2-19 絶望への入口
※暴力描写がございます。苦手な方はご注意ください。
マリアが連れていかれたのは、刑務所の建物ではなく、使われていない別棟に佇む小さな塔だった。マリアはその塔の地下まで歩かされる。やがてひとつのドアが見えた。どうやらこの塔には、ひとつの独房しかないらしい。
「入れ」
言葉と同時に、マリアは薄暗い裸電球だけの部屋に押し込められた。辺りを見回すと、地下らしく狭い部屋には窓もない。小さな換気扇から隙間風は通っているようだが、部屋の端に洗面台とトイレがあるだけで、カビの臭いまでした。他にはベッドも何もなく、部屋の隅に置かれた薄っぺらい布だけが、マリアの居場所を指している。この狭く汚らしい部屋に、マリアは一人取り残された。
「余程の罪を犯したらしい。この部屋は、重罪人の最後の場所だ。ここで何人もの人間が拷問されて死んだんだ。おまえも覚悟しておくんだな。これは毛布だ。せいぜい温まれよ」
男はそう言い放つと、マリアに向けて毛布を投げ、ドアを閉めた。
「待って……待ってください!」
取り残されたマリアが、やっとのことで口を開いた。
「私はこれから、どうなるんですか……」
マリアの言葉に、男はドアに付いた小窓を開けてマリアを見る。
「そうそう、食事は一日二回。うち一回は保存食のクッキーのみ。ドアの前に警備は一人つけるから安心しろ」
「……外へ出られるのはいつですか?」
「さあな。だが、おまえの刑はとりあえず、この独房に閉じ込められることだ。外での重労働もない。それが幸か不幸かは知らんが、労働での点数稼ぎはないわけだ。だから、あまり外へ出られることを考えないほうがいい」
「そんな! どうすればここから出られるんですか。どう罪を償えばいいのですか?」
珍しく叫ぶようにして、マリアが言った。こんな光も差さない独房で、これからどう希望を持って生きればいいというのだろう。
「……のたれ死ぬまで生きろ。それが刑だ」
そう言い放たれ、マリアは目を丸くした。男はそう言うと、そのまま階段を上がり去っていった。
残されたマリアは絶望した。刑務所に入れられとしても、償うために労働はさせられる。たとえそれが重労働でも、いつか働きぶりが認められれば、刑が軽くなることも出所出来る希望もある。しかしここで何もせずにいるとなれば、どう罪を償えばいいのか、マリアは絶望することしか出来なかった。
その頃、竜は篠崎とともに、篠崎の知り合いという刑務所に勤める役人と落ち合った。
「こいつが話してた小谷だ。刑務所に勤めてる。あいにく俺には、収容所に勤める知人がいなくてね」
やってきた大柄の男に、竜は会釈をする。
「わざわざ無理言って、呼び立ててすみません」
「いいですよ。こちらも織田家の方と直接話せるなんて光栄です。ロイヤルファミリーですからね」
小谷という男の言葉に、竜は苦笑する。
「残念ながら出来の悪い方ですがね。それより早速ですが本題に入らせて頂きます。最近、収容所に入れられた、マリアという女性のことなのですが……」
竜の言葉に、小谷が頷く。
「篠崎から聞いて調べてみましたが、今はまだなんとも……自分は刑務課への勤務なので、収容課関係のことは一切わかりません。もちろん収容所に勤めていても、部署が細かく分かれているので、直接そのマリアという女性を知っている者が身近にいるかどうか……」
「そうですか……でも、どうしても見つけ出したい女性なんです。小谷さんの知り合いで収容所に勤めている方がいたら、ぜひ探りを入れてくださいませんでしょうか? 彼女は自立していたのに収容所に入れられた憐れな女性です。僕の生命の恩人でもあります。どうしても助けたい」
必死な思いで、竜は丁寧にそう言った。
まっすぐに見つめる竜の顔を見て、小谷は静かに頷く。
「わかりました。なんとかかけ合ってみます。どういう事情か知りませんが、余程大事な方なんでしょうね。何かわかりましたら連絡を入れますので」
「お願いします。出来るだけ早く……」
「わかりました。では、これから夜勤なので失礼します」
小谷はそう言うと去っていった。
「やはり刑務課と収容課では無理か……」
篠崎が言う。そんな篠崎に、竜が首を振る。
「いや。でも確実に近付いてる。無駄なことじゃない。ありがとう、篠崎」
「いいさ。しかし、おまえもお人好しだな。いくら命を救われたからって、ネスパ人の女にそれだけ熱くなれるなんて」
その言葉に、竜は静かに微笑んだ。
「俺はネスパ人が嫌いだった……でも、人種なんて関係ないよな。それにあの子は、予想以上に織田家に深く関わってるんだ。うちの人間が本気で潰しにかかったら、ひとたまりもない。放ってなんておけないだろ」
竜はそう言うと、遠くを見つめる。
織田家と呼ばれる竜たちは、いわばロイヤルファミリーに近い存在だが、仕事以外に関しての情報はそれほど流れていない。そのため子供の人数も知れ渡っているわけではなく、たとえ昇が母親の違う子供として引き取られていると公になっても、スキャンダルではなく織田家は英雄として称えられるはずだ。なぜなら織田家ほどの大物家族では、ネスパ人の子供を引き取ることは勇気のいる行動の上、母親である真紀も寛大な心を持つと感じられる。
なにより亮は日本人とネスパ人とのハーフとして、この街を担う最適の人物として送り出されたため、子供の一人がネスパ人でも、なんら不思議はない。だがマリアが亮と関係していたことは、収容所や刑務所、織田家に勤めるごく限られた人物しかいないため、刑務所や収容所では、マリアがA級犯罪者だという以外の情報はわからなかった。
数日後。マリアはただ何事もなく、地下の独房にいた。
どこからか漏れる風はあるが、それ以外は何も感じられない。日差しも何もないので、時間はまったくわからなかった。ただ一日二回、ドアの下の隙間から運ばれてくる食事が、一日の時間を知らせてくれる。それもまた隙間から運ばれるだけで、人との接触もなかった。
そんな時、コツコツと階段を降りてくる音が聞こえた。聞き覚えのあるハイヒールの音である。
マリアはそれを聞きつけると、重い身体を起こす。石の床上に横になっていたため、身体が痛んだ。
やがて久々に開いたドアのそばで、真紀がマリアを見下ろした。
「あらあら。せっかく竜が体調を戻してくれたというのに、顔色も悪いし、元の細さに戻ったみたいね」
真紀が言う。マリアの姿は働き詰めの時のように、痩せ細っている。
マリアは答えようもなく、ただ正座をして真紀を迎えた。
「どう? ここの暮らしは。少しは慣れて?」
「……いつ、出られるんですか?」
思い切ってマリアが尋ねた。ここへ入れられてから、真紀とは一度も会っていない。
「さあ。もうしばらくは、ここにいてもらうつもりだけど。でも安心して。この部屋は極悪人しか入ったことがないけれど、あなたを殺すつもりはないわ。死ぬなら、もっと苦しんでもらわないと……」
真紀の言葉が恐ろしく響く。マリアは言葉を失って、生唾を飲み込んだ。
「反省はしています……罪は償います。だからどうか、償わせてください」
「いやね。そんな深刻な顔をしなくても、冗談よ。そう簡単には死なせるつもりはないけれどね。でも、善人ぶられていちゃ困るの。自分の罪を認めなさい」
「……自分の罪?」
「もうすでに、数えきれないほどの罪を犯してるわね。まず、法律で交流が禁じられていた頃に、亮と通じていた罪から始まるわ。その他にも、刑務所から逃げたこと、黙って昇を産んだこと、借金を肩代わりした私に返済していないこと、養育費を払っていないこと、収容所で問題を起こしたこと……切りがないわね」
マリアは口をつぐんだ。小さな罪が重なったとしても、それはすべて事実である。反論すべき場所は何処にもない。
「反論がないなら続けるわ。これからあなたには、それなりの痛みを味わってもらいます」
「痛み……?」
「入ってちょうだい」
真紀がドアの方へ向かってそう呼ぶと、先日マリアをここへ連れてきた男を始め、数人の男が狭い独房に入ってくる。
そして無言のまま、マリアの手首を縄で結び、天井に着いたフックでその縄を吊るす。マリアは天井から吊られた形で、顔を上げた。
次の瞬間、わざわざ手袋をはめた真紀の拳がマリアの顔に飛ぶ。それと同時に、男たちもマリアの腹や足を狙って痛めつけ始めた。先日と同じ状態である。
一発殴って離れた真紀は、マリアを見つめた。
「痛みはこれからよ。私も暇じゃないから、もう行くわ」
真紀はそう言い放つと、お付きのような役割の男に近付く。
「このまま続けさせなさい。ただし、殺さないように」
そのまま真紀は去っていった。
マリアは朦朧とする意識の中で殴られ続けた。抵抗しようにも、吊るされていては何も出来ない。いつ終わるのかもわからない中、マリアは何度も意識を失い起こされ、やっと終わって解放された頃には、死んだように倒れ込んだ。
だがその行為は、一日だけでは終わらなかった。真紀が来ない日も、真紀の付き人を筆頭に、数人の男がマリアを殴り続ける。気を失うことも許されず、マリアはただ罰というものを受けていた。
独自に調査を続けていた竜は、刑務課勤務の小谷の電話で、新情報を得ていた。
「収容所にはいない?」
竜が受話器を持ち替えて言う。
『ええ。収容所関係に当たってみたところ、資料に触れられる人間が見つかりましてね。最近入ったマリアという女性の情報もありましたが、収容された数日後には刑務所に移されているようです』
「え?」
小谷の言葉に、竜は目を泳がせる。
『しかし、自分は刑務所に勤務していますが、どの資料にも出ていないんです。もしかしたらA特級の犯罪者扱いなのかもしれません。それでしたら、極秘として別棟の独房にいる可能性が……』
「別棟は、どの程度あるんだい?」
『十数戸はあるかと。私の首もかかっていますし、別棟探しはとても極秘で進められません』
竜は押し黙った。そして静かに口を開く。
「わかった、ありがとう。もう少し粘ってみてくれないか。こちらも他の手を考えてみるから」
そう言って、竜は電話を切った。疑問だらけのマリアの失踪に、相手は不動の真紀だ。そう簡単には見つけられないだろうが、こんなところで諦められはしないと思った。
また数日後。真紀はマリアの見張りから報告を受け、独房へ向かった。
「指揮官」
ドアの前にいた男が、真紀を見て敬礼する。マリアは極秘でここに入れられているため、見張りも決められた男が交替でしている。
「様子は?」
「動くことが少なくなりました。何度もうわ言を言っていて、食事もろくに取ろうとしません。そろそろ医者に見せたほうが……」
「そう……ドアを開けて。私が様子を見るわ」
真紀は独房に入ると、倒れ込んだマリアに近付いた。以前なら足音がしただけでもすぐに起き上がったが、さすがの痛みと疲れで気を失ったままだ。
そんなマリアの顔を見つめると、こちらに気付くことなく、うなされるようにしている。汗が出ているが、あまり殴られた外傷は目立たない。
マリアの様子を確認し、真紀は背を向ける。すると、マリアがまたうなされるように声を上げた。
「……リョ、ウ……」
その言葉に真紀は立ち止まり、背を向けて倒れたままのマリアを見つめた。理由のつかない怒りが込み上げるが、気を失い無抵抗なマリアに手を上げる気はない。
真紀は静かに独房を出ていった。
「問題ないわ。傷薬は塗っているんでしょう? 塗る量を増やせば楽になるでしょう。様子を見て解熱剤などを投与して、食事はなんとしてでも食べさせて」
「わかりました」
「それから……今夜からは違う客が来るわ。見張りを強化してちょうだいね」
「は、はい」
訳もわからず、見張りの男が返事をする。そのまま真紀は階段を上がっていった。




