀打ちできる相手ではない。
「お父さん……」
「真紀は仕事も家柄も、申し分ない女性だ。昔からの知り合いだしな」
「僕は……僕には、愛している人がいるんです」
思い切って亮が言った。サラブレッドとして育てられた優等生である亮の、初めての反抗だろう。だが、ここで言わなければならないと思った。
「なに?」
「お父さんには感謝しています。僕がここまで来れたのは、お父さんのおかげです……でも、僕にはすべてをなげうってでも、愛してしまった人がいるんです……」
覚悟を決めてそう言った亮だが、父親は顔色ひとつ変えずに見据えている。
「……亮。おまえの将来は、もう決められている。おまえは私の息子に生まれた以上、私のものだ。それゆえ、そんな恋は叶わぬものだ」
「お父さん!」
「反抗は許さん。それに……そんなに愛しているのなら、尚更別れることだ」
「……どうして」
静かだが絶対権力を持つ父親の言葉は、想像以上に重いものだった。亮は震えるように、目の前の父親を見つめる。
「おまえもわかっているだろう? まだ法は許していないのだ」
「でも、お父さんだって……」
亮が言った。父親がいくら反対しても、自分の母親もネスパ人なのだ。
「黙れ……おまえには素質がある。だからおまえを日本人として大事に育ててきた。親子と言えど、おまえは私に恩義があるはずだ。それに応えねばならない。おまえはもっと勉強して、人の上に立て。そのために私はこの街の最高指揮官になり、今日もここへ来たのだ」
「……お父さん」
「それに、私がおまえの母親と結ばれることが出来たのは、法もない時代に異国で出会ったからだ。そして私の権力があったからこそだ。わかるな?」
「……はい」
「おまえの意見は通らない。私はおまえを最高指揮官に任命し、真紀と結婚させる。真紀はおまえと一緒になってくれると言ってくれた。だからおまえは真紀と結婚して、最高指揮官になれ。そうしたら、おまえのいう女は助けてやろう」
父親の言葉に、亮は顔を上げた。
「助ける? それはどういう……」
「私の部下が女を捜している。すぐに見つかることだろう」
「待ってください! 彼女は関係ない。彼女をどうするつもりですか?」
必死な形相の亮に、父親はうっすらと笑みを浮かべた。
「それは、おまえの出方次第だ」
「お父さん……」
「生かすか殺すか、明日まで考えろ。おまえ次第だ」
「そんなこと……答えは決まっています。でも……」
「明日聞く。真紀、行こう」
亮の父は真紀を連れて、そのまま喫茶店を出ていった。
残された亮は頭を抱えた。大きな権力を持っている父親に、逆らうことは出来なかった。しかし許さないとはいえ、マリアから離れることなど、もはや考えられない。亮は絶望の中で苦悩していた。