2-15 葬り去った愛
一週間後。休息最後の日の早朝、マリアが居る部屋の呼び鈴が鳴った。この一週間、竜以外に人が訪ねて来ることはなく、呼び鈴も鳴らなかった。誰かが来ても出なくていいと言われているが、マリアは気になってドアを見つめる。
だが呼び鈴は一度鳴っただけで収まり、ドアの下の隙間から紙が入れられていた。
マリアが紙を取ると、マリアへのメッセージが書かれている。
『マリアさん。今後の件で話があります。本日昼に伺います。織田真紀』
真紀からの手紙だった。
マリアは手紙をテーブルの上へ置くと、今後のことを考えていた。
昼になると、マリアのいる部屋の呼び鈴が鳴った。真紀のはずである。
マリアはドアを開けると、やはり目の前に立っていた真紀にお辞儀をした。
「元気そうね。顔色も良くなって、安心したわ」
真紀はそう言うと、部屋の中へと入っていく。
「ありがとうございます」
後ろからマリアが返事をする。
真紀はそのまま椅子へ座ると、目の前に置かれていた自分の伝言メモを破って捨てた。
「こういうものは、すぐに破棄するように」
「すみません」
マリアはすかさず謝ると、お茶を差し出した。
「ありがとう。時間がないので座って」
促されるままに、マリアは真紀の前に座る。
「早速、本題に入るわ。まず、あなたは明日からどうするつもりなの?」
「はい。明日から、また元のように働きます。休んでいた店にも、竜様が取り計らってくださったので、戻れることに……」
真紀は出されたお茶に手をつけようともせず、まっすぐにマリアを見つめている。
「そう。じゃあその仕事場には、私の部下から連絡を入れておきます。明日からあなたは、収容所に入るのよ」
その言葉に、マリアは驚いた。
収容所とは、路頭に迷った人間を収容し、自立が出来るまで働かせる場所だ。この近くには、刑務所と隣り合わせの一番大きな収容所がある。だが良い噂は聞かず、重労働を課せられると聞いた。
マリア自身も収容所に良いイメージはなく、今までも捕まらないように、何度も逃げ回ってきたところである。
「収容所……」
「そう。そこで働いてもらうのが一番だと思ってね。一人で黙々と稼ぐより、仲間がいたほうがいいでしょうし、食事も睡眠も、今までよりは規則正しい生活が出来るんじゃないかしら」
「どこの収容所に、いつまで……」
「最高指揮官邸の隣にある、中央収容所に。期間は設けないわ。まあ、あそこなら竜も簡単には入れないことを見越して、とりあえず様子を見させてもらうわ。竜には言わないで、今まで通り働くと言いなさい。すぐに気付くでしょうけど、先にバレると騒がれて面倒だから」
「……わかりました」
いつもの如くマリアに拒否権などない。マリアの返事を聞き、真紀は立ち上がった。
「じゃあ明日の朝、ここへ迎えが来ます。逃げようなんて思わないでね」
「はい……」
淡々と話を進め、真紀はそのまま部屋を出ていった。
残されたマリアは、そのまま立ち尽くす。これから何が起こるかわからないが、少なくとも収容所に入れば、誰の助けもないだろう。もう一生、そこから出ることは出来ないかもしれない。刑務所よりはいいが、逃げ場がないのは同じだった。
マリアは竜から預かった部屋の鍵を持つと、久しぶりに街へと出ていった。
もう最後かもしれない街の様子を焼きつけるように、マリアは辺りを見回す。
普通に収容所に入っても、そう簡単には出られないと聞いている。まして罪人であるマリアには、いつ刑務所に移されてもおかしくはなく、将来への希望など少しもない。
マリアはいつも働いている、レストランへと向かっていった。
「マリアじゃないか! すっかり顔色が良くなったな」
入るなり、休憩に入ったばかりの店主がそう言う。
「あ……」
久々に見る店主の顔に涙ぐんだものの、マリアはそれを堪えて微笑んだ。
「マスター……迷惑かけてごめんなさい」
「なに言ってるんだ。少しでも休めて良かったじゃないか。こっちはおまえがいなくて大変だったんだぞ。明日から、またよろしくな」
店主の言葉に、マリアは顔を曇らせる。
「どうかしたのか? まだ体調が……」
「違うの。ごめんなさい……休んだりして散々迷惑かけたのに、明日からも来られなくなってしまって……」
「ええ? だってあの竜っていう役人さんからは、明日からって……」
「収容所に入ることになったんです……」
マリアの言葉に、店主は目を丸くして驚いている。
「な、なんだって、そんなところに……心配しなくていい。おまえはここで雇ってやるから」
マリアは首を振る。
「本当にごめんなさい。どうしても入らなければならなくなって……ごめんなさい」
「マリア……」
「また別のお役人様が事情を説明しに来ると思うけれど、マスターには直接言いたくて……今まで本当にありがとうございました」
そう言ってお辞儀をするマリアに、店主はそばに寄り、マリアの肩を抱く。
「大丈夫なのか? 本当に、どうしても行かなきゃならないのか?」
「……ええ」
「あの竜って役人さんは知ってるのか? あの人は結構なお偉いさんなんだろ。それでもどうしようもないのか?」
「竜様には絶対に言わないで……私は大丈夫だから」
「マリア……」
もう一度、マリアは深々と頭を下げた。
「本当にありがとうございました。マスター、お元気で」
「……おまえもな、マリア。また出てきたら、いつでもうちへおいで」
「ありがとうございます……本当に、今までお世話になりました」
マリアはそう微笑むと、静かに店を出ていった。
店から出たマリアは、そのままふらふらと街を徘徊する。そして、ふと路地裏へと入っていった。何かが呼んでいるような感じで、足が勝手に動き出す。
しばらく歩くと、そこには亮と初めて出会った、とあるレストランの裏口があった。今では再開発でこの辺りは廃墟となっており、レストランもやっていない。
誰も居るはずのないその場所に、マリアは久しぶりに訪れた。懐かしい思い出が溢れ出す。
「マリア……?」
その時、そんな声に、マリアは驚いて振り返った。ここには亮との思い出しかない。
マリアを呼び止めたのは、亮その人だった。
「りょ……旦那様。どうしてこんなところに……」
思わずマリアは、亮の名を口に出しそうになった。まるで時が逆戻りしたかのように、温かな風が吹き抜ける。
亮も思わぬ出会いに驚いていた。だが辺りを見回し、一目を避けると、静かにマリアへと近付いていく。
「君こそ……」
「……なんだか、足が勝手に」
「僕もだ……」
二人は悲しく微笑み合った。亮は俯くと、元のレストラン裏口へと座る。
「ここで初めて君に会ったんだったね。君はここに座って、なけなしのパンを野良猫にやっていた」
マリアは微笑み、大きく頷いた。
「盗みはいけない。でも、君の優しさが痛いほど伝わったよ」
「旦那様……」
亮はマリアを見つめ、辛そうに微笑んだ。
「いつだったか、君を幸せにすると誓ったはずだが、今の僕が幸せでも、僕が誰かを幸せに出来ているのかはわからない」
その言葉に、マリアは悲しそうに首を振っている。亮は微笑みながら、話を続ける。
「でもマリア。君には幸せになってもらいたい。僕がこうして今、幸せでいるように……」
マリアは静かに頷いた。そしてゆっくりと口を開く。
「私の幸せは、昇が幸せでいること……あなたが幸せでいることです。私は今、幸せです。昇があなたのそばで育ててもらえること、感謝しています」
「……マリア」
亮は立ち上がる。過去を思い出し、マリアを愛していたことを思い出す。しかし今は絶対に叶わぬ夢だ。なにより今の亮は、真紀と子供たちを愛しているのだ。それをマリアもよく知っている。
しかし亮は突然、マリアを抱きしめた。互いに封印していた気持ちが蘇るようだった。
「旦那様……」
「少しだけ。今だけ、亮と……頼む。マリア……」
マリアの目から、涙が零れる。
「……りょ……亮……」
亮は目を瞑り、マリアの温もりを感じていた。殺してきた感情が、亮にも涙となって溢れ出る。
かつて愛した女性に、亮は手を差し伸べることさえ許されていない。それに耐えるには、マリアへの感情を忘れることだけだった。それでも二人きりで出会った今、妨げるものは何もない。この場限りでも、すべてを忘れたかった。
「マリア……」
しばらくして亮はそう言うと、静かにマリアから離れた。時を告げる鐘が鳴り、現実が二人を呑み込む。
「すまない。もう行かないと……」
マリアは涙を拭くと、笑って頷いた。余計に別れが悲しかったが、夢のような時間でもあった。やはり自分の中で、亮しかいないのだと認識させられる。
「昇のことは安心していい。君を不幸にしてまで手に入れた財産だ。大事に育てる」
微笑みながら、マリアはただ頷いた。
「君は大丈夫か? 一ヶ月の出張から帰ってきたばかりで、今の状況は知らないんだ。真紀に何か言われているなら、言ってくれ」
「いいえ。奥様は一週間の休息時間を与えてくださいました。私のことは心配いりません」
「……そうか。よかった」
亮は静かに微笑んだ。安堵の意味には二通りがある。マリアが休めてよかったこと、そして真紀がマリアに対して優しさを見せたところだ。
そうと知って、マリアも頷く。
「もう行ってください。私も、もう行きます」
「……ああ」
二人は未練を断ち切るように、互いに背を向けると、静かにその場を去っていった。
歩きながら、マリアの目から涙が伝う。やがて世界のすべてが滲み、マリアは足を止め、その場にうずくまった。
今まで堪えていた不安や悲しみ、すべての感情が溢れ出し、マリアは声を上げて泣いた。
心の底では、亮に戻って来てほしかった。未だ消えることのない亮への愛情は、もう一度押し込めるには時間がいるだろう。しかし久しぶりに感じた亮の温もりは、倒れかかったマリアの心を、芯から強く支えるようでもあった。




