2-22 君を愛してる
「……殺してください」
竜は目を見開いた。自分が持つこのナイフで、マリアの首筋を絶てというのか。あれだけ前向きに生きてきたマリアの今の状況を見て、竜は落胆した。どれほど辛い目に遭ってきたのか計り知れない。
ナイフをしまい、落ちた上着をマリアにかけ直すと、竜は思わず後ろから抱きしめた。
「嫌だ! 俺には出来ない、そんなこと」
マリアは優しい温もりを背中で感じ、堪えていた涙を流す。やがて竜は、マリアの前に座り直した。
「本当にすまない……すぐに助けられなかった。こんなところで、死ぬよりひどい目に遭わされたんだろうね。でも俺はここへ来られた。真紀は必ず説得する。だから……」
だがマリアは涙を流したまま、首を振る。
「マリア。ここから出よう」
それでもマリアは首を振る。竜はどうしていいのかわからず目を泳がせると、思いついたように口を開いた。
「そうだ。とりあえずメシにしないか。俺も腹が減ってね。すぐに持ってくるよ……」
竜はそう言って立ち上がる。せめて食事をして気分転換でも計れればと思った。
「竜様……」
立ち上がった竜の背中に、弱々しいマリアの声が聞こえた。竜は静かに振り向くと、マリアは悲しそうに自分を見つめている。
「マリア……」
「私には……自分で死ぬことが許されていません。奥様のご命令然り、ネスパ人として自殺という最大の罪で神に背くことだけは出来ません。だから……」
「だから俺に君を殺せというのか?」
そう言って、竜はマリアをもう一度抱きしめた。
「償わせてくれ……必ず真紀を説得する。もう君をこんな目に遭わせたりしない。俺を信じてくれ。君が望めば、君にも明るい未来はあるはずだ。だから、どうか生きてくれ。自分のために生きられないなら、俺のために……昇のためにも生きてくれ!」
狭い部屋に、悲痛な竜の叫びが響いた。マリアは目を伏せたままその声を聞き、もう何も言えなかった。
竜はマリアの顔を撫でると、もう一度立ち上がり、ドアの外の警備員に声をかける。
「食事は何処に行けばもらえるんだ? 昨日から食べていなければ、言えばすぐに出してくれるだろう」
「ここから真っ直ぐ行ったところの建物で作っています。これを……」
警備員は腹を決めたのか、一枚の紙を差し出す。
「極秘任務なので見知らぬ人が来ても怪しまれないと思いますが、これがないといけません」
紙を見るとゼロ号棟と書かれており、食券のような証明書の役割を担っているようだ。
「ありがとう。誰か来るかもしれないから、引き続き見張りを頼むよ。くれぐれも彼女を……頼む」
竜はそう言い残すと、階段を上がっていった。地下の暗がりからだんだんと眩しい日の光を浴びて、竜の目からぼろぼろと涙が溢れ出す。絶望しきったマリアを見て、何も出来ずに救えなかった自分が腹立たしくてならなかった。
涙を拭いて歩きながら、竜は少し歩いた場所にある建物を覗いた。囚人が暮らしているところのようで、外からは鉄格子が均等に並んでいるのが見える。その一番手前に食事を作っている部屋があるようで、料理のいい匂いがしていた。
「ちょっと。ゼロ号の食事、間違ってるんじゃないの?」
調理場を覗くと、食事を作っている数名のネスパ人女性がいる。その中の女性が、レシピのような紙を見ながらそう言った。他の女性も紙を覗く。
「どうかしたの?」
「毒の量だよ。すでに少しずつ入れてあるから身体に蓄積されているだろうに、今回の量はすでに致死量じゃない」
「でも指揮官直々のお達しでしょ。間違うはずないわよ。それにネスパ人は身体が強いんだから、致死量といっても簡単には死なないでしょうよ」
竜はそれを聞いてドアを開けた。怒りを抑えて、証明証を差し出す。
「すぐにゼロ号の食事を頼みます」
目深に帽子を被り、低い声で竜が言った。あまりの気迫に、女性たちは慌てて料理を始める。
「は、はい」
「それから、俺も昨日から何も食べていないんだ。握り飯でいいから食べ物をくれないか」
竜はそう言うと、料理が出来るのを待った。
少しすると、料理の盆を女性が差し出して口を開く。
「こちらが囚人のもの。こちらがあなたのものです。決して囚人のものを口にしないようにお願いしますよ」
「わかってるよ。ありがとう」
そう言って盆を受け取ると、竜はそのままマリアのいる独房へと戻っていった。
途中、マリアが食べさせられるべき料理を捨てる。いつから毒入りの料理を食べさせられていたのか知らないが、真紀はマリアを殺すつもりなのかもしれないと思った。
数個の握り飯を持って、竜は警備員の前を堂々と通り、独房の中へと足を進めた。マリアはさっきと同様、起き上がったまま肩を落とし、ドアに背を向けている。
「マリア。握り飯を作ってもらった。一緒に食べよう」
竜は優しい顔をしてマリアの前に回り込むと、握り飯のひとつをマリアに持たせてやり、もう片方を自分で頬張った。しかしマリアは竜を見つめるだけで、それを食べようとしない。
「どうした? 何か食べないと、身体が辛いはずだ」
マリアは俯くだけで、もはや他に何の反応も示さなかった。思い巡らせ、動けないようでもある。
「マリア……俺はどうしたらいいんだ?」
自分の無力さを嘆いて俯く竜に、マリアは静かに握り飯をかじった。食欲などまったくない。しかし危険を冒してまで自分を助けにきてくれた竜を、これ以上、落胆させられない。
「マリア……」
竜は苦しそうに微笑むと、自らも握り飯を食べた。だが見つめるマリアの表情は虚ろで、見る影もなく痩せ細った姿は見ていられない。
握り飯を数口ほど食べたところで、マリアは咽返った。もう喉を通らない。
「大丈夫かい? 水を飲んで。苦しかったらもういいよ。少しでも食べておけば大丈夫だ」
マリアは頷くと、竜を見つめた。朦朧とする意識の中で、必死に意識を保とうとしている自分がいる。そして静かに口を開いた。
「ありがとうございました。お会い出来て、よかったです……」
力ない様子ながらも、マリアのその言葉に、竜は素直に喜んだ。マリアはそのまま言葉を続ける。
「でも……どうかもう、ここへは来ないでください」
心苦しかったが、マリアはきっぱりとそう言った。竜は眉を顰めてマリアを見つめる。
「マリア……?」
「私はここにいます……ここで罪を償います。もうすべて汚れきってしまい、誰にも顔向け出来ません。これ以上、惨めな私を見ないでください……」
潤んだマリアの瞳を見つめながら、竜はマリアを抱きしめた。
「君のどこが汚れてる? 惨めなのは俺のほうだ。せっかくこうしてやって来たのに、何も出来ずに手を拱いている」
「お願いです……もう私は、あなた様に守られるような人間じゃない。落ちるところまで落ちました……これ以上、ここへは……」
「マリア。愛してる……」
竜の腕の中で、マリアは目を閉じた。今ここでの告白など、マリアにとっては辛いものでしかない。裸同然の格好でボロクズのようになった姿のマリアにも、プライドというものがなかったわけではない。惨めな姿を、これ以上誰にも晒したくはなかった。
「ひどい。ひどいです……」
マリアが言った。竜はその真意をわかっていながらも、マリアを抱きしめる手を止めない。
「じゃあ、どう言えばいい? 俺の気持ちは変えられない。君が死にたかろうと、君が誰を想おうと、俺は君を愛してるんだ。だからどうしても助けたい。ここから出してやりたいんだ、マリア!」
必死な目で、竜はマリアを見つめてそう言った。さっきまで抱きしめていた手は、マリアの細い肩を掴んでいる。
「ここにいたいのか? マリア」
何も言わないマリアに、竜がそう尋ねる。マリアは首を振るものの、口を閉ざしたままだ。
「マリア」
「私は……ここにいます」
とどめの一言だった。マリアはそう言うと、思いを断ち切るように竜から背を向けた。
「ありがとうございました。どうかお元気で……」
マリアの言葉に、竜は立ち上がる。
「……わかった、マリア。さらうのではなく、真紀と話をつけて、筋を通してから君を迎えに来る。それまでどうか……耐えてくれ」
竜はマリアの背中にそう言うと、そのまま独房を出ていった。
残されたマリアは、ドアに背を向けたまま涙を流し続けた。竜がどんなに自分を愛してくれようと、消えない想いが胸にある。この辛い独房の中で、心の支えのように思い出すのは、いつでも亮と昇の顔である。竜の想いを受け入れられず、マリアは残酷な自分に気付いていた。だがどうしても、この気持ちを曲げることだけは出来なかった。




