1-2 引力
次の日。亮はマリアと初めて会った場所へと向かった。路地裏のアパートである。
しかし、そこには誰もいない。亮はそのままマリアが座っていた場所に座る。すると、一匹の猫が近付いてきた。
「おまえは……あの時、マリアにパンをもらっていた猫だな? ここはおまえの縄張りか」
亮がそっと手を伸ばすと、人に慣れているのか、猫は警戒しながらも近付いてきた。
「そうだ。これやるよ」
ポケットを探り、亮は持っていたビスケットを猫に差し出す。少し離れた場所で、猫はビスケットに食らいついた。
「おまえも孤児なんだろうか……」
そう呟くと突然、猫が走り出した。
「おい……」
亮が立ち上がると、そこにはマリアが立っている。
猫がマリアの足に擦り寄ったので、マリアは猫を抱き上げると、亮を悲しげに見つめた。
「……なぜ、そんな悲しい目をするの?」
亮がそう尋ねると、マリアは静かに口を開いた。
「あなたとは、もう会えないと思ってたから……」
「どうして? 昨日のことを謝りたかったんだ。ごめん。怖い思いをさせたね……」
マリアは、大きく首を振る。
「ううん。でももう会わないほうがいいわ……あなたに食べさせてもらわなくたって、私は今まで通りやっていける。もう私の前に現れないで……」
「……迷惑?」
辛そうな顔を見せて、マリアは首を振った。
「じゃあ……」
亮が近付こうとすると、マリアは後退りする。そんなマリアの目から涙が滲んだ。だがマリアはそれを零すまいと、必死に堪えている。
「迷惑だったなら謝るよ……ごめん。良かれと思っていたが、僕のエゴだったみたいだ……」
亮の言葉に、マリアは首を振った。
「そうじゃない。苦しいんです……あなたといて殺されるのなら怖くない。でも、わからないの。あなたを失いたくないのに……近付いたら、あなたも罰せられるわ」
やっと亮は、マリアの本心を知ることとなった。亮はマリアを見つめると、静かに口を開く。
「それは、僕の台詞だ……」
亮は静かにマリアへと近付いていく。
「来ないで……」
そう言うマリアを気に留めず、亮はマリアを抱きしめた。
「どうしてすぐに気付かなかったんだろう。初めて会った時から、この気持ちは始まっていたのに……これが恋なんだって、やっと思い知ったよ……」
マリアは目を見開いた。マリア自身、恋をするのは初めてだった。だがそう言われれば、一番しっくりくる感情だと思う。
「マリア。僕は君のことが好きだよ」
亮の腕の中で、マリアは堪え切れなくなった涙を流した。そこは今まで感じたことのない、暖かな場所だった。
「亮……」
「君には迷惑をかけない。君を死なせたりしない」
覚悟を決めたように熱い眼差しを注ぐ亮だが、マリアはこれを恋だと認めても、不安な表情を隠せない。
「私のことはいいけれど、きっとすぐにバレてしまう。あなた、罰せられるわ……」
「もしも君が僕を愛してくれると言うのなら、僕は君を絶対に死なせない。罰も恐れない」
それを聞いて、マリアは亮を抱き返した。互いの愛が伝わった瞬間だった。
「愛してる」
「私も亮を愛してる……」
誰も来ない路地裏ながらも、二人は離れられない恐怖を感じていた。誰かに見られればひとたまりもない。しかし交流が禁じられている今、亮は決意していた。
自分が次期最高指揮官の候補者に入っているならば、全力で頑張りたいと思う。今まで優柔不断だった亮が確実に変わろうとしていたのは、面と向かってマリアのようなネスパ人に会ったからに違いない。そしてマリアとの関係を壊さないためにも、亮は決意しなければならなかった。
「僕は頑張るよ。君と一緒になれるように、最高指揮官を目指す」
「素敵! あなたが指揮官になったら、きっとネスパ人は救われるわ」
マリアの笑顔を見て、亮も大きく頷く。
「そう出来るように頑張る。近くに部屋を借りよう。君が外でなんか寝なくてすむように。恋人として……そうさせてほしい。いい?」
「……はい」
嬉しさをかみしめるように、二人はそっとキスをする。理屈抜きで二人は惹かれ合っていた。
しかし、その光景を一部始終見ていた人物がいた。亮の異変に気付き、亮を尾行していた卓である。
「亮……?」
卓は信じられない思いで、その場を後にした。
次の日。役人所内の喫茶店で、卓は一人の女性と待ち合わせていた。
「久しぶりね、卓。あなたが私に用だなんて、珍しいじゃない」
そう言って卓に近付いてきたのは、村井真紀。二十二歳のその女性は、セミロングの黒髪をなびかせた美しい女性だった。役人としても一流で、すでに大事な役職のついているキャリアウーマンである。
真紀は亮の家族と仲の良い家柄で、親同士が決めた亮の婚約者だ。卓とは年が同じで、友人でもある。
「実は言いにくいんだけど……亮がネスパ人の女に、心奪われているみたいでね……」
そんな卓の言葉に、真紀は目を丸くした。
「それは本当なの?」
「ああ。君は亮の婚約者だし、どうにかしてほしい。亮は俺の言うことなんか聞こうとしない。亮の親友として放ってはおけない」
「信じられない。あのお固い亮が……」
「でも事実だよ。この目で見た」
「……わかったわ。あなたも協力してくれるわね?」
「もちろん」
数日後。亮は新しく借りたマリアの家へ行こうと、ホテルのような宿舎の部屋を出ていった。
「亮」
亮が部屋の鍵を閉めていると、そんな女性の声が聞こえて振り向いた。するとそこには、真紀がいる。
「真紀……」
「出かけるところ?」
「うん、ちょっと……」
「話がしたいんだけど、ちょっといい? それとも誰かと予定が?」
「いや……いいよ、入って」
部屋の鍵を開け直し、亮は真紀を部屋の中へと引き入れた。真紀は子供の頃から知っているが、勝気な性格で年上ということもあり、亮は少し苦手なタイプである。
「同じ街にいるのに、なかなか会えないわね」
真紀の言葉に、亮はお茶を差し出しながら笑う。
「部署が違うからね……君のほうが役人として先輩だし、いつも忙しそうだね」
「まあね。私は役人になってすぐにここへ配属されたから、任せられることも多くて……それに今の仕事は、犯罪者の管理だもの。収容所関係から刑務所まで。犯罪の多いこの街では、管理なんて大変よ」
亮の仕事は総合的なもので、最高指揮官の真下にいる。真紀は犯罪専門の部署で、収容所や刑務所の管理をしている。同じ街に住んでいても、お互いに忙しく、そうそう会う機会もない。
「あなたのほうこそ頑張ってるみたいね。次の最高指揮官候補に、早くも挙がってるじゃない。お父様のお力とはいえ、名誉なことよ。頑張ってね」
「ありがとう……今まで自信がなかったけれど、なれるように最善を尽くそうと思ってる」
「……変わったわね。今までのあなたなら、力を持っていても自らやろうとしなかったのに……どういう心境の変化?」
その問いに亮は身構えた。真紀は昔から鋭い女性で、マリアとつき合っていることも、慎重な態度をしなければ、すぐに見破られてしまうだろう。
「べつに……この街に触発されただけだよ」
「ふうん、まあいいわ。あなたがその気なら、あなたのお父様も私のお父様も、あなたを推薦してくれるでしょうし」
「父さんは関係ないよ。そんな力で、最高指揮官になんかなりたくない」
「じゃあどうするつもり? 確かにあなたは優秀な人間だけど、推薦無しじゃ最高指揮官なんて夢のまた夢ね。あなたが候補に出てるのだって、バックにお父様たちがついてるからに決まってるじゃない」
「それはわかってるけど……そんなふうに思いたくない」
亮にもプライドがあった。父の背中を追いかけてきたものの、最高指揮官になれるチャンスまで、親の七光とは思われたくない。
「まあいいわ。せいぜい頑張って」
「そんなことを言いに来たの?」
あっさりとそう言う真紀に、亮が呆れて言う。
「お言葉ね、亮。結婚式の相談をしに来たのよ」
「……真紀。悪いけど、君との結婚は有り得ない。親同士が決めたんだ。君だって嫌なんだろう?」
亮はきっぱりとそう言った。今までの亮ならば、優柔不断な態度ばかりで、こうもはっきりとは言えなかったはずだ。その変わりようには、真紀も驚いている。
「ええ。私だって、親が決めた結婚なんて嫌だったわ。でもあなたは別。私はあなたのこと好きよ」
「嘘だ。君は兄貴と……」
「確かに、あなたのお兄さんとは恋人関係にあったわ。でも終わったのはかなり前……あなたと正式に婚約してからは、あなたのことだけを見てきたわ」
真紀もきっぱりとそう言った。
真紀は亮の兄と恋人関係にあったが、今はその関係はないという。兄は日本にいるので、もう関係がないことは亮も知っていた。だが今の亮にはマリアがおり、真紀を受け入れることは出来ない。
「真紀……」
「私はあなたのことを本気で愛してるわ。それだけはわかっておいて」
そう言うと、真紀は部屋を出ていった。
亮はしばらく考えた後、マリアのもとへと向かった。
「亮……亮!」
マリアの部屋で、亮はそんな声でハッとする。どうやら考え事をしていたらしい。
「え? ああ……」
「どうしたの? さっきから、ぼうっとしてる」
「うん……」
「見て。亮が用意してくれた部屋」
部屋の真ん中で、マリアがターンをして見せた。小さなアパートの一室だが、家具も一通り揃っている。今まで路上生活を送っていたマリアにしてみれば、天国のような部屋だった。
「気に入ってくれた? 急だったから、狭いところしかなかったんだけど……」
「うん、嬉しい! 屋根があって、ちゃんとしたベッドで寝られるなんて」
マリアは本当に嬉しそうにはしゃいでいる。それにつられて亮も幸せをかみしめていた。
「何か必要な物があったら、遠慮なく言って」
「ううん。ベッドだけで十分よ」
「でも、もっと必要な物が出てくるよ。そんな時は言って」
「ありがとう。でも私もなんとか仕事探してみる。お金の繋がりしかないみたい……そんなの嫌だもの」
そう言うマリアは、未来に希望を持っているように輝いている。しかし現実はそう甘くはないはずで、亮は心配そうに顔をしかめる。
「そんな心配いらないよ」
「でも、決めたの」
「……大丈夫? ここじゃ仕事なんてほとんどない。ましてや女性は、夜の仕事ばかりだ」
「それでも探してみるわ。体を売らなくても女の仕事はあるはずよ。見つからなくてもくじけないわ」
そんな姿が頼もしくも誇らしくもあり、亮はマリアを抱きしめ、そしてキスをする。深い愛情に満たされ、二人はもう離れられなかった。
それから数日間、二人は表でデートすることなどなかったが、マリアの部屋で会うことを繰り返していた。禁じられているとはいえ、それが悪いことだとは思わなかったし、一緒にいるだけで幸せだった。
「亮」
その日も仕事帰りの亮が部屋を訪れ、それをマリアが出迎える。
「やあ」
「あら、猫?」
マリアが言った。亮の手には、見慣れた猫がいる。
「ああ。近くにいたんだ。前に会った猫だろう。僕も面倒見るから、ここで飼ってやらないか?」
「ええ、もちろん。まずは洗わなきゃね」
猫を抱きながら、マリアは浴室へと向かう。
「これから夕食の支度するんだろう? 食材、買ってきたよ」
「また? 私も買っちゃった」
「ハハハ。いいじゃないか。今日は豪華な食事にでもしよう」
「ええ」
二人は微笑む。幸せすぎて怖いくらいである。
「僕も手伝うよ」
その時、亮のポケットベルが鳴った。ハピネスタウンの役人の通信手段は、小型無線機かポケットベルが主流だ。
「あ、ごめん。戻らなきゃ……」
残念そうに亮が言う。マリアも残念に思いながらも、仕事なので笑って送り出そうと頷いた。
「うん」
「このところバタバタしてるんだ。最高指揮官が選ばれるのが早まりそうだしね」
「そうなの……頑張ってね」
「ああ。早く片付けて戻ってくるよ」
「本当?」
「うん。きっと戻る」
「じゃあ、遅くなっても待ってる」
二人は玄関先で抱き合い、軽くキスをした。それ以上長ければ、きっと離れられないだろう。
「……じゃあ、行ってくるよ」
「行ってらっしゃい。気をつけて」
後ろ髪引かれる思いでいながらも、亮は来てすぐにマリアの部屋を後にした。
亮が役人所に戻ると、真紀が出迎えた。
「真紀……呼んだのは君か?」
「そうよ。あなた最近、どこを出歩いてるの? 宿舎にいつ行ってもいないじゃない」
「べつに……視察とかだよ」
「そう、視察。私が知らないとでも思っているの?」
「……なんだって?」
ただならぬ雰囲気に、亮は息を呑んだ。
「もう二度と会えないわよ」
「……何のことだ」
「マリアって子よ」
亮の目は、大きく見開いたままだ。恐ろしいことが起きたと悟っても、もう何も考えられない。
真紀は犯罪者に対してのエキスパートだ。亮よりも情報網が優れていることはわかっていたが、こんなに早くに見つかるとは思ってもみなかった。
「どうしてそれを……」
「卓が教えてくれたの。今頃、彼女を説得しているわ」
「卓が説得? 君を軽蔑するぞ!」
珍しく取り乱した亮は、マリアの部屋に戻ろうと背を向ける。だがそんな亮の腕を、真紀が掴んだ。
「軽蔑? あなたに私を軽蔑する権利があると思っているの? 私は仮にもあなたの婚約者なのよ。あなたの負けはわかりきってる。ネスパ人との交流は、しゃべることさえ禁じられているんだから……誰にも言わないことを感謝しなさいよ」
真紀が冷たく言い放つ。美人が余計に鋭く見えた。だが亮も黙ってはいない。
「……誰にでも言えばいいよ。僕は本気で彼女を愛しているんだ。だから君と結婚は出来ない。君も本当は反対しているはずだろ。正直になってくれ」
「そんなの無理よ。あなたの上には誰がいると思っているの? あなたのお父様よ。私の父もいる。私を侮辱すると許さないから」
「……」
亮は真紀を振り切って、外へと飛び出していった。