2-7 束の間の休息
マリアが眠ったことを確認すると、竜は宿舎を出ていった。そして宿舎の近くにある、役人所へと出向く。まだ夜も明けきらない早朝にも関わらず、夜勤の役人で人の気配がある。
竜は自らが所属する治安課の部屋へと入っていった。
「織田?」
そう声をかけたのは、夜勤の篠崎である。
竜は治安二課の指揮官をしており、篠崎は右腕ともいえる副指揮官で、相性もいい。また、竜を呼び捨てにしているただ一人の男だ。
「どうした、こんな時間に」
「悪いけど、今日は休ませてもらうよ」
そう言いながら、竜は自らの机の前に座る。一晩で集まった報告書が並び、竜はそれに目を通しながら、今出来る仕事に手をつけた。
「え? なんだよ、急に」
「建前上は、ちょっと怪我してる。さっき、家の前で暴徒に襲われてね」
「大丈夫なのか?」
「ネスパ療法というやつのおかげで、小さな傷程度だよ。急ぎの仕事は片付けるから、今日は休ませてくれ」
「べつにいいよ、そんなの。俺がやっておくから。襲われたのは本当なんだろう? 休んでおけよ」
「ある程度はやっておくよ」
竜はそう言って、書類の山に向かう。いつも適当にやっている竜でも、他人に迷惑をかけるほど、仕事を溜めたことはない。
一通りの仕事を片付けると、今日はもう休むことを篠崎に告げ、竜は足早に役人所を出ていった。
次に竜は、犯罪処理課へと向かった。細かく分ければ収容所の処理や刑務所の運営など、さまざまな仕事がある。ここの総指揮官は真紀である。真紀は仕事熱心で、早朝から仕事に入るのが日課だ。
個室となった指揮官室で、真紀は思わぬ人物の訪問に驚いた。
「竜……珍しいわね。あなたがここに来るなんて。怪我はなかったの?」
「おかげさまで」
竜は棚の上に用意されていたコーヒーを手にすると、ソファに座って口をつける。
「相変わらず、無礼なところは変わらないわね」
「よく言えば、男らしいだろ?」
二人は不敵な笑みで互いを見つめる。
「用は何? あの子のことなら聞きたくないわよ。あなたが出る幕なんてないんだから」
先手を打たれて、竜は立ち上がる。そして一万パニーを真紀の前の机に置いた。
「……なに?」
「マリアの今日のノルマだ。今日は休ませてやってほしい」
竜の言葉に、真紀は目を見開いた。
「それは、あなたが言うこと? まさかあの子と何か……」
「何もない。いくら俺が女ったらしでも、どうしようも出来ないよ、あんな不幸な子」
「じゃあどういう意味? あの子がどうかしたの?」
少し苛立って、真紀が顔を背ける。
「あの後倒れて、俺の宿舎にいる。医者に見せたら過労だそうだ。本当は二、三日安静にしろと言われているが、あの子は今日でも復帰しようとしていた。今日はなんとか休ませるから、承知しておいてくれ。その金は今日の分だ」
そう言った竜を見つめたまま、真紀は机に置かれた金を弾き返した。
床に落ちた金を静かに拾い上げ、竜は真紀を見つめる。
「私があなたからのお金を受け取るとでも思ったの? 持って帰って。あの子の借金が、一日分増えるだけじゃない。今日来ないのは承知したわ」
「借金があるのか?」
「当たり前でしょう。刑に服さないで出してやってるのよ。本来、刑務所で働くべきお金、彼女が今まで住んできた家賃の借金肩代わり、昇の養育費、挙げれば切りがないわ」
竜は机を叩いた。
「……一度聞いてみたかった。なぜあの子にばかり辛く当たる?」
真剣な顔の竜に、真紀が悲しく微笑む。
「愚問だわ、竜……女には許せることと許せないことがあるの。理由なんて重要じゃないわ。私はあの子に、夫の子供まで産まれて顔を潰された。ただそれだけよ。出来れば死んでほしいと思ってる。じわじわと、苦しみながらね」
真紀の言葉に、竜も静かに微笑んだ。
「趣味が悪いな。だが、宣戦布告と捉えるよ。真紀……俺は彼女を愛してる」
無表情の真紀の目が、一瞬大きく見開いたのがわかった。だがすぐに微笑む。
「私も宣戦布告として捉えるわ。でも勝つのはいつでも私よ、竜……まだ悪夢を見ているの? あなたは結局、弱い男なのよ」
今度は竜の目が見開いた。無意識に手を振りかざす。しかし目の前で微動だにしない真紀を前に、竜は落ち着きを取り戻して、悲しく微笑んだ。
「そうだな……おまえの言う通りだ。親父にも見放され、弟には先を越され、今の俺に怖いものはない」
「そう。でもあなたはまだ、あの子を知らないだけ。同情しているだけよ。あの子を救えば自分も救われるとでも思ってるの? すぐに後悔するわよ。結局あの子だって罪人。罪人が最後に行き着くところは同じよ」
「悪いが俺も、自分の気持ちを受け入れたって、あの子をどうこうするつもりもないんだ。亮との修羅場も避けたいんでね。だけど、おまえが本気であの子を殺そうとするなら、こっちも本気でおまえを止める覚悟だ。覚えとけ」
竜はそう言い残すと、真紀に背を向けて去っていった。
残された真紀は、無表情のまま机に向かっている。そして静かに目を瞑った。
いつでも竜は喧嘩腰で、面と向かって話し合ったこともない。たまに本音で話すのは、今日のように真紀の心を怒りで満たす話題ばかりだ。真紀は深い溜息をついた。
それから数時間後、マリアはまた目を覚ました。すると遠くから寝息が聞こえる。マリアが顔を起こすと、ソファに眠り込んだ竜の姿が見えた。
マリアは起き上がり、ベッドから降りた。途端、全身に激痛が走り、だるさに汗が吹き出る。きっと普段使わない力を使ったからだろう。静かに息を整えると、竜のそばへ近寄った。
眠っていると余計に、竜は亮に似て見える。母親は違う二人なのに、どうしてこうも似ているのだろう。だが思えば、昇も亮によく似ている。
マリアは優しく微笑むと、竜の足から落ちかかった毛布をかけ直そうとした。
その時、突然、竜の手がマリアの手首を捉えた。それと同時に竜の目が見開く。
「マリア……」
竜も驚きながら、マリアと認識し、起き上がる。
「ごめんなさい。起こしてしまったようで……」
「いや、こっちこそごめん。驚かせたね……仕事柄、寝起きが良くなってるんだ」
そう言って立ち上がり、竜は冷蔵庫からジュースを取り出して口をつける。そして新しいジュース瓶を取り出すと、マリアに差し出した。
「君も何か飲んだほうがいい」
「ありがとうございます……」
「もう昼だな……今日は俺も仕事を休んだんだ。ゆっくりして、ルームサービスでも取ろう」
「仕事を? 私のせいで……?」
「言うと思ったけど、俺のせいだよ。一応、怪我もしたんだしね……悪いけど、俺の好きにさせてもらえるかい? こんな機会は滅多にないだろ。俺は命の恩人である君を助けたいと思ってる。出来ればきちんと話もしたいと思ってる。それだけだよ。それに、有休は使わないと怒られるんだ」
早口なまでの竜の説得に、マリアも察してもう何も言わなかった。甘えてはいけないと思いながらも、今日くらいは竜の親切に甘えようと思う。
「仕事場には連絡しておいたよ。あと、真紀にも……せめて今夜一晩はここにいてくれ」
「……ありがとうございます」
マリアは頷くだけだった。明日からのことは何も考えていない。しかし鉛のように重い身体を治さねば、明日から働くことも困難だろう。マリアは素直に、竜の厚意に従うことにした。
やがてルームサービスである料理が運ばれてきた。宿舎ながらもホテルであるその場所は、サービスが充実しており、一人身の竜も不自由しない。
久しぶりの豪華な食事を前に、竜の優しさにも触れ、マリアの心も癒されていた。
その日、マリアは何度も眠りにつき、次第に顔色も良くなっていった。
夜。マリアは目を覚ました。またいつの間に眠っていたのか、すでに夜中といわれる時間である。さすがによく眠ったようで、すぐに目が覚めた。
すると、うなされるような声が聞こえてきた。マリアが顔を上げると、ソファで眠っている竜が、苦しそうな表情を浮かべている。
「竜さん?」
マリアは慌てて竜のそばへ寄った。さっきは寄っただけで目を覚ましたが、今度は起きようとしない。ただ汗をかき、うなされるように苦しげな顔をしている。
ためらいながらも、マリアは竜の肩を揺り動かした。途端、竜が目を開ける。そしてまじまじと、マリアを見つめた。
「大丈夫ですか?」
「……マリア」
竜は確認するようにマリアを見つめると、頭を抱えて起き上がった。
「ああ、ごめん……いつの間に眠ってたんだな」
「うなされているようでした。すごい汗……」
「大丈夫だよ」
そう言って、竜は目の前に置かれていたジュースの瓶に口をつける。荒くなった呼吸を整えるように息をすると、竜は俯いた。
「本当に、大丈夫ですか?」
そう言って触れようとしたマリアの手を、竜は無意識に振り払った。
「すみません……」
驚いてそう言ったマリアに、竜は罪悪の念に首を振り、行き場を失くしたマリアの手を握り締める。
「ごめん……ごめんな」
「いいえ……」
途端に沈黙になったが、竜が重い口を開く。
「……実は、悪夢を何度も見てる。子供の頃からずっとだ……だからあんまり寝なくなった。特に夜はね。遊び歩いて朝方寝る……臆病な男だよ。軽蔑したかい?」
恥ずかしそうに苦笑する竜に、マリアは首を振る。
「悪夢って……?」
聞いてはいけないことかとも思ったが、自然の流れでマリアが尋ねた。竜はためらいがちに少し間を置くと、静かに口を開く。
「……昔見た、現実だ。亮の母親が死ぬシーンだ」
それを聞いて、マリアは目を見開いた。竜は深呼吸をするように、大きく息を吸っている。