2-23 黒幕の助け舟
竜は用意していたロープを使って元来た壁を越えると、最高指揮官邸へと戻っていった。
想像を超えて恐ろしい目に遭っているだろうマリアは、あの場所から逃げようとしない。逃げても行き場はないのだと知っているのだ。きちんとした作戦を練らねば、マリアを救い出すことは無理だと思った。
部屋に戻るなり、電話が鳴った。竜はすぐに電話に出る。
「はい」
『……竜か。私だ』
電話の向こうから聞こえるその声に、竜は息を呑んだ。
「……親父?」
未だに竜の苦手とする、実の父親の声が聞こえた。避けている分、ほとんど会うこともなければ、こうして話すこともない。そんな相手からの電話に、竜は戸惑った。
『今日は休みだと聞いてな。実はおまえに頼みがあるんだが』
「何のだよ。あんたの頼みなんか聞けるか」
相変わらず自分の中にある拒絶が、話も聞かぬうちに父親を払い立てる。
『変わらないな、おまえは。まあ話くらい聞け』
低い声が響き、無言の重圧が圧しかかる。竜は椅子に座ると、受話器に耳を傾けた。
『実はな、おまえに日本に戻って、私の仕事を手伝ってほしいんだ』
父親の言葉に、竜は目を丸くした。
「なんで俺が、あんたの手伝いなんて……」
『亮はそちらの仕事で手一杯だからな。少々反抗的でも、おまえも一応、私の息子だ』
「思い通りにならない息子で悪かったな。俺はそんな仕事を受ける義理はないね」
子供のように反論する竜に、父親は軽く笑う。
『それはそうと、ずいぶん真紀を苛めているそうだな』
「ハッ。真紀が泣きつきでもしたのか。苛められてるのはこっちだよ」
『じゃあどうだ。おまえの要求をひとつ飲んでやるから、こちらの仕事を手伝うっていうのは』
「なんだよそれ。それに、そんなにまでして俺に手伝わせたい仕事ってなんだよ」
竜は苛立っていた。出来ることなら父親と関わり合いになりたくないというのが本音なほど、竜と父親の距離は離れている。だが結局いつでも父親は、絶対権力という名のもとに、竜を屈することも事実だ。
『簡単な仕事だよ。ただ、日本の警視庁に勤めてもらいたい』
「俺はもともと刑事だぞ。今度は平刑事じゃなくて、偉くなれってことか?」
『もちろん平刑事ではない。こちらに戻って来るなら、自動的に警部に昇進だ。一年間勤めてくれればそれでいい』
竜は首を傾げた。父親の意図することがわからない。
「どういうことだ?」
『私の息子であるおまえが警視庁に入れば、少しは歯止めが利くんでね。この頃、政治家の周りをうろついている刑事がうるさいんだ』
足を組み換え、竜は溜息をついた。
竜の父親は政治家をしている。警察官僚から政治家を経て総理大臣になった経験もあるため、各方面に顔が利き、狙ったところに息子という名だけで入れば、竜も一目置かれることとなり、その場所も父親の思いのままに操れるようになるということだ。
意図を理解して、竜は鼻で笑った。
「誰があんたなんかのために、そんなところに入るかよ。それに、俺は亮に呼ばれてここに来てるんだ」
『亮には私から言っておく。それにタダでとは言わない。そうだな……あのマリアって女を牢獄から出す、という条件はどうだ?』
不敵に微笑む父親の顔が、目に浮かぶようだった。
竜は目を丸くすると、怒りに身体を震わせた。そして拳で目の前のテーブルを思いきり叩く。
「そういう魂胆か! 俺が断れないって? いつでもあんたの思い通りだな!」
『そうだ。おまえはまだまだ子供だ。私の知恵にはまだまだ追いつかないだろう。だが私はおまえより大人だ。悪条件をおまえに提示したりしないよ。それとも、この条件では不足かな?』
竜は息を荒くしたまま、目を泳がせる。他の条件を考えようとしても、何も浮かばない。
そんな竜に、父親が言葉を続ける。
『まあそれに、私も真紀の様子が気になってな。あいつは思い詰める節がある。個人的理由で囚人を殺されると厄介だ。だから少し離したいとは思っているんだ』
竜の脳裏にマリアの姿が浮かぶ。いつでも笑顔を絶やさず、前向きに生きようとしていたマリアが、死ぬより辛い目に遭い、希望を失っている。ここで助けられるのは、今は父親しかいないことを痛感せざるを得ない。
「……その条件でお願いします。あのままだとマリアは……それとあの場所から出ても、無理難題は押しつけないことの約束を。前のように、一日中働き詰めなんてことがないように……」
静かに竜がそう言った。いつでもこの街を裏で手を引いているのは父親だった。真紀が父親に泣きついたのかもしれないが、父親が言えば真紀もおとなしく条件を呑むだろう。
『わかった。真紀にはそう話しておこう。だが竜。もうあの女とは関わるな』
「それは出来ない。彼女は……」
『二の舞になるぞ。あの女は……亮の母親によく似ている』
竜は目を見開いた。それと同時に、悪夢が生々しく蘇ってくる。日本人の亮を愛したマリアは、確実に亮の母親と同じ運命を辿っていた。
「……二の舞になんかさせない。彼女には俺がいる。亮の母親とは状況が違う」
『そうか。ネスパ嫌いだったおまえが、ネスパ人に入れ込んでいると報告を受けてまさかとは思ったが、本気なら、まあいい……一週間後に私は仕事でそちらに行く。それまでに身支度を整えておけ。帰る時は一緒だ』
その言葉と同時に、電話は切れた。
そのまま竜は頭を掻き毟って立ち上がり、部屋を右往左往する。父親の手を借りなければ、真紀を説得させることも、マリアを救うことも出来ない自分に嫌気が差す。また、やはり父親の思い通りに動かされている自分が、嫌で仕方がなかった。
真紀は役人所にある自分の部屋で、書類に目を通していた。竜が見たはずの伝言も見たが、対処せずに捨てた。
その時、真紀の秘書である男が入ってきた。
「指揮官。日本の織田氏から電話が入っております」
「お義父様から? 回してちょうだい」
「かしこまりました。すぐにお繋ぎ致します」
「あ、ねえ」
背を向けた秘書を、真紀が呼び止める。
「はい」
「私の机に触った? なんだか様子が違うのよね。誰か来たのかしら」
「いえ。私は今日、初めてこちらに入りましたので」
「そう……気のせいかしら」
真紀がそう言うと、秘書はお辞儀をして去っていった。途端、電話が鳴る。
「はい。真紀です」
『真紀か。私だが……どうだ、仕事は』
「順調ですけど忙しいです。それより竜に言ってくださいました? しつこく動き回るのはやめてくださいって」
『言ったよ。一週間後には、私と一緒に日本に戻る』
織田氏の言葉に、真紀は驚いた。少し父親から注意してもらおうという程度で報告していただけだが、あの頑固な竜が、いとも簡単に日本に帰るというのか。
「さすがお義父様。どういう魔法ですの?」
『どうということはない。利害関係が一致しただけさ。その条件に、おまえも一役買ってもらわなくてはならないがね』
「あら怖い。なんですか?」
『あの女の解放だ』
真紀は溜息をついた。織田氏の言葉は、絶対的な効力を持っているほど重い。
「その条件、損するのは私だけのようですね」
『そんなことはない。ずいぶんとやっているようだが、殺しとなると話は別だ。おまえが罰せられる可能性もある。今は距離を置いたほうがいい。そう、一年くらいな』
それを聞いて、真紀は口をつぐんだ。同じことを竜に言われても、絶対に聞かなかっただろう。だが、このままいけばマリアは獄中で死ぬだろう。半分は殺すつもりではあったが、限界を見てみたかっただけでもある。極秘の囚人とはいえ、個人的理由での拷問で殺したとなれば罪になる。
真紀はそれを察して、頷いた。
「わかりました。まだまだお義父様には敵わないわ」
『それはよかった。一週間後、私は議員代表としてそちらに視察に行くことになっているが、その時あの女の様子も見させてくれ』
そんな織田氏の言葉に、真紀は飛び上がるほど驚いた。
「なにを……お義父様のような方が来る場所じゃないですわ。刑務所視察なら他を案内します」
『それは仕事じゃないよ。様子見だけだ』
「でも最近あの子は、食事もろくにしていないと……」
「どれほどいたぶっているのかは知らないが、そちらは視察じゃないから安心しなさい。まあ好奇心というやつかな。それに一週間あれば、それなりに回復出来るだろう」
織田氏の真意は、言った通りの好奇心もあったが、どの程度の行為が行われているのか、この目で確かめてみたかったこともある。なぜならそれを真紀に指示し許してきたのは、他でもなく自分だからだ。そんなマリアが突然外へ出されても、のたれ死ぬのは目に見えている。今から一週間でも、食事や規則正しい生活をさせれば、外に出ても適応出来るだろうという賭けに近いものでもあった。
真紀にはその真意まではわからなかったが、今までの経験上、織田氏には逆らわないほうが身のためだということを知っている。
「わかりました……では、一週間後に」
『会えるのを楽しみにしているよ』
織田氏はそう言うと、電話を切った。
真紀はまたも溜息を漏らす。だが腹を決めると、書類へと向かった。




