2-27 複雑なる感情
竜は牢の中で、ゆっくりと食事を続けるマリアに寄り添っていた。
一時期、マリアは何も受けつけない時期があったが、今ではゆっくりと食べれば、それなりの量を摂取出来るようになっている。
「もうすぐ親父が来るだろう……嫌なやつだ。俺も居ていいだろ?」
「ええ。でも大丈夫です。昇の写真までいただいて、これから頑張らないわけにはいきません」
食事を食べ終えて、マリアは箸を置いた。そして竜を見つめて微笑む。
「本当にありがとうございました。あなた様には、なんと言ってお礼をすればいいのかわかりません」
「もう、礼なんかいいって」
「でも……」
マリアはそう言いかけると、竜の肩に手を置いて、竜の頬に軽くキスをした。頬と頬を寄せるような挨拶のようなものだが、ネスパ人の風習で信頼を表す仕草である。それは竜も知っていたので、素直に嬉しかった。
その時、足音とともに、二人の目に竜の父親の姿が映った。
もはや警備員は階段の上で、竜が来たことでドアは開けっ放しだったため、薄暗い牢とはいえ、竜とマリアの姿は外から丸見えだ。
「ほら見ろ、亮。ネスパ人は悪女と言った意味がわかっただろう? ことにおまえの兄も、その毒牙にやられたらしい」
軽く後ろに居る亮に言いながら、織田氏が階段を下りてきた。中にいたマリアは正座をし直し、竜は怒りを露わにして拳を握る。
そんな二人の前に、織田氏は立った。そして冷たい目でマリアを見下ろす。
マリアは一気に緊張が走り、不安げに織田氏を見上げた。
「亮。おまえはこの部屋には入るな。変な病気にかかってもいかん。大事な身体だからな」
織田氏の言葉に、亮は無言のまま、部屋との境目に立ち止まった。
マリアの目は亮の一点に絞られる。ずいぶんと会っていない。まさかこんな場所で、こんな形で会うとは思ってもみなかった。自分の惨めさが最高潮に達する。
「どこを見ている。尋問の相手は私だ」
織田氏の言葉に、マリアは目の前にしゃがみこんだ織田氏を見つめる。その目は竜のように鋭く、奥に秘める優しさのようなものは、亮を感じる。
「尋問ってなんだ。様子を見に来ただけだろ」
すかさず竜が口を挟んだ。そんな竜に、織田氏は鼻で笑う。
「居ると思ったよ、竜。ネスパ嫌いのおまえが、ネスパ人に夢中とは皮肉なもんだな」
「この……」
相変わらず挑発するような父親の言葉に、竜は更に拳を握りしめる。
「勘違いするな。私は喜んでいるんだよ。結婚もせずフラフラしているおまえが、一人の女に執着しているとは、なんとも素晴らしいことじゃないか。その件に関しては、おまえに礼を言わねばならんな。なに、質問に答えるだけでいい」
織田氏はマリアを見つめると、静かに笑い、マリアの左手首を掴んだ。
あまりに突然のことで、マリアも驚いた。竜もすぐにマリアを庇う仕草をする。だが織田氏はそんな竜を止め、静かにマリアの手の平を、裏返したりして見つめる。
そして今度は、マリアの片腕の袖を捲り上げ、様子を伺う。マリアの腕には、無数の注射針の痕が残されている。一週間では消し去れなかった痕だ。
「ふうん。ずいぶん、いたぶられたようだな」
織田氏が言った。その声は低く、窓もない独房を反響するだけで、ドア越しの亮には言葉として聞き取れない。
マリアは掴まれたままの手を握りしめた。
「犯されたのか?」
その言葉に、マリアは織田氏と目が合ったまま、その目を見開き、泳がせる。そして居たたまれなくなって目を伏せた。
「ダボダボな服では隠し切れない細い身体、化粧で隠している顔の傷、すべて真紀の指図なら、相当なことが行われていたらしい。あいつは忠実に仕事をこなしてる」
観察しながら呟く織田氏に、竜は怒りを露わにして口を開く。
「もういいだろ。真紀の後ろで操ってるのがあんただってことは、当の昔から知ってる!」
「おまえは? 竜、この女をどうした。助けてやったのか? それとも一緒に犯し……」
「やめろ!」
「そうか。どちらでもないか」
竜はとうとう、織田氏の胸倉を掴んで睨みつけた。途端、マリアが首を振りながら、竜の手を掴む。
やがて離した竜に、織田氏は不敵に笑うだけだ。
「亮が駄目なら兄貴の竜か。おまえもやるなあ」
マリアは首を振り、織田氏を見つめる。とても口答えまでは出来なかった。
「さっきから何が言いたいんだ、親父。亮まで連れて来て、どういうつもりだよ!」
「社会勉強だ。おまえにも昔させてやっただろう? 一人の女が処刑されるシーンを」
竜の目が大きく見開いた。
一瞬のうちにフラッシュバックされたのは、未だ苦しむ悪夢である。亮の母親が、父親である織田氏の命令により、殺されるシーンだった。
「この野郎!」
「兄貴!」
今にも殴りかかりそうな竜の間に、亮が飛び込んできて止めた。会話までは聞こえなかったが、止めなければ織田氏が危ないと思ったのだ。
「大丈夫だ、亮。それよりも親の言いつけは守るものだぞ。ここに入るなと禁じたはずだ」
「でも、お父さんが危ないと思ったから……」
織田氏の言葉に、亮が言う。
「ならば、もう行こう。用は済んだ。おまえも来い、竜」
「俺はここに居る。マリアともう少し話がしたい」
振り向く織田氏と亮に、竜は拒んで睨みつける。
そんな竜に、亮は溜息をついた。
「兄貴、本当におかしいよ。ネスパ人にばかり構っているなんて」
亮の言葉に、竜は目を見開いた。
「ネスパ人って……マリアだぞ?」
「同じだよ。ネスパ人は……監視対象の危険民族だ。まして犯罪者なんて、人間以下だろ」
そう言い放ち、亮は父親の後をついていく。
竜は一瞬言葉を失くして、マリアを見つめた。マリアはその言葉に深く傷ついたような顔をして、悲しげに俯く。
「待て、亮!」
竜が叫んだ。だが、すかさずマリアが、止めるように竜の腕を掴む。
亮の真意はわからなかったが、振り向いた亮の目は織田氏のように冷たく、寄り添う竜とマリアを見て、更に顔を顰めた。
織田氏に焚きつけられるように言われた言いつけと、亮の中にある嫉妬心とが入り混じり、亮にも言葉の意味などこもっていない。
「止めるな、マリア。亮、謝れ!」
「本当のことだろ。ネスパの血が僕に半分流れていると思うと、ぞっとする」
怒り狂う竜に反し、亮は冷静にそう言い放つ。
「ハッハッハッハ。そう本当のことだ。亮、先に行け」
織田氏が豪快に笑うと、亮はそのまま階段を上がり、去っていった。
そのまま織田氏は、悲しみに暮れて見つめるマリアに笑う。
「残念だったな。所詮、日本人と結ばれることはないのだ。竜ともな。健康状態はまだまだ芳しくないが、これから生きるか死ぬかはおまえ自身に委ねるとしよう。予定通り、真紀にはここから出すよう言っておく。さて邪魔したな。最高指揮官殿がああ仰っているんだ。せいぜいクズはクズらしく、死んだように生きていけ。どうせA級犯罪者で汚れた身体のおまえには、もうろくな道など残されていない」
そう言い放ち、織田氏はその場から去っていった。
竜はマリアに掴まれたまま、興奮冷めやらぬ身体を震わせ、入口を見つめていた。
そんな竜の腕を、マリアがゆっくりと離す。振り向いた竜の目には、悲しそうに自分を見つめるマリアが映る。
「なぜ止めた? あんなひどいことを言われたんだ。あそこで掴まえて殴れば、あいつだって目が覚めるさ。謝らせられたはずだ。そうだ、あいつはあんな男じゃない。きっと親父に、何か焚きつけられて……」
「もう、いいんです」
必死なまでの竜に、マリアは静かに微笑み、首を振る。
「何がいいんだ。俺はあいつが許せない!」
「私は許します……だからもう、いいんです」
「マリア……」
マリアは悲しく俯く。
「許すも何もないですよね。私は日本人ではないのですから……」
竜はもう何も言えなくなっていた。亮が言った言葉が、未だに信じられない。それはマリアもそうだったが、亮を諦めなければならないひとつのきっかけとなっていた。
「……マリア。まだ亮を愛しているか?」
静かに竜が尋ねた。
マリアは顔を上げると、静かに頷く。
「どうして。あんなことまで言われて……こんな目に遭っているのは、すべてあいつのせいなんだぞ?」
「……諦めなければとは思っています。私がいくら想っても、良いことは何もありませんし……でも、どうしても消えないんです。孤独の中でただ一人生きていた頃、あの人は私に愛を教えてくれた……愛し合って昇を産んだんです。忘れられるはずがない。私の生きる支えなのだから……」
「だからって……本当に短い期間だったと聞いた。それだけで、あいつが君を縛る権利があるだろうか?」
「私が勝手に想っているだけのことです」
悲しげな目で、マリアは竜を見つめる。竜もまた必死な様子で、マリアを見つめていた。
小さく息を吐き、マリアは言葉を続ける。
「でも結果、不幸なことがたくさんありました。私が彼を愛したことで、こんなにも憎しみが生まれるなんて……だけど忘れなければと思っていても、どうしても忘れられないんです。だから私は、感情を殺しながらでも、時に彼を支えに生きていきたいと思っています」
揺るぎない想いが、痛いほどに竜の胸に染みる。それでも竜は、マリアを愛おしく感じた。
「……わかった。もう何も言わない。でもきっと俺の気持ちも、同じようにそう簡単には変わらないだろう。俺は明日、日本へ戻る。一年後、君と再会出来たら、この一年分の想いを、君にぶつけたいと思う」
「竜さん……」
竜はそう言うと、静かに立ち上がる。
「親父がうるさいから、今日はもう戻るよ。明日には君もここから出られるはずだ。また明日、出発前に顔を出すよ。今までこんなところでよく耐えたね……これからも懸命に生きるんだ。そして俺も君を見習って、一年で大きい男になりたいと思う」
マリアは悲しげに微笑むと、そっと頷く。
そんなマリアの手を取り、竜も優しく頷くと、静かに去っていった。
残されたマリアは、さまざまな感情に顔を曇らせた。亮の言葉も、竜の愛情も、織田氏の態度も、今のマリアにとっては、すべて受け入れ難いものだった。




